ベルジャーエフ「創造の意味」(2) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(2)

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。)

 

緒 論(2)

 

 さて、p.7以下のベルジャーエフの論考は大変適切なので、テキストをそのまま学んでいく。

 

 

『テキスト:

頽廃した魂はルシフェルとのいちゃつきを好み、自らがいかなる神に仕えているかを知りたがらず、至るところに危険と戦慄を感じ取っては喜ぶ。魂のこの頽廃、この衰弱、この分裂は、罪の結果への服従と卑下を説くキリスト教の教義の間接の所産であり、この教義の退化変質したものである。思惟のこの頽廃した分裂、善悪の区別へのこの衰弱した無関心には、精神の敢然たる解放と創造的決断を、断固対置せねばならない。

 しかしそれには、虚偽とまやかしに満ちた文化の堆積とその上梓ーー「世界」によるこの精妙な捕囚のからくりーーから自由になろうとする、張りつめた決意が必要である。 (*茶文字表記は管理人)

 

 この頽廃化した考え方とそれに対応する手法を主張する、現代の癒し社会と自分探しワークの混迷には、ベルジャーエフが主張する「精神の敢然たる解放と創造的決断を、断固対置する」必要があるのではなかろうか。

 さらに次に続く論考は、そのままに同意できる。

 

 

『テキスト:

 創造的行為は、常に解放であり克服である。そこには力の体験がある。創造的行為の発現は、痛みの叫びや受動的苦悩の叫び、抒情的心情吐露とはならない。恐れ、痛み、衰弱、滅び等は、創造により克服されねばならない。

 創造は、その本質からして脱却であり、出発であり、勝利である。創造のための犠牲は、滅びや恐れではない。そこでは犠牲そのものが能動的であって、受動的ではない。』

(*アンダーラインは管理人)

 

 現代の芸術的な取り組み方へのこの的確な彼の問題点の指摘から、いよいよ彼は核心を突いていく。

 

 

『テキスト:

個人的悲劇、個人的危機、個人的運命が、普遍的悲劇、普遍的危機、普遍的運命として体験されることの内にこそ、創造の道がある。

個人的救いにのみもっぱら心を煩わせ、個人的滅びを恐れることは、醜くも利己的であり、個人的創造の危機にのみ専念し、自らの非力を恐れることは、醜くも自尊的である。

自己への利己的にして自尊的な没入は、人間と世界の病的な乖離を意味する。』

(*アンダーラインは管理人)

 

 そして、彼の次の指摘は、これから何を自覚し、学び、行動に基点を見出すかにおいて、大変重要ではなかろうか。

 

 

『テキスト:

人間は創造主によって天才的なものとして創られており、この天才性を創造的活動により自らの内に開示せねばならず、一切の利己的なもの・自尊的なもの、自分自身の滅びへのあらゆる恐れ、他者へのあらゆる顧慮を乗り越えねばならない。

人間本性は既にその基底においては、絶対的人間たるキリストを通じて新たなアダムの本性となり、神の本性と合体しているのであって、それゆえ人間本性は、もはや自らを切り離されたもの・孤立したものとして感ずることはできない。』

 

 「人間は創造主によって天才的なものとして創られており、この天才性を創造的活動により自らの内に開示せねばならない」という。この「天才性」とは、創造的活動ができることを言い、能力の優劣としての天才性ではない。創造的活動は、それまでにない実在を生み出すことや、今までに誰もが認めていない価値を発見することである。それゆえ、創造的な活動をする者は、その内容の大小に拘らずすべて天才なのである。

 

 「人間本性は既にその基底においては、絶対的人間たるキリストを通じて新たなアダムの本性となり」、という。この「基底において」とは、既に実現したキリストの十字架上の死と、そこからの復活を指す。それが「基底」であり、「絶対的人間キリスト」となるのは、この死と復活が、宇宙内でただ1回だけ、絶対的なものとして超時間的に行われるからである。

 

 そして、この絶対的人間キリストと共に歩む人間は、「神の本性と合体している」。これは天における客観的事実として「神の本性と合体している」のだが、われわれの地上におけ主観的経験としては、神の本性と合体している者として決意し、そのように生きなければならない。

 そうすることによって、われわれは、一切の利己的なもの・自尊的なもの、自分自身の滅びへのあらゆる恐れ、他者へのあらゆる顧慮を乗り越え、もはや自らを(神と大宇宙から)切り離されたもの・孤立したものとして感ずることなく、創造的活動を通して自らの内に天才性を開くのである。

 

 そして、ベルジャーエフの次の言葉が続く。

 

 

『テキスト:p.8

創造者たりえ、人格たりうるのは、自己の内にすべての世界的なものを感じ取る人間、つまり自己の内なるすべてを世界的なものとして感じ取る人間、自己救済への利己的な志向と、自己の力についての自尊的な反省を、自己の内部で克服した人間、孤立し切り離された自己から自由になった人間のみである。人間は、自己から解き放たれることによってのみ、自己へ到達する。』

 

となる。

 これは、絶対的人間キリストとわれわれとが結合することによって、必然的に具体的な行動として現れてくる。

 そして、ベルジャーエフは、この緒論の最初の核心に触れてくる。

 

 

『テキスト:

もしも人間が創造的行為によって神と世界(虚妄な「世界」から解き放たれた真の世界)のすべての力を敢えて開示しうるならば、人間は自己自身の内に、限りない内在的助力を見出しうるであろう。』

 

 これは、創造主(神)の完全な世界支配を内在的に確信できる場合だけ実現する。「限りない内在的助力」とは、内在化した「聖霊の助力」である。

 われわれの創造的行為の「基底」は、神によるキリストの復活である。この復活のキリストは、今や地上に存在するのではなく天にいる。イエス以後2000年が経過している今、われわれはキリストの復活を目で見ることはできない。これが復活して、それだからこそいま天に存在することを知ることができるのは、キリストの復活の霊である「聖霊」が、決定的な事実として私の内にやって来るからである。

 

 私が聖霊の内に捉えられることによってだけ、聖霊の内において私は復活のキリストと結びつき、地上にいながら天上の世界にも同時存在するようになる。そしてそこからだけ、人の創造的な人生、新たな世界創造の人生が始まる。なぜなら、「復活」だけが、人間と世界の転落以降の「新たな宇宙創造」「新たな世界創造」の「基底」になるからである。