人間ーーミクロコスモスとマクロコスモス(6) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

 「絶対的人間キリストにおいては、神すら人間にならなければならなかった」、と語るベルジャーエフにおいては、人間論は彼の哲学の中心点である。しかしそれは、「自然内的・世界内的人間論」ではなく、人間の創造的使命についての奥義を開示する「新たなキリスト教的人間論」でなければならない。ここで、彼が言っていることは、キリスト教人間論ではない。それは「新たなキリスト教的人間論」であることに、注目しておかなければならない。

 

 

 「新たなキリスト教的人間論」とは、まだ誰にも開示されていない人間論である。だから「新たな」である。したがってそれは、キリスト教によっても開示されてはいない。そしてこれは、キリスト教人間論なのではなく、キリスト教的人間論である。つまり、これはキリスト教がそれを認めるとは限らないことを内に含んでいる。

 

 

 ではなぜ彼は、これをただ「新たな人間論」とは言わず、「新たなキリスト教的人間論」と言わなければならなかったのだろうか。それは、教父的(*教会的)キリスト教とは別にして、彼に絶対的人間としてのキリスト体験が霊的に起こり、彼はその人間論を直観的に認識しているからである。しかもそれは彼自身が言うように、段階的認識であり、彼の魂の深まりと共に深まりゆくものである。それは1回限りのものではなく、彼の真理探求の深まりによる、「認識する魂の深まり」に伴って進行していくのである。

 

 

 

 

 では彼の絶対的人間キリストの霊的体験に基づく、魂の深まりによる直観から生まれる認識を、追ってみたい;

 

テキスト(p.86):

「人間は、自然主義的人間中心主義がもたらしうる自己意識なぞとは比較にならぬほど、はるかに大いなるものを目指している。」

 

ーーーこれは彼の霊的体験に基づく、直観による認識である。では、彼と共有できる霊的体験や直観を持たない人は、どうするのか。どうすればいいのか。

 それは、ベテスダ池で38年の間病気で苦しんでいた人が、通りがかったイエスから「直りたいか」と声をかけられ、直してもらったことと同一である(『ヨハネによる福音書』5の1〜18)。「生まれたままの人間中心主義」の中に生きているわたしたちが、このままでは「私にはなす術がない。私にはどうにもならない」と、現在の苦しみから逃避せずに向き合えるか、どうか、である。その、「生まれたままの人間中心主義」の苦しみ、虚しさに、わたしも、社会も、世界も、歴史も、なす術もない現実に向き合うとき、「直りたいか」と霊的体験が近づいてくる。そこに「絶対的なもの」との「出合い」が起こる可能性があるのである。

 

 「はるかに大いなるものを目指す」ベルジャーエフの探求は、そこから直観的に発してきているものではなかろうか。

 

 

テキスト(p.89)

「真の人間論を根拠づけうるのは、キリストについての啓示のみである。キリストの出現という世界的事実は、人間論の根本的事実である。キリストの出現により、はじめて、高次の人間論的意識は可能となった。」

 

ーーーー「真の人間論」ーーそれは、「虚妄の世界に生きる人間」、囚われの状態にある精神、必然性に条件づけられた精神を生きる人間を脱した、自由になった、虚妄を超えた人間論である。ベルジャーエフは、虚妄は、囚われの状態は、われわれの「罪」に堕罪した所産だと指摘してきたわけである。

 

 彼はすでに前の段階で、「真の道は、〈世界〉からの解放の道、必然性による囚われの状態から人間精神を解き放つ道である」、と述べてきたわけだが、ここで、その「囚われの人間精神を解き放つ道」は、「キリストについての啓示のみ」だという。なぜなら、キリストは絶対者・神の人間への藉身だからである。このキリストに引き合わされることによって、われわれは初めて虚妄を脱した、高次の人間論的意識に目覚めることができる。

 

 そしてキリストの出現は、世界的かつ全歴史的事実なのである。それはユダヤでだけ起こったことではない。また、単に2,000年前の歴史的出来事なだけではない。ユダヤを超えて全人間に関わる、また歴史のある1時点だけではなく、人間論の根本に関わる事実なのである。

 

 キリストの出現は「世界的事実」である。それは、神話や哲学のような象徴や意識の産物、あるいは個人的な思考の構築ではなく、実際に歴史上に具体的に起こった事実だということである。つまり「構成を必要とはしない」のである。しかも、「虚妄の世界」「囚われの条件づけの世界」からの根源的な解放をもたらしたので、その「事実」は、全人類的であるとともに、全歴史的な出来事なのである。またその出来事は、神の子の人間世界への藉身なので、単に全人類、あるいは全人間的である以上に、「わたしと神の子」との1対1の出会いの出来事になり、1対1の結合になることによって2,000年前の歴史を超えるのである。

 

 

 そして、ベルジャーエフの次に続く人間論は、この項の頂点をなすとわたしは考える;

テキスト(p.89):

「キリストにおいてのみ、またキリストを通してのみ、人間が自らの神性を意識するという世界史的行為は成就した。

 キリストによってなされた、人間を神の子と認めること、つまり罪と離反によって損なわれた人間本性の、キリストによる再興、これが、人間についての奥義を、人間が神の長子たることの奥義を、人間個性の奥義を開示する。キリストにおいて神は人格となり、人間は人格(*個性)となる。

 

 キリストの奥義は、絶対的人間の奥義、神人の奥義である。」

 

ーーー絶対的人間の奥義です。キリストにおいて、神は人格となり、わたしは個性になるのです。哲学的論理ではない。今日、いま、ここにおける生き方の問題である。しかも、「わたし」「あなた」の生き方の問題である。ここにおいて、「人間が神の長子」である、「絶対的人間の奥義」であるとは、神の子キリストと出会うのは「わたし一人である」、「神の子とわたし一人だけ」が向き合っている。もっと言えば、「わたしは神のひとり子である」という開示である。ここに、何ものや何ごとにも恐れない、絶大な力が現れてくるのである。