三国街道を歩く 2日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

23.3.15(水)
高崎駅前のビジホをチェックアウトし、予約していた渋川駅前のビジホへ。朝でまだチェックインできないので、フロントで了承を得たうえで車を駐めた。歩いて渋川駅へ。10:12 の関越交通の高崎駅行き路線バスに乗り、小倉四ツ角バス停へ。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

10:30 小倉四ツ角バス停駅からウォーク開始。このバス停は「GPSCycling」のルート上にある。前回歩いて来た「街道歩きの旅」の方のルートへ入ったら、吉岡町と渋川市の境の十字路に「旧三国街道」の標識があった。やはり、このルートの方が合っているようだ。
だが、その先の数百メートルがはっきりしない。「街道歩きの旅」では一直線の概略ルートだった。geocities にあった記事の文章からルートを推定したが、途中の区画整理された区間だけは、旧道らしき方を歩いた。私のこの推定が正しいか否かは、全く自信ない。

 

中筋遺跡

 

11:25 中筋遺跡に立ち寄った。6世紀に榛名山が噴火した時、火砕流で埋没した古墳時代の集落とのこと。ポンペイの小集落版といったとこか。
中筋遺跡から旧三国街道に戻ったすぐ先の保育園の入口に、英国の衛兵のような人形が置かれていた。
12:03 「石造卒塔婆」の案内板があったので行ってみたら、現住住宅の庭にあった。門から覗いてみたら、家の中の人とガラス越に視線が合い、会釈とそんきょの仕草をしたら、特に断るような雰囲気ではなかったので、門の中に少し入って写真を撮った。

県道35号バイパスの「法務局西」交叉点を横切って、渋川の市街地に向かったら、女子高生が多数下校しているところだった。卒業式等でもなさそうなのに、水曜の正午になんで下校なんだろ。

12:22 県道33号に出た。この県道沿いに東西に広がるのが三国街道2番目の旧宿場渋川宿で、宿の中心は少し東の十字路らしい。渋川村里程元標があった。明治10年のものだそうで、「伊香保村へ2里7町12間8尺 金井村へ25町5間3尺」と書かれていた。尺まであるとはずいぶん細かいな。

小栗上野介日記,旧渋川信用組合などの前を通った後、12:40 渋川村里程元標脇の「そば処けむりや」で昼食。歩き始めから 11,543歩,7.4km。

店の中に製粉機があった。実際に使われているらしい。自家製粉か。手打ち・自家製麺という店はときどき見かけるが、製粉まで自家工程という店は珍しいな。

13:15 昼食後、ウォーク再開。渋川の中心部を離れ、県道35号を北上。

 

地下牢


14:00 三国街道3番目の旧宿場、金井宿の中心を通過。児童公園が本陣跡とのこと。地下牢の跡があった。佐渡へ送られる流人を閉じ込めておく地下牢だそうで、すぐ先にある吾妻川が川止めになった場合は、何日もここに留め置かれたとか。

河岸段丘の段丘崖を下り、杢ヶ橋関所跡へ。杢ヶ橋関所跡の標柱は現住住宅の敷地内にあった。この家屋が関所跡か。関所のすぐ先は川原で、川の北側には北牧宿がある。
北牧宿とさっき通った金井宿とで吾妻川を挟む形になっている。広い川を挟んで両側に宿場があるというパターンで、川止めに遭った旅人はどちらかで待機する羽目になった。

川をはさんで南が南牧、北側が北牧と呼ばれたそうで、「南牧」は「南杢」とも書かれたそうだ。橋が架けられた時期もあったようで、関所の名「杢ヶ橋」はそれに由来するのだろう。かつて架けられていた「杢ヶ橋」は、甲州街道の猿橋のような構造の刎橋だったそうだが、度重なる洪水で何度も流され、結局は渡し船になったそうだ。

今は渡船などないから、ここは1kmほど上流の県道36号の北群馬橋を渡るしかない。北群馬橋への迂回路を歩き、14:45 JR金島駅でトイレを借りた。ここでこの日のウォーク終了。昼食後は 8,386歩,5.3km。歩き始めから 12.8km と短めの距離だが、前後の区切りの都合により、この日の街道歩きは金島駅で終了。
次の上り電車は 15:22 発だが、駅前 14:57 の路線バスもある。路線バスで渋川へ戻り、ビジホにチェックイン。