遠野街道歩きへ | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

先月から三国街道を歩き始めて未だその途中なのだが、次回が標高1,244mの三国峠を通る区間なので、今冬の積雪の影響を考慮し、いったん自宅に帰った。
昨年は盛岡から宮古街道を歩いて太平洋に出たので、今年も同じように北上山地を越えて太平洋に出る旧街道を歩こうと、遠野盆地を通って釜石に至る街道を歩いてみることにした。

23.3.4.02(日)
自宅を出て、奥州街道と宮古街道・遠野街道との分岐点「惣門」へ。住所を匿んでおきたいので、自宅からここまでのルートは載せません。奥州街道のこのあたりを歩いたのは、21年5月20日だった。2年前ということになる。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

10:24 惣門から宮古街道・遠野街道へ歩き始めた。すぐに「かわてつ商店」前を通過。江戸時代から続いた店だったそうだが、昨年春に倒産。地元紙の記事にもなった。
その先、もりおか町家物語館のあたりで、車に乗っていた人から道を聞かれた。知らない公園の名だった。そんな公園あったかな。秋田ナンバーの車だった。町家物語館前で、宮古街道との追分を通過。ここから宮古に向けて歩き始めたのは、昨年3月20日のことである。
国道4号線バイパスを越え、国道396号に入った。ここからしばらくは国道396号とその旧道を南下することになる。

11:03 シダレカツラの標柱があったが、付近にそれらしき木は見あたらなかった。数百m ほど歩いたら、シダレカツラの案内板と、当のシダレカツラがあった。手前で見た標柱はここを意味していたのかな。
11:30 手代森I.C. 入口を通過。東日本大震災からの復興の一環で、一昨年3月に開通した盛岡宮古横断道路の入口である。
11:40 かつて渡し舟があったというあたりを通過。三本柳の渡し場と呼ばれたらしい。それらしき痕跡はなさそう。
その先で市街地が終わり、田圃になって視界が開けたら、岩手山と秋田駒ヶ岳が見えた。秋田駒ヶ岳は雲に覆われていることが多いが、この時はよく見えた。

 

遮光器土偶の案内板

 

12:19 遮光器土偶の案内板があった。この近くで出土したとのこと。解説を読むと、「遮光器」はイヌイットが使うようなサングラスではなく、目の誇張表現だとか。
その先の民家の庭先に、木彫りの像があった。タカかワシか。猛禽類には違いないだろう。
12:55頃、 消防車が数台、サイレンを鳴らして次々と通って行った。化学消防車まで通ったので何だろうと思い、翌日の新聞を見たが、掲載なし。

最初の旧宿場、乙部宿に入り、13:25 乙部小学校跡の前を通った。ここにも少子化の影響が現れているなあ。そういえば今月「こども家庭庁」が発足するとか。
日本の少子化対策は問題の根本に取り組まず、児童手当を18歳まで延長だの、支給対象の所得制限を無くすだの、対象療法ばかり言っている。効果があるとは思えないバラマキばかり。財源はどうすんだい? 財政破綻は間近だぞ。野党も「こども国債」などと言い出している。衆愚政治だね。

乙部小学校の校庭跡で、途中のコンビニで買ったおにぎりの昼食。惣門から 17,610歩,11.8km。元校舎の正面玄関上には、「乙」と「小」を表したような校章があった。昼食後、ウォーク再開。

14:23 柳田の一里塚があったという地点を通過したが、痕跡も見つけられなかった。そのすぐ先の十字路に追分の石碑と解説板があった。

 

追分の碑の解説

 

「とのかいど にぎり 山でらみち ひだり」「沢田与右衛門 林崎仁兵衛 やなぎだ 久右衛門」「享保元年八月吉日」と刻まれているそうだ。1716年の建立か。東へ行く道との追分らしい。
この日の遠野街道歩きはここで終え、この追分から西へ向かい、長岡支所前バス停へ。

 

バス停の手前で八坂神社に立ち寄った。階段下の鳥居の脇に狛犬が置かれていて、自動車事故で崩壊した後に再建されたものである旨が台座に刻まれていた。昼食後、長岡支所前バス停まで 5,345歩,3.7km。

当初は 14:19 の盛岡行きバスを予定していたが、これには間に合わず、14:58のJR日詰駅行きに乗った。日詰駅の券売機上の運賃・路線図には、Suica 料金は5月27日から。と表示されていた。盛岡周辺も今年5月から、Suica 対応エリアになるんだな。15:47 の電車で盛岡に戻った。