ベルジャーエフ『始源と終末』(1) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ニコライ・ベルジャーエフ『始源と終末』

             ーー終末論的形而上学の試み

 行路社発行:峠尚武/的場哲朗(共訳)

 

 

 

 

《序》

 

 「長い間、私は自分の形而上学上の立場を、全体として叙述しているような本を書きたいと思っていた」、とベルジャーエフは語り出した。そして、その「形而上学」という言葉は、伝統的な意味の言葉としてではなく、むしろドストエフスキーやキルケゴール、ニーチェ、パスカル、ベーメ、聖アウグスチヌスその他の、これらに似通った著述家たちのスピリットに現れているような、今日流に言えば「実存的形而上学」のことを言うのである、と語っている。

 

 

 それは別の言葉では、終末論的形而上学(eschatological metaphysics)であるともいう。そして、さらに彼は、自分の哲学について続ける;

 

 「私はあらゆる問題を終末論の光のもとで、つまり終末(the End)から流れ出る光のもとで、概観したいと思うのである。そして、私の思惟の仕方は断片的・格言体(アフォリステック)であり、瞬発的に作動するものであるが、それにもかかわらず私は、全体としての私の形而学上の立場ということを言っているのである。内面的には、私の思想には統合的な性格が属しており、この性格は私の思想のあらゆる部分に現前しているいるからである。」

 

 そして彼は、「私の思想はある一つの中心をめぐって大きく動いている」と続ける。

 

 

 さらに、わたしがこの序言において共感する箇所を取り上げたい;

 

 「私の哲学的思惟は学的な形を取らない。私の思惟は推論的な思惟でなく、直観的に生に属するものである。ほかならぬ私の思惟の根底には、霊的経験(spiritual experience)があるのであり、私の思惟の推進力は自由への情熱である。私は論証的には思惟しない。私は真理に到達するというよりは、むしろ真理から出発するのである。」(*太文字化、および英字記入は管理人による)

 

 ここに、ベルジャーエフの哲学的な立場と彼のする作業とが、端的に表されているとわたしは感じます。彼の思索の根底は、彼の持つ「霊的経験」であり、それゆえ彼の思惟は学的ではなく、また彼の探求は真理への到達を目指すものではなく、真理から出発するワークになるわけである。

 

 では、彼の「真理から出発する」ワークとは、いったい何になるのであろうか? それは、わたしの解釈では、「意味のない世界、意味のない個人の生き方(実存)」の《変容》である、と言える。そしてそれは、「終末からものを捉える」という生き方になると考えられるのである。日本の大貫 隆氏が言う、「終わりからものを考える」と言っても、同じ捉え方になるであろう。

 

 

 彼はこの著書を、「世界の終末、歴史の終末をめぐる認識論的・形而上学的解釈の1試論であると称すべきであろう。すなわち、この本は、終末論的な認識論および形而上学を論じているのである」と述べる。

 しかし、ここでベルジャーエフが語っていることは、現代のカルト集団が語るようなことではない。そういう勝手な意味に受け止めるとすれば、それは真理を求めようとする探求者の姿勢ではない。

 

 そこで彼は注意を喚起する;「しかしながら、このように言ったからといって、決して、私が、近い将来に世界の終末があると告知しようとしているのだとは考えないで頂きたい」と述べるわけである。

 

 

 そして彼は語る;「私は本書を【反時代的考察】と呼んでよいかと思う。本書の考察は、現代の破局的な出来事によって呼び起こされた精神的経験と密接に関連している。しかし、本書の考察において表現されている諸観念は、今日優勢を占めている諸観念とは対立するものであり、むしろ他の世紀へ向かうものである。

 大衆、物量、科学技術の支配的な影響や、精神生活に対する政治の優勢を特徴としているような時代に対して、私はほとんど共感を覚えていない。・・・・・私は平均的な、普通の、社会的に組織化されたマインド、また組織する精神については本気で取り組まなかった」、と語っている。

 

 

ベルジャーエフの基本姿勢

 

 「私の思想は決して抽象的なものではなく、何よりもまずマインドの革命に、言い換えれば、精神を客観化の力から解放することに関わるものである。精神の仕組みにおける根本的な変革以外、何ごとも重大な変革に通じていくことはできない。意識的精神の誤れる態度が、人間の隷属性の源なのである。」

 

 

 「本書の形而上学的考察の根底にあるのは、この世界を支配している悪についての、またこの世界に住む人間の過酷な運命についての、鋭敏な感覚である。

 私の思想は、欺瞞的で圧倒的な客観的「世界調和」や客観的な社会秩序に対する、また客観的な世界秩序に神聖にして侵すべからざるものという性格を与えるものに対する、人間の人格(human personality)の反抗を反映するものである。私の思想は、必然性に対するスピリットの闘いである。

 私は信仰を持った哲学者の一人であるが、私の信仰は私独自のものである。」