ベルジャーエフ「創造の意味」(4) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

 ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(4)

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。)

 

 

序章:創造的行為としての「哲学」

 

 ※管理人のjizodouは、求道者として真理を探求しているのであり、「哲学」の研究が直接の目的ではないので、この項は素晴らしいベルジャーエフの哲学論を3回ほどにわたって要約するに留める。その際、強調する言葉を「」で括ったり、文字の色を変えたり、管理人が重要と思える箇所に下線を施したりした。あらかじめお断りしておきます。

 

 

1. 「哲学」と「学らしさ」とは?

 

 哲学はいかなる意味においても学ではなく、いかなる意味においても学であってはならないーー芸術、道徳、宗教は、学的であってはならない。

 

 哲学は学より古く、より本源的であり、「智」により近い。哲学は学の未だ存在しないときに既に存在し、自らの内から学を派生させたのだった。哲学から学を派生させた分化現象を、哲学は自らの固有の領域の解放として、喜んでしかるべきである。

 

 学の価値を真面目に疑うことは誰もしない。学とは、人間にとって必要な1つの争う余地のない事実である。しかし、「学らしさ」の価値と必要性は疑うことはできる。

 「学」と「学らしさ」は、まったく異なる2つの事柄である。「学らしさ」とは、学の諸規範を、学とは無縁な精神生活の他の諸分野へ持ち込んだものである。学らしさは、学こそは全精神生活の至高の規範であり、これによって立てられた秩序にすべて従わねばならず、その禁止と裁可はあまねく決定的意義を有する、という信念に立脚している。

 

 理性の限界内での宗教、合理主義的プロテイスタンティズムーーこれはもはや宗教生活に対する学らしさの君臨であり、宗教生活の自立権への侵害である。

 

 (学ならぬ)学らしさとは、実在の低次の諸圏への精神の隷従であり、必然性に支配されていることの意識であり、世界の重圧に従属しているという、絶えずつきまとって離れぬ意識である。学らしさとは、創造的精神が自由を喪失したことへの1つの表れに過ぎない。

 

 

2. 「学」とは?

 

 その固有の本質からすれば、学とは、世界の生の暗い森の中で途方にくれた人間の、自己保存の反応である。生きて発展して行くために、人間は四方から彼に襲いかかる「あるがままの世界」の中で、「認識」という手段によって自らの位置を見定めねばならない。

 

 「学」とは、「あるがままの世界」への順応の道具、「押しつけられた必然性」に順応するための、完成度の高い道具である。「学」とは、「あるがままの世界への順応」を通じて得られた「必然性の認識」であり、「必然性に由来する認識」である。

 

 「学」はさらに、「自己保存のための自己定位と反応を目的」とした、「あるがままの世界の必然性」に関する、できる限り簡約化された記述、と定義することもできる。学的思考は、常に世界の必然性への深い対応と順応の内にあり、それはあるがままの世界の中での、自己定位のための道具である。

 

 学的理論は、必然性への順応の道具であり、その内には世界の必然性への恭順があり、このあるがままの必然性ゆえの限界がある。あるがままの世界が限られた状況であることへの正確な対比が、限られた論理となったのである。思考の内なる必然性とは、世界の必然性への順応を余儀なくされた思考の、自己保存に他ならない。

 プラグマティズムの個々の発現に対して批判的な態度をとることはできても、学の有するプラグマティックな本性は、自らの生命に固執する功利的・生物学的性質を、否定することは難しい。

 

 学的哲学、(学的)神智学、(学的)魔術、ーーこれらは不可能にして不要である。「学」とは「必然性への服従」である。

 

 「学」とは、「創造ではなく服従」であり、その本領は「自由ではなく必然性」である。学は人間精神の解放では決してなかったし、またあり得ない。学は常に、人間が必然性に囚われていることの現れであった。

 

 学はその本質と目的のしからしむるところに従い、常に世界を必然性の相の下に認識する。必然性のカテゴリーこそ、実在のあるがままの状態に順応することで自己を定位する学的思考の、根本的カテゴリーである。

 学が世界の内に自由を観ずることはない。学は究極の奥義を知らない。何故なら、学は無害な認識であるから。それゆえ学は究極の真理を知らず、個々の真理を知るのみである。学の真理が意義を有するのは、実在の個々の状態にとってのみ、そこでの部分的自己定位にとってのみである。学は自らの現実を創り出すが、哲学と宗教の創り出す現実はまったく別様である。

 

 「学」が「あるがままの世界への能率的な順応」であり、「世界の必然性への服従」であるなら、何故、また如何なる意味において、「哲学」は「学」に依存し、「学的」でなくてはならないのか。