ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

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行路社発行『ベルジャーエフ書作集4 創造の意味』より;

  第5章 創造と実在(3)

 

 さて、ベルジャーエフの創造論は、いよいよ核心に入っていく;

 

 創造的時代は、人間について、

        世界とその発展について、

  新たな創造的理論を創り出さねばならない。

                    (p.171)

 ここで、彼は「新たな」と言っています。つまり、いままでのどこにもなかった「創造的理論」です。

 ヴェーダにも、イスラムにも、キリスト教にも、仏教その他などなどの、どこにもない理論です。

 

 理論から創造的行為が生まれるわけではありませんが、混乱しないため、錯綜とせずに立ち位置を明確にさせるためには、理論の確立が必要です。

 そして彼は続けます;

 

世界のうちに開示されるべきは創造的発展であって、進化ではない。

創造的時代の認識は、

   能動的であって受動的ではなく、

   創造的努力を前提とし、

   それゆえ創造を開示する。

創造的発展の理論は、

   必然の根底に自由を、

   全実在の根底に個性を想定する。 

                    (p.171)

 創造的時代の認識は、能動的であって受動的ではない、と述べます。

 つまり創造と創造的理論を理解する、あるいは構築するためには、実際に現実を生きようとする意欲や行動が必要だと言っているわけである。

 勉学意欲や、ベルジャーエフ理論をわかろうとするような意欲ではなく、「あなた」や「わたし」が、自分の置かれた条件のなかで生きようとして、そこで「創造」の必要性とそれが失われていることへの問題提起を自覚しているかどうか。それが、この問題にアプローチしていくための鍵だと言っているのではなかろうか。

 

 

 さて、ここから少し彼が前の項で語っていることで重要な点があるので、それを取り上げてみたい。

 

創造的行為は、自由で自立的な力としての「個」にのみ、「個性」にのみ固有であり、内在的である。

世界のうちなる力を増加させうる力、この力を有する独自の実体によって生み出されるもののみが、創造と呼ばれうる。

                    (p.163)

 少し古い言い方になるが、創造的行為は人間の内部から生じてくるものであり、それには「個の確立」がなされていなければならない、ということであろう。個が確立すると、人は自ずから創造的なっていくのである。

 

 では、「個の確立」とはなにか。なにをもって個の確立というのであろうか。

 それは、個人の「人生観の確立」であり、「価値観の確立」であろう。なぜなら、それが弱いかあいまいであれば、個人ではなく一般大衆、あるいはその人は世論の一部という他はないからである。そしてその人の内部から、創造行為が生まれることを期待すべくもない。生の探求の出発点は、個の確立から始まるわけである。

 

 その「個が確立」していれば、ベルジャーエフが次に述べている通りである;

 

創造とは、世界の諸部分の新たな相互関係ではない。

創造とは、世界の個的諸実体による独創的行為である。もしも世界が、自由で独自の力を有する個的諸実体のヒエラルキーでなければ、世界のうちなる創造は不可能である。

 ここでベルジャーエフの言う「ヒエラルキー」という捉え方は、現代ではピンと響くものがない。現代のわたしたちには「位置づけ」として考える方が適切だとわたしは思う。すなわち、「個的諸実体が自由に独自に位置づけられている世界」というふうに考えていくのである。

 

 

 以下、この項でわたしが共感した所を抜粋して参考としたい;

 

諸実体の内的力と個的独創性によって生み出される過程は、創造的である。

物質化した世界は進化のみを認め、

        創造を認めないが、

 これは人格的諸実体の転落・奴隷化・鈍重化の結果である。

 カバラーのいう「クリフォトの世界」を、ベルジャーエフは「物質化した世界」と捉えているわけである。物質化は心の鈍重化、人格的実体の転落であると見抜くところから、創造性への道が開いてゆく。

 

被造物である実在(*すなわち人間)が動態的なものであるならば、そのうちでは創造過程が永遠に続行する。

創造主は自らの似姿である人間に、自由な創造力を与える。

人間による創造は、神による創造に似ている。

同一でも同等でもないが、似ている。

人間は絶対者ではなく、それゆえ絶対的な力は所有していない。

人間は自らの創造において他の人々と、

世界の全存在と結びついている。

人間は全能ではない。

しかし人間個性のうちには、神のそれにも似た独創的な創造力がある。

神は主人でも、君主でも、命令者でもない。

神の世界支配は、専制ではない。   (p.164〜65)

親密な関係は、人間としての神に対して、

すなわちキリストに対してのみ可能である。

 

キリストを通して、神はわれわれにとって主人・君主・命令者であることをやめ、

神とわれわれとの関係は専制的ではなくなる。

神と人間とが分かち合う、内的で親密な生が始まる。

神的自然への、人間の意識的参画が始まる。

 

こんにち、人間はもはやキリストなくして神を受け容れることはできない。

キリストなき神とは、恐ろしいもの、遠く隔たったもの、正当化されないものである。

キリストこそは唯一の弁神論である。

 

(キリストが存在すれば)神はわれわれのうちにあり、われわれは神のうちにある。

神自身が人間なのであり、これこそ、この上なく大いなる宗教的啓示、キリストの啓示である。

(それゆえ)世界支配は神と合体した人間の仕事となる。                 (p.165)

 

このキリストロギア(キリスト論)はキリスト教的ではなく、求道者的、生の探求者的である。このキリストロギアはどこから生まれてくるのか。それは、キリストとの親密な関係を生き、それゆえ「道」を伝えることができる師に出合うことによってである。人はこの出合いと交わりによって、本当に神に出合う可能性を持つ。

 

 

前段で、ベルジャーエフは;

「人間は自らの創造において他の人々と、

世界の全存在と結びついている。」

と述べているが、はたしてそうであろうか。

 

 人間は自らの創造力において神と結びつき、創造的な先人と結びつくのではなかろうか。世界の全存在のなかでは、むしろマイノリティーであろう。ただ、霊的には世界の全存在と結びついているのであろうが。

 

 

 

阿蘇市の光景

ベルジャーエフ『創造の意味』(行路社 発行)第5章 p.158以降;

 

 

  前段において、ベルジャーエフは人間の究極の奥義へと迫る。

 それは、人間の本性は創造主の似姿であり、すなわち「創造的本性」だと語る。そして、彼は「創造的付加は、創造的自由から生まれる。これは神そのものへの絶対的付加である」と説き進む。その「神そのものへの絶対的付加」とは、人間が神的な生そのものを豊かなものにすることだという。彼は、神と神的なものばかりではなく、人間と人間的なものもまた、絶対的に存在すべきであると説くのである。

 

 これは、わたしには論理的には解明できない。わたしに言えることは、創造は単に何かが造られることを言うのではなく、愛の行為であるということである。愛によって生み出されるものが創造であり、愛は絶対者の行為なので、絶対者の似姿として、絶対者の愛によって創造された人間は永遠者なのである。愛によって生まれたものは、喪失されることを絶対的に拒絶される。

 

 

 ベルジャーエフの「自由」の概念は曖昧である。少なくとも、彼が著書『人間の運命』で取り上げている「自由」の捉え方には、わたしは承諾することができない。彼はその中の第2章中、「原罪ーー善悪の起源」の項で、自由はベーメの「ウングルンド・底なし」に発し、神以前のものであって、神の外に存在すると述べるが、実存的にわたしにとっては真の自由は神の内に存在する。神からの自由とは、実は非自由、または不自由への転落である。

 イエスの「荒野の試み」において、悪魔はイエスにひれ伏して拝むことを要求する。それに対して、神はイエスにひれ伏して拝むような関係を求めていない。その関係は、イエスの自由な父なる神への愛であり、創造的に自由な関係である。

 

 

 パウロはイエスに対し、「わたしはキリストの奴隷である」という言い方をしているが、パウロ書簡を現代の学術論文のように分析したり解釈したりするのは、適切とは言えない。ドストエフスキーも、「もしキリストに真理がないとしても、わたしはキリストを愛する」と語っているが、パウロもドストエフスキーも言おうとしていることは、「それほどにキリストを愛している。キリストへの《愛》は絶対的なものだ」、という意味であろうとわたしは解する。

 

 

 わたしがベルジャーエフの思想で認めているのは、「創造の意味」の発見と、非創造的な俗世の現実の否定である。それは新たな、かつて歴史的に存在しなかった、「神と人間の協働による」新たな宇宙創造をもたらす時代を開くものになるという点である。しかもそれを明確に捉え、その総体を発表できたことは、画期的な時代もたらすものになるのではなかろうか。

 

 

 さらに項目を先取りすれば、次の主張は圧倒的な時代認識だとわたしは信ずる;

 

 

創造は、「世界」と「世界」の内なるものを愛してはならないという福音書の戒めを、完全に受け入れ、遵守(じゅんしゅ)する。創造する者は、自らを「この世」のものではないと感ずる。創造は、福音書的な意味での「世界」の克服であり、・・(中略)・・。創造的行為において、人間は「この世」から出て、別の世界へ移る。

 

創造的行為においては、「この世」が確立されるのではなく、別の世界が、真のコスモスが創り出される。創造は、この世界への、この世界の必然性への順応ではなく、この世界の限界外への移行であり、この世界の必然性の克服である。

           (『創造の意味』p.199)

 

 

TsMCがやってきた熊本の原水駅

間もなく大幅に再建築される

ベルジャーエフ『創造の意味』(行路社 発行)第5章から;

 

 

 さて、これまでに述べてきたとおり、人間の世界に「創造」行為が成り立つためには、原初のアダムを超える絶対的人間が誕生していなければならない。なぜなら、原初のアダムの段階では、人間世界にはまだ創造的行為は起こらなかったからである。人はアダムの段階では、創造的行為が起こる前に転落してしまった。創造的行為は神的な行為であって、転落した人間は創造的行為には参加できない。わたしたちが知っている創造とは、実は創造的行為なのではなく、生産であり、工夫であり、既成のものが修正されたもの以外ではない。

 

 

 創造的行為は神的行為であり、われわれの立ち位置が転落した、カバラでいうクリフォトの世界を脱出していない限り、不可能である。転落者は、どのようにしてもクリフォトの世界から抜け出ることはできない。脱出または超克は、クリフォトを超えた世界から、クリフォトであるこちら側にやってこなければならない。それが「神の子キリスト」の地上への到来の意味であり、タロットの世界の0番、タロットの霊フルのこの世界への到来なのである。

 これに非常に近い世界の捉え方が、親鸞の阿弥陀仏信仰だと思われるが、しかし仏陀が阿弥陀仏としてこの世界に如来したとしても、仏陀は修行して阿弥陀仏になったのであり、イエス・キリストやタロットの霊のように修業を超越して向こうからやってきたわけではない。したがって、キリスト論やタロット論から生まれる創造論は非常に先鋭だが、仏陀論の中では人間の救済論は見事で深いが、創造論は非常に弱いとわたしは捉えている。

 

 

 さて、神の子キリストの復活、およびタロットの霊のこの世界への到来は、この世界の人間に「存在の変容」(新生)をもたらすわけだが、しかもその新生した人間は、絶対的人間・太陽的人間(キリスト)がわれわれの内へ帰還することにおいて、原初のアダムを超えた人間になっていなければならない。そうでない限り、神の子とタロットの霊の地上への到来によって、生の探求者に存在の変容(新生)が起こったとしても、それが原初のアダムの生き方のレヴェルであれば、再びそれは転落してしまって元の木阿弥に帰ってしまうからである。したがって、存在の変容による第二のアダムの誕生は、サタンの誘惑に崩れた原初のアダムを超えた、絶対性を帯びた存在への誕生でなければならないのである。

 

 

 以上を踏まえて、ベルジャーエフ『創造の意味』p.154 以下の、「創造と実在」の問題に取り組んでいきたい。

 

p.154

 世界の実在とは被造物である。・・・あらゆる被造物には、創造的行為の刻印がある。被造物は創造主を語る。創られてあることは創造を意味する。天地創造は、神の内なる創造的発展であり、神が孤立から脱却することであり、神的愛の呼びかけである。

p.155

 創造の理念自体が可能であるのは、ひとえに創造主が存在するからであり、創造主により独創的な創造的行為がなされたからであり、そこにおいて、先行する何ものにも由来しない。かつてなかったものが存在するようになり、しかもそれによって創造主の絶対的な力は何らの減少もみなかったからである。創造的行為が何かを創造するのは、創造者の本性を材料としてではない。つまり、創造者の力を使い、これを別の状態へ移行させることによってではない。

 

 創造的行為は無から創造する。・・・創造とは、それまで力の存在しなかったところに新たな力を創り出すことである。そしてあらゆる創造的行為は、その本質からして無からの創造である。すなわち、新たな力の創造であって、旧い力の改変や配置換えではない。あらゆる創造的行為の内には、絶対的な付加が、増加がある。

 

 あらゆる創造的行為は無から創造するが、その文字通りな創造は、創造主によってのみ可能である。創造に人間が共に関わる場合、完全な無からの創造が可能であれば、もはや創造主の必要がなくなってしまう。完全な「無からの創造」は創造主にのみよるが、創造主と共に行う人間の創造は、今までのものに絶対的な価値の付加、絶対的な価値の増加が行われるのである。人間に無からの創造が行えるというのは幻想であり、それが本当に起こるものなら、われわれには物事の学習が不要になる。すでに存在するものを学ぶ必要がない。無から創造すればいいだけだからである。われわれ人間が創造主と共に行う創造は、新たな価値の絶対的付加であり、増加である。絶対的でなければ創造ではなく生産であり、改変である。絶対的創造は、絶対者と結びついた人間にして初めて可能である。

 

 

p.155

 被造物たる実在、そこにおいてなされゆく増加、いかなる減損もなしに達成された増加ーーーこれらは創造者と創造の存在を語るものである。

 ここは、この項のポイントである。実在の増加、いかなる減損もない絶対的増加は、創造主と共に歩む創造者にして可能なのである。

 

 

p.155〜156

 世界は被造物としてだけではなく、創造者としても創られている。被造物であることの内には、創造主の似姿が刻印されている。すなわち、被造物であることそのものの内に、諸々の創造者が潜んでいる。

 人間本性は創造主の似姿である。すなわち、創造的本性である。魂は永遠の昔に創造主である神によって創られたもので、魂の基底は神的であり、世界過程とその時間には関わらない。魂が永遠の昔から存在したことは、絶対的な形而上学的真理である。しかし魂の運命は、コスモス(*大宇宙)の発展と結びついている。実在を絶対的に増加させ、いかなる減損もなしに力を増大させる創造的行為は、被造物である実在そのものの内で、創造主の似姿である人間の内で続いている。

 ここの内で、魂を霊という概念に置き換えれば、ベルジャーエフの語る通りである。われわれの探求においては、魂は囚われの状態にあり、霊は仮死の状態にあると捉えている。それがキリストの復活と出合わされることによって霊は生き返り、魂は解放されて創造的本性を発揮し始める。

 創造的似姿である人間とは、聖神にとらえられて絶対的・太陽的人間キリストに結びついた人間のことである。

 

 

* わたしはここでベルジャーエフの『創造の意味』を取り上げているが、わたしの研究はベルジャーエフの思想の研究などではない。わたしは他人の思想などを研究しない。わたしの関心ごとは、「わたしがいかに生きるか」である。人の思想を研究する暇はない。「わたしがどう生きるか」を研究し、探求しているのである。いかに生きるかに関係がない学的な論説や、博士論文などにはほとんど興味を持たない。それがタロットを含むあらゆるものについてのわたしの探求姿勢であり、研究姿勢である。