ベルジャーエフ「創造の意味」(3) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(3)

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。

 

(N.  ベルジャーエフ)

 

緒 論 (終)

 

 さて、ここからは『創造の意味』緒論から心に響いたものの抜粋を取り上げ、彼の人間と置かれた時代にどう取り組むべきかを探っていきたい。

 

テキスト:p.9 以降。

 

近代の人間意識について:

 これは、「世界」に力を消耗しきった人々、個性の核を喪失した人々の、虚妄な自己意識である。彼らの「世界」への隷従は、自己への埋没であり、彼らの自己への埋没は、自己の喪失である。「世界」からの自由とは、真の世界たるコスモスとの合体である。自己からの脱却とは、自己を獲得することであり、自己の核を獲得することである。

 

 この、20世紀のみならず21世紀にも続く人間の「自己意識」は、自己の喪失だとするベルジャーエフの指摘は、その通りだと私も思うが、「世界からの自由とは、真の世界たるコスモスとの合体である」と結論を先取りすることは、宗教的あるいは学術的であって、(生の)探求的ではない。なぜなら、コスモスとの合体を説くことよりも、個性の核の喪失、すなわち虚妄な自己意識は、なぜ生じているかを掘り起こすことが先決だからである。「真の世界たるコスモスとの合体」は見失われているのであり、現代において「コスモスとの合体」を説く主張やメソッドは、それ自体が「喪失」と「虚妄」を露呈している。現代はベルジャーエフが次の項目で指摘する、「学的ならぬ学らしさ」の解決方法に埋没しており、それ自体が「個性の核の喪失」であり、「虚妄な自己意識」の産物なのではなかろうか。

 

 なぜなら、現代の「真のコスモスとしての宇宙論」とそれと合体するという考えは、そのほとんどが心理学や神秘科学の影響から生まれてきており、心理学も(神秘)科学も、身体的・物質的人間と生活が対象であり、霊的人間を問題にしてはいないからである。

 ベルジャーエフが、本書の次のテーマの「創造的行為としての哲学」の中で指摘する通り、われわれの探求は「所与の世界を超える、至賢の真理の探求」であり、「真理は至賢(※賢者)の内に開示される」のである。

 

 われわれの「精神的交わりの水準の低下」が、「至賢」の喪失であり、「個性の核の喪失」を招いた。われわれはダンテにおけるような、精神的「地獄、煉獄」を共に探求するウェルギリウスのような「至賢」を持たず、仮に持っていると錯覚しても、それは「天界(ベアトリーチェ)」から遣わされた者ではない。われわれはせいぜい自分のお気に入りの相手か、自分の慰め手との交流を持つのみである。それらはこの世界の根底から完全に抜け出し、別の実在を創造するほどのものではない。

 

 以下、私はベルジャーエフの「緒論」の後半から、私の心に響くものを抜粋し、この項を終わりにして、次へ探求を進めたい。

 

 p.11:「超越的なものと内在的なもの、(世界は棄て去るべきもの、徹底的に克服すべきものであるとともに、世界はその本性からして神的であり、人間はその本性からして神的であるという、この)二元論と一元論という永遠の二律背反から逃れる道は、意識の内には存在しない。二律背反が解消されるのは、意識や理性の内においてではなく、宗教生活そのものの内において、宗教的体験そのものの深みにおいてである。」

 

 この「宗教生活そのものの内において、宗教的体験そのものの深みにおいてである」という言い方は、必ずしも十分ではない。ブッダと共に探求することなくして「無」はこの世界で体験されることはなく、イエスと共に歩くことなくして「神の国」がこの世界に到来することはない。「宗教的体験そのものの深みにおいて」とは、聖霊が到来するほどの深い交流を言うのである。「聖霊」は「あなた方の間にやって来る」のであり、単独の人間に何の根拠もなく到来するのではない。

 仏教であれば、鈴木大拙 師と岡村美穂子さんのような、探求を共にする交流である。そこに「宗教的体験そのものの深み」として、「霊的体験の深み」が現れる。それは「生きているようで死んでおり、死んでいるようで生きている」、と岡村さんが語る交流であった。つまり、「この世を超えた関係」であったのである。それが、宗教的体験以上の、「霊的体験の深み」であると私は捉えている。

 

 (この)宗教的体験は、世界を、完全に神的なものであると同時に、完全に神的ならぬものとして生き抜き、悪を、神的意味からの離反であると同時に、世界の発展過程において内在的な意味を有するものとして生き抜く。

神秘的認識は悪の問題に常に二律背反的解決を与えており、そこでは常に二元論と一元論が玄妙にからみ合っていた。

 

 神秘主義者はほとんど誰しも、悪は内在的に生き抜かれねばならぬという意識に固執した。超越的な考え方は、常に不徹底さの印である。

 

 ベルジャーエフの主張は、上の事項に関しては私は問題ないが、下の事項に関して、彼の主張は明確ではないと思う。「悪は内在的に生き抜かれねばならぬ」という時、それは彼の実際の体験の中ではどのように受容され、どのような内的変化が起こっているのだろうか。人間の魂の罪深さが、自他の人生に痛切に現れて来て、その矛盾の中で耐えがたい苦しみを経て、その後、絶対的なるものが「神の子キリストの到来」として圧倒的に彼の人生に訪れたのかどうか。そして、それは「生の全面的変容体験」につながっているのかどうか。私には、この文面ではいまひとつ明確ではなく、疑問を感じるのを拭い去れない。

 

 P.12:宗教生活にあって、客体としての与件、客体としての対象は存在しない。神、キリスト、奥義などのあらゆる客体化・外在化は、これらを平面へ不完全かつ便宜的なかたちで投影したものにすぎず、歴史的=文化的現象にすぎない。

 

 ここはベルジャーエフの言う通りである。真の創造者、真の神は徹底的に霊的であり、いささかも物質的ではない。絶対的に霊的なので、絶対的に有的なのである。だからこそ、ガリラヤのイエスに1度も会ったことの無い使徒パウロに決定的な「回心体験」が起こったのであり、ベアトリーチェに2度ほどしか会っていないダンテ に、ベアトリーチェが「天啓の到来」として働いたのである。ベアトリーチェなくしてダンテ の『神曲』は生まれてこれない。

 

 そして、ベルジャーエフの次の把握は、『創造の意味』の「緒論」の絶頂である;

 

 成熟した内在主義は、「世界」の悪による非抑圧状態から人間を解き放つ。「この世界」は悪の俘囚であり、神的生からの転落である。「世界」は克服されるべきものである。

 しかし同時に、「この世」は、コスモスの創造、神性の三位一体の内なる運動、神の内なる人間の誕生という、内的・神的過程の1段階にほかならない。宗教的体験は、この二律背反を避けることができない。

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 絶対的なものが確立されるのは精神生活の深みにおいてであって、絶対的なものの何ら適用されえない外的・相対的世界においてではない。世界の悪に対する敢然たる戦いは、自由をもたらす内在主義的意識の内に生まれるのであって、そうした意識にとって神は人間精神に内在しており、「世界」は人間精神にとって超越的なのである。

 「世界」はわたしの意識にとって、真正ではなく虚妄である。「世界」はわたしの意識にとってコスミックではない。・・・・コスミックな真の世界とは、「世界」の克服であり、「世界」からの自由であり、「世界」への勝利である。

 

 これは共産主義下の旧ソビエトにおける思想弾圧のもと、内在主義的意識の内に生まれる自由を求めて思索したベルジャーエフでなければ言えない世界認識ではなかろうか。その血の通った思索と表現が、彼の論理以上の説得力を持って私に迫ってくる。

 

 そして、ベルジャーエフの本書「緒論」のまとめは、こうである;

 

 人間の究極の奥義は、人間の内なる神の誕生であり、神の究極の奥義は、神の内なる人間の誕生である。そしてこれは2つの奥義ではなく、ひとつの奥義である。なぜなら、人間が神を必要としているばかりではなく、神もまた人間を必要としているのであるから。ここにキリストの奥義、神人の奥義が存する。

 

 本書はまさに、創造を通じての弁人論の試みである。

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すべてが精神の秘儀として、永遠の内に成就する精神の道の諸段階として、把握されねばならない。一切の外的なもの、客体的なもの、物質的なものは、精神の深みで成就するもの、つまり人間の内で成就するものの、象徴化にすぎない。

 

 私はここに、キリスト教と仏教とが二者択一ではなく、探求者の魂の深まりとして、精神の深まりの中で、縦列にイエスとブッダとが結びつく「新たな宗教意識」を見出すことができる。私は今までの生の探求の過程を考えて、もはやこれからの人間がキリスト教だけに戻ることや、仏教だけを世界認識の土台として考えるわけにはいかない。世界認識の「弁人論」はブッダであり、新たな世界創造の「弁神論」はイエスである。これは、私にとって縦列的な魂の深まりの過程であり、魂の深まりの過程として、ブッダの「無」はイエスの「復活」の中で死ぬ。短くも長い「生の探求」の末に、私は今そこにたどり着いた。ここに、「救済」の人生から「創造」の人生への移行が、新たな時代の地平への発展として、開けてくるのを私は見出すのである。

 

 

『創造の意味』緒論は、ここまで。終わります。