ベルジャーエフ「創造の意味」(1) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(1)

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。テキストの訳文引用に関しては、行路社様より了承済です)

 

緒 論

 

『テキスト:

人間精神は囚われの境遇にある。この囚われの状態を、わたしは「世界」、所与の世界、必然性と呼ぶ。「この世」は、コスモスではない。それは疎隔と反目の非コスモス的状態であり、コスモス的ヒエラルキーを構成すべき生けるモナドのアトム化であり、崩壊である。』

 

 ベルジャーエフは、人間精神は囚われの状態にあると捉える。それが「この世」だと言うのである。それは疎隔と反目の非コスモス的状態にあり、生き生きとした人間性が断片化しており、生命力の秩序の崩壊だと言う。

 それは、現代、または今の日本においては、緩やかに、しかし本質においては明らかに同意できることではなかろうか。そうだとすれば、われわれはベルジャーエフの観点に、「生の探求」の出発点において一致できる。

 

 

『テキスト:

真の道は、「世界」からの解放の道、必然性による囚われの状態から人間精神を解き放つ道である。』

 

 「必然性」とは、衣食住医に関するさまざまな条件づけである。それは必然なので、誰もその条件づけを避けては通れないが、それに「囚われる」なら、われわれは「生命力の秩序を崩壊」させてしまう。したがって、われわれの真の道は、ベルジャーエフが続いて言うように『「世界」を超え出て上方へ、あるいは深部へ赴くことであり、「世界」の内ならぬ精神の内なる運動』に目覚めることである。そして、この『「世界」への反応から自由になること』は、「精神の大いなる達成」である。これがなぜ「大いなる」達成なのだろうか? それは、この達成が、探求するわれわれの側面から実現するものではなく、コスモスの側から、「上方の側」から、神の側から引き起こされることだからである。

 

 したがって、その「真の道」は、ベルジャーエフが述べているような『高度の精神的観照の道、精神の集中と凝集の道』によるものではない。それは「神がわれわれの全存在に顕現する」上方からのものであり、それによって人間精神に「存在の変容」が起こる道であるとわたしは捉える。

 

 では、この「真の道」は上方から、神の側から、ただ一方的に起こるものであり、われわれ人間の側には何の関係もないものだろうか? 人間の側からの「求道」は全く関係がなく、ただ上方からランダムに「変容」がもたらされるのであろうか?

 もちろん、そうではない。そこには、人間の側における「精神の囚われの状態」への苦しみ、悩みの「自覚」が痛切に起こっていなければならない。精神が「この世」の必然性の中で鈍感であっては、上方からの「変容」は起こりようがなく、「この世」の「生命力の秩序」は「崩壊」していく。

 この痛切な自覚が、「求道者」に「真の道」への探求を促し、「探求」が始まるのである。ここに探求への第一歩、「この世」の囚われの状態への「分離」が、明確な自覚の元に始まらなければならない。これは、「神と人間との弁証法的な結合」の道であり、そこから、世界の新たな創造が起こっていくのである。

 

 

『テキスト:

コスモスとは、真に存在するものであり、真の実在であるが、「世界」は虚妄であり、所与の世界、必然の世界は虚妄である。』

 

 ここは、今まで解明してきた通り、ベルジャーエフの述べる通りである。

 しかし、われわれの現実は、「この世」を生きていかなければならないという生活の必要性の条件づけを受けており、われわれの意識、探求、「これ」が良くて「あれ」が悪いという価値観などのすべては、この必要性の条件づけの範囲内にある。この条件づけなしに、何が「真の存在」であり、何が「真の実在」であるかを考えたり、判断する力を持たない。

 では、われわれはどうすればいいのか? われわれの探求はここまでなのだろうか?

 

さらに彼は続けていく。

 

 

『テキスト:

この虚妄の「世界」とは、われわれの罪の所産である。』・・・・・

「世界」から自由になることこそ、罪から自由になることであり、誤ちの贖いであり、転落した精神の上昇である。』

 

 この虚妄の「世界」が、われわれの罪の所産だと「緒論」で語ることは、適切ではない。われわれは「精神が囚われの状態にある」ということを、社会体験での痛み、悩みを通して痛切に自覚したが、それが「罪の所産」であるかどうかは、まだ明確には発見していない。そのように主張したからと言って、その考えも判断も、「必然性による囚われの条件づけ」の範囲内での考えに過ぎないからである。したがて、その認識は、あるいは相対的には正しいかもしれないが、ゆるぎない真実とは言えない。その見解を、直ちに人生の真実として、生きていく上での土台に据えるわけにはいかないのではなかろうか。

 

 

『テキスト:

われわれは「世界」には属さず、「世界」と「世界」の内なるものを愛してはならない。』

 

 これは、探求者が「地の果て」までも探求したと言えるほど、突き詰め、突き詰め、探求した結果の痛切な自覚の場合だけ意味を持つ。そうでない限り、これはいくらでも選択の余地を残す数多の意見の1つに終わってしまうだろう。

 

以下、次回へ。