創造と実在(1) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ『創造の意味』(行路社 発行)第5章から;

 

 

 さて、これまでに述べてきたとおり、人間の世界に「創造」行為が成り立つためには、原初のアダムを超える絶対的人間が誕生していなければならない。なぜなら、原初のアダムの段階では、人間世界にはまだ創造的行為は起こらなかったからである。人はアダムの段階では、創造的行為が起こる前に転落してしまった。創造的行為は神的な行為であって、転落した人間は創造的行為には参加できない。わたしたちが知っている創造とは、実は創造的行為なのではなく、生産であり、工夫であり、既成のものが修正されたもの以外ではない。

 

 

 創造的行為は神的行為であり、われわれの立ち位置が転落した、カバラでいうクリフォトの世界を脱出していない限り、不可能である。転落者は、どのようにしてもクリフォトの世界から抜け出ることはできない。脱出または超克は、クリフォトを超えた世界から、クリフォトであるこちら側にやってこなければならない。それが「神の子キリスト」の地上への到来の意味であり、タロットの世界の0番、タロットの霊フルのこの世界への到来なのである。

 これに非常に近い世界の捉え方が、親鸞の阿弥陀仏信仰だと思われるが、しかし仏陀が阿弥陀仏としてこの世界に如来したとしても、仏陀は修行して阿弥陀仏になったのであり、イエス・キリストやタロットの霊のように修業を超越して向こうからやってきたわけではない。したがって、キリスト論やタロット論から生まれる創造論は非常に先鋭だが、仏陀論の中では人間の救済論は見事で深いが、創造論は非常に弱いとわたしは捉えている。

 

 

 さて、神の子キリストの復活、およびタロットの霊のこの世界への到来は、この世界の人間に「存在の変容」(新生)をもたらすわけだが、しかもその新生した人間は、絶対的人間・太陽的人間(キリスト)がわれわれの内へ帰還することにおいて、原初のアダムを超えた人間になっていなければならない。そうでない限り、神の子とタロットの霊の地上への到来によって、生の探求者に存在の変容(新生)が起こったとしても、それが原初のアダムの生き方のレヴェルであれば、再びそれは転落してしまって元の木阿弥に帰ってしまうからである。したがって、存在の変容による第二のアダムの誕生は、サタンの誘惑に崩れた原初のアダムを超えた、絶対性を帯びた存在への誕生でなければならないのである。

 

 

 以上を踏まえて、ベルジャーエフ『創造の意味』p.154 以下の、「創造と実在」の問題に取り組んでいきたい。

 

p.154

 世界の実在とは被造物である。・・・あらゆる被造物には、創造的行為の刻印がある。被造物は創造主を語る。創られてあることは創造を意味する。天地創造は、神の内なる創造的発展であり、神が孤立から脱却することであり、神的愛の呼びかけである。

p.155

 創造の理念自体が可能であるのは、ひとえに創造主が存在するからであり、創造主により独創的な創造的行為がなされたからであり、そこにおいて、先行する何ものにも由来しない。かつてなかったものが存在するようになり、しかもそれによって創造主の絶対的な力は何らの減少もみなかったからである。創造的行為が何かを創造するのは、創造者の本性を材料としてではない。つまり、創造者の力を使い、これを別の状態へ移行させることによってではない。

 

 創造的行為は無から創造する。・・・創造とは、それまで力の存在しなかったところに新たな力を創り出すことである。そしてあらゆる創造的行為は、その本質からして無からの創造である。すなわち、新たな力の創造であって、旧い力の改変や配置換えではない。あらゆる創造的行為の内には、絶対的な付加が、増加がある。

 

 あらゆる創造的行為は無から創造するが、その文字通りな創造は、創造主によってのみ可能である。創造に人間が共に関わる場合、完全な無からの創造が可能であれば、もはや創造主の必要がなくなってしまう。完全な「無からの創造」は創造主にのみよるが、創造主と共に行う人間の創造は、今までのものに絶対的な価値の付加、絶対的な価値の増加が行われるのである。人間に無からの創造が行えるというのは幻想であり、それが本当に起こるものなら、われわれには物事の学習が不要になる。すでに存在するものを学ぶ必要がない。無から創造すればいいだけだからである。われわれ人間が創造主と共に行う創造は、新たな価値の絶対的付加であり、増加である。絶対的でなければ創造ではなく生産であり、改変である。絶対的創造は、絶対者と結びついた人間にして初めて可能である。

 

 

p.155

 被造物たる実在、そこにおいてなされゆく増加、いかなる減損もなしに達成された増加ーーーこれらは創造者と創造の存在を語るものである。

 ここは、この項のポイントである。実在の増加、いかなる減損もない絶対的増加は、創造主と共に歩む創造者にして可能なのである。

 

 

p.155〜156

 世界は被造物としてだけではなく、創造者としても創られている。被造物であることの内には、創造主の似姿が刻印されている。すなわち、被造物であることそのものの内に、諸々の創造者が潜んでいる。

 人間本性は創造主の似姿である。すなわち、創造的本性である。魂は永遠の昔に創造主である神によって創られたもので、魂の基底は神的であり、世界過程とその時間には関わらない。魂が永遠の昔から存在したことは、絶対的な形而上学的真理である。しかし魂の運命は、コスモス(*大宇宙)の発展と結びついている。実在を絶対的に増加させ、いかなる減損もなしに力を増大させる創造的行為は、被造物である実在そのものの内で、創造主の似姿である人間の内で続いている。

 ここの内で、魂を霊という概念に置き換えれば、ベルジャーエフの語る通りである。われわれの探求においては、魂は囚われの状態にあり、霊は仮死の状態にあると捉えている。それがキリストの復活と出合わされることによって霊は生き返り、魂は解放されて創造的本性を発揮し始める。

 創造的似姿である人間とは、聖神にとらえられて絶対的・太陽的人間キリストに結びついた人間のことである。

 

 

* わたしはここでベルジャーエフの『創造の意味』を取り上げているが、わたしの研究はベルジャーエフの思想の研究などではない。わたしは他人の思想などを研究しない。わたしの関心ごとは、「わたしがいかに生きるか」である。人の思想を研究する暇はない。「わたしがどう生きるか」を研究し、探求しているのである。いかに生きるかに関係がない学的な論説や、博士論文などにはほとんど興味を持たない。それがタロットを含むあらゆるものについてのわたしの探求姿勢であり、研究姿勢である。