創造と自由・個体主義と普遍主義(1)− 2

(行路社刊『ベルジャーエフ著作集 第4巻「創造の意味」』p.180〜

 

原初の人間たるアダムの転落は、絶対的人間たるキリストの出現を準備することで、世界創造の啓示の上での1段階として、ポジティヴな意味と根拠を有していた。

神の正当化としての弁神論とは、悪の意味を正当化することである。

                              (p.180)

マクロコスモスの生命運動と発展は複雑である。

これには段階があり、7日間の天地創造の段階では、まだ「神的自由」は啓示されてはいなかった、

とベルジャーエフは述べる。

 

そして、「人間を無力なものとする罪もまた、人間の力のしるしである」、

と彼が述べるとき、

通常のキリスト教が指摘する「罪認識」の観点とは、異なる人間観に立っていると私には思われる。

 

 

 

ベルジャーエフの人間観も「罪」観も、弁証法的な人間認識、弁証法的な罪観念であり、私には納得できる。

人間は「罪に転落」しているのではなく、「罪深い」のである。

そして、その「罪深さ」は現在進行形であって、

さらに罪深まりつつあるのである。

 

そして、生の探求者その「罪深さ」、その「悪」を生き抜き、

そこで、「十字架の死」から復活する「神の子」に出合い、

探求者も復活する。

つまり新生するのである。

 

 

「罪深さ」を生き抜く、悪を生き抜くとは、

「神に完全に見捨てられた」と実感させられる生の次元に、

置き去りにされてもなお生きなければならないことをいうのである。

 

 

それが錬金術が言ってきた「地球の内部を訪ねれば、

人はその過程で浄化され、

哲学者の石を見出すのである」の意味だと私は解する。

 

「哲学者の石」とは、欲望の追求に心が奪われている世の人々が捨てた「隅の頭石(すみのかしらいし)」のことであり、

つまりキリストのことである。

 

(トートタロット:「#14. Art 哲学者の石、キリストとの結婚」のカード)

 

さて、次にベルジャーエフが提起する問題は、大変難しい問題を含んでいる。それは、神と闇との起源の問題である。

いずれにしても、神的自由と悪魔的自由との関係に関する、彼の論説に耳を傾けてみたい。

 

原初の人間アダムの自由は、善悪の認識という試みの内に燃え尽きねばならなかった。

すなわち、絶対的人間たるキリストを通してほんとうの、至高の自由が開示されるために、必然性により呑み込まれてしまわねばならなかった。

 

原初のアダムの転落は、新たなアダムの啓示の上で不可欠の、コスミックな契機である。これは、分裂を通じて至高の充実へと至る道である。

                            (p.181)

「原初のアダムの転落は、新たなアダムの啓示の上で不可欠の・・・・」ということは、大変難しい問題である。

私は、この問題については、「転落は不可欠な問題ではない」が、転落の可能性が高いにしろ、「転落しても至高の充実へ至る道を、神は開いてくださった」と解している。

 

それが、三位一体の神の開示であり、キリストのこの世界への藉身と、キリスト以後の聖神との人格的な交わりにおいて、秘儀参入者とキリストとの結婚が実現する。そして、この結婚によって、聖神のうちで新たな世界創造が起こり、第3の現実としてそれが続行されていくのである。

この「第3の現実」が、”至高の充実へ至る道” なのである。

 

悪魔的自由とは、新たなアダムの出現後に生まれたものである。究極の悪は、キリスト出現後にはじめて可能となる。悪魔的自由とは、キリストへの究極的にして決定的な抵抗である。

                            (p.181)

これはその通りではあるが、より適切には、「キリストの復活以後」であり、さらには聖神においてキリストが普遍的に、宇宙的に存在状態を顕(あらわ)にされる現代においてではあるまいか。

現代の悪魔的自由から生じている犯罪や紛争は、かつての歴史には類例を見ないほど残虐であり、病的であり、時代は世界的にそれに対処するすべを見出せないでいる。

 

悪魔的自由は、創造の第8日目にはじめて、創造的自由の偽りの類似物として開示される。悪魔的創造は、非在しか創らない。・・・・・

 

自由の最終的喪失と究極的隷従が可能となるのは、絶対的人間たるキリストの啓示がすでになされた時代、絶対的人間の偽りの似姿にしてキリストのカリカチュアたる反キリストが、非在のうちなる至福により人間を誘惑する時代である。

                          (p.181〜182)

絶対的人間であるキリストがその全貌を地上に現すと、”絶対的人間の偽りの似姿にしてキリストのカリカチュアたる反キリスト” が姿を現す。

その例のいくつかは、ドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』に登場する「大審問官」の姿や、実例としては第2次世界大戦下におけるヒットラーの姿などに見ることができるだろう。

 

そして今や、私たちは一般的に日常起こっている普通の事件の中に、それらを見出すことができるかもしれない。

 

この項の終わりに、ヤーコプ・ベーメの "悪に関する究極の真理” として、ベルジャーエフが取り上げているところを提示しておきたい。

これについては、私個人は別な見解を持っているが、これはベルジャーエフの基本的な世界観の1つでもあるので、ここでは同意も反対もなく、彼の世界観を理解するための1助として紹介するのみとしたい。

 

Ungrund(無底)から、深淵から、光は、神は生まれ、神統系譜の過程は成就していくが、

神的な光の影たる闇もまたここから流れ出る。

悪は、すでに生まれた神の内にではなく、

神の基底たる深淵のうちに、

そこから光も闇も流れ出てくる深淵のうちに、

源を有する。

 

悪を意味づけることは、

神的生のうちに発展の原理を持ち込むことによってのみ可能である。

                            (p.182)

 

 

 

創造と自由・個体主義と普遍主義(1)

 行路社刊『ベルジャーエフ著作集第4巻 創造の意味』 p.175~より

 

(p.178〜)

ここで、ベルジャーエフは私にとって重要な問題に触れている。

 

 自由が無根拠であり、底なしであり、不可解であることは、それが恣意的であることを意味しはしない。自由は合理化されえず、悟性的カテゴリーによる認識には服しないが、その内には神的理性が生きている。

 

自由はポジティヴな創造力であって、ネガティヴな恣意ではない。自らに自由を恣意と解するネガティヴな意識こそは、転落であり罪である。ネガティヴな自由、恣意としての自由とは、内容なき自由、空虚な自由である。自由のために自由を欲すること、目的なく内容なき自由を欲することは、空虚を欲することであり、非在への逸脱である。・・・・目的なく内容なき自由とは、無であり、空虚であり、非在である。

                        (p.178〜179)

”自由は合理化されえず、悟性的カテゴリーによる認識には服しない”とベルジャーエフがいうとき、ここで語られる「自由」は大衆的なものではなく、大衆化されることもないだろう。彼の言う「自由」は、かつてユダヤに現れた預言者的なものか、質的にそれ以上のものになるだろう。

 

そして、ベルジャーエフが ”その内には神的理性が生きている” というとき、「自由」とは「神の子」キリストの内に存在するものであり、キリストの活動を離れては存在しないものであることがわかる。

 

 

しかし、この「自由」は大衆的ではないとはいえ、孤立的なものではなく、「個人的」なものでもない。なぜなら、それは「神的理性が生きているもの」であり、神的理性が生きているとは、この世では「神への自由」を意味するからである。

 

「自由」の哲学が意味する自由とは、「〜からの自由」と「〜への自由」という2つの方向性である。そして哲学者ベルジャーエフは、ここで「〜からの自由」を否定し、「〜への自由」を「創造的自由」として肯定しているわけである。

 

「〜からの自由」は、普通には政治的自由、あるいは社会的自由と考えられるが、それすら「〜への自由」を背景に持たなければ、社会的無政府状態や社会的暴動を招きかねないものである。

 

 

さて、ベルジャーエフのいう自由は「神的理性」がこの世で生きているものであり、それは「キリストの自由(神への自由)」に他ならないものであった。そして、キリスト以前の「神への自由」を求めたモーセの行動は、イスラエル・アンフィクチオニー(イスラエル部族連合)を生み出し、キリストの自由はキリスト教会を生み出し、キリスト以後の「キリストへの自由」を求める行動は、17世紀のピルグリムファーザーズの運動を生み出した。そして、それによってやがてアメリカ合衆国が生まれ、現代に続いているわけである。

 

 

そして、上の運動が飽和状態に達し、その限界が原爆や世界大戦や、いたるところに露呈する局地戦争が続く中で、20世紀において日本に内村鑑三に始まる無教会運動が生まれた。この運動はキリスト教会や無農薬農法の普及活動へ、また幼児から青年期への教育界に影響を与え続けている。また、低所得者に対する無料医療を提供する病院の建設など、前例のない活動も起こっている。また、このベルジャーエフ著作集の大半の翻訳者も、無教会キリスト者たちである。

 

しかし、「無教会」という概念は、「キリストにおける神への自由」運動の活動の中では、唯一否定的な概念である。そこで、無教会キリスト者の中には、「無教会は有教会にならねばならない」と主張する人たちも出てきたりする(日本愛農会グループなど)。

 

以上を踏まえ、私がいま負っている活動は、「タロット実存共同体」を起こしていくことである。「キリストにおける神への自由」運動は、現代ではキリスト者だけ、タロットだけ、聖霊運動だけではないと私は確く信ずるものだが、また一方で、「タロット実存共同体」もそれに属するものと確く信ずるのである。

 

('26/8/29:東京・杉並区方南町祭り、熊本震災支援チャリティータロット)

 

さて、ベルジャーエフの論考は、ここから「神と悪」との関係という、非常に重要な問題へ展開していく。

 

自由のポジティヴで創造的な目的と内容は、7日間の天地創造の段階では未だ意識されえなかった。なぜなら、この世界創造の内には未だ神の子たる絶対的人間の啓示が、第8日目の啓示がなかったからである。

 

7日間の世界創造の内で可能だったのは、自由の試みのみであった。原初のアダムが楽園で保持していた状態は、未だ人間の至高の状態ではなかった。そこには未だ、人間の能動的・創造的使命が啓示されていなかった。

 

全人たるアダムの自由は、未だ絶対的人間たるキリストの自由と結びついておらず、そこには転落と罪の種が潜んでいた。・・・世界創造のこの段階では、創造的自由は(*まだ)啓示されない。

                           (p.179)

 神だけの創造とは、相対的なものを創造することである。神は神そのもを創造するわけではない。神が創造するものは相対的な「生命」である。生命は相対であれ絶対であれ、発展する。発展がなければ活動もなく、生命ではない。したがって、神の世界創造は7日で終わるのではなく、段階的に、構造的に、第8日目へと推移していかなければならない。それが、第2のアダムとしてのキリスト、絶対的人間の地上への到来である。

 

人間の子供が生まれたとして、そこにあらゆる可能性が種として保持されているとはいえ、教育によって成長し、発展し、持っている可能性を開いていく。

その成長過程には、当然に可能性をゆがめたり、阻害したりする場合も含まれている。その自由や「ゆらぎ」がなければ、生命ではない。あたかも、腐らなものは食べ物ではないのと同様な性質である。食べ物として摂取して、生きる糧にするとは、「腐る」という性質を避けては通れないのである。

 

それが、人間にとっての「悪」や「障害」の起源である。

 

次に創造の第8日目という、「現代」の段階に移る。

 

実質的自由とは、これはもう世界創造の別の段階の達成、絶対的人間(キリスト)による啓示の時代の達成である。

 

これは、イエスの人間的本性と、キリストの神的本性の結合から生まれた本性である。(*絶対的人間キリストとの結婚によって)神の息子たる資格を得た人間本姓は、創造的目的の充満する実質的自由を意識するまでに高まる。

 

(*この段階で)「自由」は世界への愛によって浸透される。「自由」はもはや、世界に関わる自らの内容と切り離されることはない。

 

罪の内なる自由とは、何か「からの」自由であり、創造の内なる自由とは、何かの「ための」自由である。7日間にわたる天地創造のアダムの自由と、第8日における世界創造のアダムの自由とは、同一ではない。

 

絶対的人間(キリスト)と結びついた新たなアダムの自由とは、創造的自由であり、この自由は神による世界創造の仕事を続行するのであって、ネガティヴな恣意により神に叛逆するのではない。

 

原初の人間たるアダムの転落は、絶対的人間たるキリストの出現を準備することで、世界創造の啓示の上での1段階として、ポジティヴな意味と根拠を有していた。

                          (p.180)

神による創造の第7日目までは、天地創造なのであり、世界創造は第8日目から始まるとベルジャーエフは述べる。この場合の世界創造とは「霊的生命」の始まりの意味であろう。

 

これについては、諸種の見解の分かれるところかもしれないが、「世界創造」をキリスト論的な意味での「永遠の生命」や「永遠の世界」と解すれば、彼の言う通りであろう。

 

いずれにしても、創造的自由は「〜からの」自由ではなく、「〜のための」自由、または「神への自由」とするならば、それはキリスト以後の「聖神の時代」に対応するのであり、その1つの具体化を、われわれは「タロットの霊」とともに人格的な交わりのうちに生きることとして捉えているわけである。なぜなら、それがミクロコスモスとして自由に生きる人間の、具体的な生き方の実現になるからである」。

 

 

 

 

行路社発行『ベルジャーエフ書作集4 創造の意味』より;

  第5章 創造と実在(3)

 

 さて、ベルジャーエフの創造論は、いよいよ核心に入っていく;

 

 創造的時代は、人間について、

        世界とその発展について、

  新たな創造的理論を創り出さねばならない。

                    (p.171)

 ここで、彼は「新たな」と言っています。つまり、いままでのどこにもなかった「創造的理論」です。

 ヴェーダにも、イスラムにも、キリスト教にも、仏教その他などなどの、どこにもない理論です。

 

 理論から創造的行為が生まれるわけではありませんが、混乱しないため、錯綜とせずに立ち位置を明確にさせるためには、理論の確立が必要です。

 そして彼は続けます;

 

世界のうちに開示されるべきは創造的発展であって、進化ではない。

創造的時代の認識は、

   能動的であって受動的ではなく、

   創造的努力を前提とし、

   それゆえ創造を開示する。

創造的発展の理論は、

   必然の根底に自由を、

   全実在の根底に個性を想定する。 

                    (p.171)

 創造的時代の認識は、能動的であって受動的ではない、と述べます。

 つまり創造と創造的理論を理解する、あるいは構築するためには、実際に現実を生きようとする意欲や行動が必要だと言っているわけである。

 勉学意欲や、ベルジャーエフ理論をわかろうとするような意欲ではなく、「あなた」や「わたし」が、自分の置かれた条件のなかで生きようとして、そこで「創造」の必要性とそれが失われていることへの問題提起を自覚しているかどうか。それが、この問題にアプローチしていくための鍵だと言っているのではなかろうか。

 

 

 さて、ここから少し彼が前の項で語っていることで重要な点があるので、それを取り上げてみたい。

 

創造的行為は、自由で自立的な力としての「個」にのみ、「個性」にのみ固有であり、内在的である。

世界のうちなる力を増加させうる力、この力を有する独自の実体によって生み出されるもののみが、創造と呼ばれうる。

                    (p.163)

 少し古い言い方になるが、創造的行為は人間の内部から生じてくるものであり、それには「個の確立」がなされていなければならない、ということであろう。個が確立すると、人は自ずから創造的なっていくのである。

 

 では、「個の確立」とはなにか。なにをもって個の確立というのであろうか。

 それは、個人の「人生観の確立」であり、「価値観の確立」であろう。なぜなら、それが弱いかあいまいであれば、個人ではなく一般大衆、あるいはその人は世論の一部という他はないからである。そしてその人の内部から、創造行為が生まれることを期待すべくもない。生の探求の出発点は、個の確立から始まるわけである。

 

 その「個が確立」していれば、ベルジャーエフが次に述べている通りである;

 

創造とは、世界の諸部分の新たな相互関係ではない。

創造とは、世界の個的諸実体による独創的行為である。もしも世界が、自由で独自の力を有する個的諸実体のヒエラルキーでなければ、世界のうちなる創造は不可能である。

 ここでベルジャーエフの言う「ヒエラルキー」という捉え方は、現代ではピンと響くものがない。現代のわたしたちには「位置づけ」として考える方が適切だとわたしは思う。すなわち、「個的諸実体が自由に独自に位置づけられている世界」というふうに考えていくのである。

 

 

 以下、この項でわたしが共感した所を抜粋して参考としたい;

 

諸実体の内的力と個的独創性によって生み出される過程は、創造的である。

物質化した世界は進化のみを認め、

        創造を認めないが、

 これは人格的諸実体の転落・奴隷化・鈍重化の結果である。

 カバラーのいう「クリフォトの世界」を、ベルジャーエフは「物質化した世界」と捉えているわけである。物質化は心の鈍重化、人格的実体の転落であると見抜くところから、創造性への道が開いてゆく。

 

被造物である実在(*すなわち人間)が動態的なものであるならば、そのうちでは創造過程が永遠に続行する。

創造主は自らの似姿である人間に、自由な創造力を与える。

人間による創造は、神による創造に似ている。

同一でも同等でもないが、似ている。

人間は絶対者ではなく、それゆえ絶対的な力は所有していない。

人間は自らの創造において他の人々と、

世界の全存在と結びついている。

人間は全能ではない。

しかし人間個性のうちには、神のそれにも似た独創的な創造力がある。

神は主人でも、君主でも、命令者でもない。

神の世界支配は、専制ではない。   (p.164〜65)

親密な関係は、人間としての神に対して、

すなわちキリストに対してのみ可能である。

 

キリストを通して、神はわれわれにとって主人・君主・命令者であることをやめ、

神とわれわれとの関係は専制的ではなくなる。

神と人間とが分かち合う、内的で親密な生が始まる。

神的自然への、人間の意識的参画が始まる。

 

こんにち、人間はもはやキリストなくして神を受け容れることはできない。

キリストなき神とは、恐ろしいもの、遠く隔たったもの、正当化されないものである。

キリストこそは唯一の弁神論である。

 

(キリストが存在すれば)神はわれわれのうちにあり、われわれは神のうちにある。

神自身が人間なのであり、これこそ、この上なく大いなる宗教的啓示、キリストの啓示である。

(それゆえ)世界支配は神と合体した人間の仕事となる。                 (p.165)

 

このキリストロギア(キリスト論)はキリスト教的ではなく、求道者的、生の探求者的である。このキリストロギアはどこから生まれてくるのか。それは、キリストとの親密な関係を生き、それゆえ「道」を伝えることができる師に出合うことによってである。人はこの出合いと交わりによって、本当に神に出合う可能性を持つ。

 

 

前段で、ベルジャーエフは;

「人間は自らの創造において他の人々と、

世界の全存在と結びついている。」

と述べているが、はたしてそうであろうか。

 

 人間は自らの創造力において神と結びつき、創造的な先人と結びつくのではなかろうか。世界の全存在のなかでは、むしろマイノリティーであろう。ただ、霊的には世界の全存在と結びついているのであろうが。

 

 

 

阿蘇市の光景