三国街道を歩く 10日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

23.5.22(月)
前々日・前日は上り電車だったが、この日は下りで六日町 8:23 の電車で浦佐へ。8:40 浦佐駅から歩き始めた。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

8:50 左の方に普光寺と毘沙門堂があり、浦佐宿はその門前町だったそうだ。毘沙門堂に立ち寄ってみた。毘沙門堂は807(大同2)年に坂上田村麻呂が建立したそうだ。本当かな。本尊の毘沙門天は、近くの住吉椿沢村の椿の大木から彫られたそうで、このあたりでは椿を薪にすると祟りがあるという言い伝えがあるそうだ。
毘沙門堂から戻り、第四北越銀行の支店前を通過。この北側に本陣があったという。

 

浦佐のフットパス 旧三国街道コースの標識

 

9:09 新幹線の高架下に「浦佐のフットパス 旧三国街道コース 6/21」という標識があった。ウォーキングコースの案内かな。この後しばらく、同様の標柱が何か所かあった。

その先で上越線の踏切を越え、魚野川と左手の河岸段丘に挟まれた狭い区間に差しかかった。「浦佐のへつり」と呼ばれるそうだ。「へつり」というと、会津に「塔のへつり」という観光名所があると聞いたことがある。ただ、行ったことはない。検索してみたら、「へつり」とは会津方言で川に迫った険しい断崖を意味し、漢字では「岪」と書くそうだ。ここは会津ではなく越後なのだが、越後でもこういう地形を「へつり」と言うのかな。
川と山に挟まれた狭いスペースを、JR上越線と国道17号が通っている。旧街道もこのあたりを通っていたのだろうが、残っているはずはなし。

「へつり」が終わった後、なるべく旧街道沿いに歩くには線路を越えねばならないが、近くに踏切がない。国道17号のガードレール(ワイヤのガード)を越えて段差を下り、線路沿いの通路に出たら、コンクリートの通路だった。暗渠の覆いかもしれない。ちょうど上り電車が来るのが見えた。400mほど先だろうか。私に気付いたようで、警笛を鳴らした。列車往来妨害は犯罪になる。電車が通り過ぎるのを待った。電車通過後、左右を確認し、踏切のない場所で上越線の線路を越えた。よい子の皆さんはまねしないでください。


河岸段丘の山裾を進み、町屋の集落に入ったら、「浦佐のフットパス 旧三国街道コース 13/21」標識があった。さっきのが 6/21 で、ここが 13/21。やはりウォーキングコースの標識らしい。

9:40 小川の橋を渡った。渡った後、小川沿いに遡る。男性2人が田植機の準備をしていた。脇を通り、「おじゃまします。」と言ったら「はいどうぞ。」との返事。
そのすぐ先で斜め右の山道に入ったが、入口に「浦佐のフットパス 旧三国街道コース 14/21」標識があった。山道の途中には「浦佐のフットパス 旧三国街道コース 15/21」標識。このフットパス標識をみたのはここが最後だった。16/21 以降は八色駅方面に向かっているらしい。

山道から舗装路に出た少し先で、突然轟音が鳴り響き、びっくりした。何の音だろうと思ったら、すぐ先の左側に新幹線トンネルの斜坑入口があり、扉がガタガタ動いていた。保守作業用の入口だろう。扉の揺れはすぐに治った。さっきの轟音は、新幹線の列車がトンネル内を通過したためだろう。

県道128号に合流し、栃原峠への坂に入った。三国街道を高崎から北上し10日目、峠らしい峠越えはこの栃原峠が最後となる。ここから栃原峠の先までの区間は、資料によってルートがかなり異なっている。geocities にあった三国街道の記事から推定したルートを進んだ。ただし、既に旧街道が失われた区間も多々あるそうだ。
最初のヘアピンカーブの橋の手前で左に入る砂利道が旧街道だそうだが、行き止まりで県道128号には戻れないそうなので、ここはパス。そのまま県道を行った。

三番目のカーブの山側に待避所があり、ここに峠道の入口があった。反対側、県道の谷側には旧道らしき筋が見えたが、ここまでは繋がってはいないようだ。また、県道はここで通行止になっていたが、やってきた車が1台通って行った。よくある黙認パターンだね。

 

 

10:20 栃原峠への山道に入った。geocities にあった三国街道の記事ではここから峠へ上ったそうで、「街道歩きの旅」の地図でもこのルートだが、国土地理院の地図に記載がなく、本当に通れるか不安だったが、すぐに「旧三国街道」と書かれた新しい標識があったのでひと安心。
ところがその先に倒木があり、下を潜ろうとしたら、木の下から蜂が1匹出て向かってきた。スズメバチではなかった。飛び去った後、2~3分待ってから倒木の下を潜ったら、無事通れた。スズメバチだったら引き返していただろう。
その先の太めの木の根本に石仏があった。geocities にあった記事「1787(天明7)年の銘のある三面馬頭観音」だろう。

10:40 栃原峠の標柱に到着。この峠は万治年間(1658~1660)に開かれたもので、それ以前の街道は魚野川に沿い、渡し船2か所を通っていたそうだ。六日町盆地(魚野川)と十日町盆地(信濃川)とを隔てる山脈を、魚野川が突き破る地点で、左右を山に挟まれて川幅も狭い。


川沿いの難所や渡しを避けて峠を越えるのは、旧街道にはよくある。私も旧街道歩きを始めてから何度も経験したが、そういう峠は昔の面影を留めていることが多い。この峠も、近代以降の上越線,国道17号,関越自動車道が魚野川沿いに小出を通るようになったためだろう、昔の面影のある峠である。峠の標柱の先には「首なし地蔵」「茶屋跡」などの標柱や赤坂万倍神社があった。

 

 

また、「月岡御岳遊歩道入口」の標柱があり、案内板もあった。ここから遊歩道があるようだ。月岡御岳遊歩道案内板の地図には旧三国街道のルートも書かれていて、峠から先、北側の旧三国街道は「悪路」と記されていた。
geocities にあった三国街道の記事にも、栃原峠の南側(南魚沼市)はきちんと整備されていたが、北側(魚沼市)はそうではない。と書かれていたが、どうやらそうらしい。峠北側の山道入口らしき所をみたら、かなりぬかるんでいた。やはりここは通らず、すぐ近くの県道128号に出ることにした。

県道を下り始めてまもなく、3人連れとすれ違った。男性1人と女性2人で、山菜採りなどではなく、ウォーキングのようだった。峠を越えて南の方へ下るのか、それとも月岡御岳遊歩道か?


さらに県道を下り、最初のヘアピンカーブの手前で右の旧道に入ったら、11:00 盛土で行止りとなっていた。舗装路で、国土地理院の地図にも実線で記載されているのだが、通行止め。盛り土の先に舗装路の痕跡はなく、崩落で埋まったようにも見えたので、県道へ迂回することにした。迂回中、高圧送電線下に作業用通路かあったので、旧道方面へ出られないか行ってみたが、徒労に終わった。

迂回区間が終わり、通行止めだった方へ向かったら、道は砂防ダムで終わっていた。旧街道はここに下りていたようだ。下から見ると、通って通れないことはないようにも見えたが、確証はない。

砂防ダムから引き返し、県道128号に戻った。川沿いの田圃の中を下った。田植えの時期だね。JR上越線を地下道で潜って、12:27 越後堀之内駅に到着。三国街道の旧宿場、堀之内宿の中心は駅前の少し北らしい。

まだ昼過ぎの早い時刻だが、峠越えもしたし歩く区間の区切りもあり、越後堀之内駅でこの日の街道歩き終了。浦佐駅から 20,633歩,12.9km。予報どおり黄砂が多くなってきたようで、視界がやや悪くなってきていた。13:05 の電車で六日町へ戻った。