人間ーーミクロコスモスとマクロコスモス(7) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

 人間の創造的使命の奥義を開示することーーーそれが、新たなわれわれの人間論である。多少言葉のニュアンスが違うかもしれないが、ベルジャーエフがこれまでに語ってきた人間論は、これに尽きるのではなかろうか。

 

 そして、それを彼はアンゲルス・シレシウスの言葉を引用して、次のように言う。

 「“わたし自身が太陽であるべきだ。わたしは自らの光をもって、完き神性の無色の海を彩らねばならぬ。” しかし太陽が人間の内へ帰還するのは、ロゴスたる絶対的人間の、世界への藉身を通してのみである。ロゴスとは、人間と地球に、自然世界にあっては喪われている絶対的・中心的地位を返してやる、絶対的・太陽的人間(キリスト)のことである。」

 

 そして、さらに、「ミクロコスモスとしての人間の至高の自己意識とは、キリスト論に関わる意識であり、新たなアダムのこのキリスト論的自己意識は、原初のアダムの自己意識を超え、世界創造の新たな段階を指し示す。」と続ける。

 

 

ーーーこれを読むと、人は「気が違っているんじゃないの?」と思うかもしれない。わたしがここで、「キリスト教」という言葉を避けているのは、教会的キリスト教にはベルジャーエフが指摘しているような、「世界創造の新たな段階」とか、「至高の自己意識」とか、失われている「絶対的・中心的地位」などという人間論はないからである。これは、自らの霊的なキリスト体験が、「ロゴスたる絶対的人間が自分を通して生きている」という体験につながってはいないからである。絶対的・太陽的人間キリストと結合してはいないのである。

 

 「キリストを信じる」というような信仰と、「ロゴスである絶対的人間」と結合(または結婚)するということとは、別次元の話だとわたしは思っている。

 

 

 世界はーー情欲に囚われたこの世界はーー、完き神性の無色の海だが、秘儀参入者は自らの内なる絶対的人間の光をもって、この無色の海を彩らなければならない。

 

 

 さて、以上を踏まえて、ベルジャーエフの次の考察へ進んでいく。

 

 

テキスト(p.90):

「絶対的人間の内にあって、人間本性は実在の至高の神的圏内に留まっており、いっぽう転落した自然的人間の内にあっては、低次の圏内に沈み込んでいるが、それも転落した人間を高次の圏内へと高めんがためである。絶対的人間とはーー神人とはーーロゴスであり、被造世界の太陽である。これを通して人間は、太陽のごときもの、被造世界のロゴスとなるのであり、またそうなるべく創造主により使命づけられている。」

 

 

ーーー絶対的人間(キリスト)の内にあれば、人間本性は実在の至高の神的圏内の内に留まっている。ここで、神は人格となり、私は個性になるからである。ここで、私は神と私ひとりだけで向き合い、「神のひとり子である私」が開示してくる。

 この「個性」とは、断片化した個別的精神ではなく、全一的で、情欲からは分離した「絶対的精神」に結びついた個人である。(*ロゴスとは、言い方を変えれば絶対的精神のことである)。

 

 

 さて、ここからは、今回取り上げる基本的なテーマに移りたい。

 

 

テキスト(p.92〜93)

「キリスト論的啓示とは、人間論的啓示である。人間の宗教意識が抱える課題とは、人間のキリスト論的意識を開示することである。」

 

 

ーーーさて、これはいったい、何を言わんとしているのであろうか?

テキストの(注)には、「もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」(ガラテヤ書2の20)と付されている。「人間のキリスト論的意識の開示」とはこのことだ、と言っているのである。

 

 これは、よく言われる「キリストの内在化」であるが、それだけでは教会的キリスト教と同一である。真理探求者の見出すものはーーすなわち、創造的使命の奥義を開示するものが見出すものは、ーー「至高の自己意識」でなければなず、「ロゴスたる絶対的人間」でなければならない。そして、そういうものとしてのキリストとの婚姻関係を結ぶことである。

 このようにして、神人キリストと探求者は結びつき、探求者は人神としての秘儀参入者に生まれ変わる。

 

 

 そして、ベルジャーエフの重要なポイントとわたしが捉えるところへ行き着く;

 

 

テキスト(p.92〜93)

父と同じ資格を有する永遠からの神のひとり子は、絶対的神であるばかりか絶対的人間でもある。キリスト論こそは唯一の真なる人間論である。絶対的人間たるキリストの、地上への、人類の内への出現は、人間と地球が宇宙の内に有する絶対的にして中心的な意義を、永遠かつ絶対的に確立した。

 

 

ーーーここは、ベルジャーエフのキリスト論・人間論の中で最も重要な点だとわたしは考えるが、ここで、わたしが捉えているキリスト論と彼のそれとの間には、重要なズレが生じている。「絶対的人間たるキリストの、地上への、人類の内への出現」の中に、彼は人間と宇宙の内に有する絶対的・中心的意義を永遠に、絶対的に確立されたと述べているが、ここでは重大な「十字架におけるキリストの死と復活」が語られてはいない。

 

 

 キリストの十字架上の死と復活を抜きにした、人間と宇宙の絶対的・中心的地位を見出す論考は、キリスト論とブッダにおける阿弥陀仏論とが同一になることであり、また通俗的カバラの人間論とも大差ない。

 これらは、わたしが捉える秘儀参入者にはなっていない。「人神」の誕生は、菩薩が阿弥陀仏に変容することと同一ではなく、阿弥陀仏が世自在王仏に帰依することでもない。それら旧約的な人間論、世界観の先に見出されるものが、「十字架上の秘儀」によるキリスト論だと思っているのである。これは絶対的、かつ永遠の次元で確立される事柄である。

 

 

 「テウルギアのタロット」論では、キリストの十字架は人類のためや人間のためなのではなく、その死と復活が「わたしのためだった!」と、聖神タロットの霊によってわたしの全存在に示されることであり、それが、人神誕生への道につながるのである。

 

 

*(注):

 わたしがここで述べていることを、キリスト教を否定しているとか、仏教を否定しているなどとは、捉えないでいただきたいと思います。宗教にカルトがつきものだからと言って、宗教を否定することはできないとわたしは思っています。あたかも、戦争を起こすからといって政治を否定することはできず、ブラック企業が生まれるからと言ってビジネスを否定することができないことと同一です。それらが存在しなければ、世界はもっと恐ろしいものになっていくことでしょう。

 

 どんな時代であれ、宗教無しで人間は生きてこなかったし、これからもそうであるに違いないとわたしは思っています。

 

 

 

(タロット:聖神による人神の誕生)