児玉往還歩き 2日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

23.3.07(火)
この日の朝は起きた時から目が痒かった。花粉だな。前日は朝まで雨だったせいかそれほど感じなかったが、この日は晴れの予報だから花粉も多く飛びそうだ。坂戸 9:06 の電車で高坂駅へ。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

9:18 高坂駅からこの日のウォーク開始。9:30 千人同心街道と分かれる追分を通過。道標があり、「八王子道」と刻まれていた。
9:38 東武東上線の踏切を渡った先で田圃の中の未舗装路へ。地図によると、近くに三日月沼という河跡湖がある。都幾川の蛇行の痕跡だろうな。ただ、道から沼は見えなかった。


10:10 関越自動車道の橋の隣に架けられている県道の橋に着いた。東側には県道に上る階段があった。橋を渡った後は西側へ行くので、西側のほうから上ろうと思い、西側へ行ったら階段はなかった。東側へ引き返し、階段を上って都幾川の橋の歩道へ入ったら、橋の途中でウォーキングらしき高齢者数名とすれ違った。

橋を渡った後西側へ向い、「街道歩き旅」に記載されていた堤防沿いの予定ルートへ行ったら、工事立入禁止だった。しかたなく迂回したが、別のサイトではこの迂回路の方を掲載しているので、どちらが正しいかは一概には言えない。

10:46 農家らしからぬ民家の前に、放し飼いの鶏が5羽ほどいた。放し飼いだと、卵も肉も旨いだろうな。

正午過ぎ、児玉街道4番目、日本橋から12番目の旧宿場菅谷宿に入った。東武東上線武蔵嵐山駅に立ち寄り、駅前で昼食。高坂駅から 17,671歩,11.2km。

開業当初の駅名は旧宿場と同じ菅谷駅だったそうだが、1928(昭和3)年に日本の「公園の父」と言われる本多静六という人物が近くにある渓谷を訪れた時、風景が京都の嵐山に似ているため、武蔵の国の嵐山と命名したところ、これが評判となって観光客が増え、1935(昭和10)年に武蔵嵐山駅に改称されたそうだ。
さらに1967(昭和42)年の町制施行の際、菅谷村から嵐山町と改称したとのこと。そういえば関越道にも嵐山パーキングエリアがあるなあ。ラ行で始まる地名なので、古来からの地名ではないなと以前から思っていたが、そういう経緯があるんだな。また嵐山は、日本の国蝶オオムラサキの生息地だそうだ。

12:55 昼食後、ウォーク再開。1kmほど南にある稲荷塚古墳に寄り道した。事前の下調べで、横穴が開いていてその中を見られる古墳とのことだったので立ち寄ってみた。どこに横穴があるのか、一周(といっても20メートルほどか?)してみたら、民家の塀の脇、塀から2mほどのところにあった。横穴の前に鉄格子があって中には入れなかったが、鉄格子の隙間から横穴の中を撮影。

 

古墳の横穴の中を鉄格子の隙間から撮影。石室になるのかな?

 

誰が埋葬されていたのだろう? ヤマト政権が関東を支配下に置く前の豪族だろうか。

 

14:45 児玉街道5番目、日本橋から13番目の旧宿場、奈良梨宿に差しかかった。「ならなし」と読むそうだ。八和田村道路元標という碑があった。旧宿場名は奈良梨なのに、旧村名は八和田なんだね。何で違ってるんだろ。

奈良梨には国際十王交通の路線バスが通っていて、熊谷駅と小川町駅とを結んでいる。武蔵嵐山駅から小前田駅までの間で、駅周辺以外で路線バスと交叉するのはここだけなので、この日歩く目標は奈良梨に決めていた。バス停の位置と時刻表を確認。昼食後は 7.4km,11,506歩。次のバスまで1時間近くあったので周辺をぶらぶら。

村社八和田神社へ行ったら大スギがあった。村社からバス停へ戻り、座って休めそうな日陰の場所を探したら、近くの花屋に併設されたカフェがあったので、入店してコーヒーを一杯。

30歳くらいの女性がカフェを取り仕切っているようだ。バスの発車時刻まで30分弱、話しをしたら、昨年12月に開業したばかりとのこと。建物を建てたのは業者だが、木材は実家の山林から切り出したスギとヒノキだそうだ。

コーヒーの味はまあまあだったが、ロールケーキをサービスしてくれた。なじみの客とか、まだいないのかもしれない。失礼ながらこんな田舎で、花屋やカフェが成り立つんだろうか。まあ、がんばってください。

15:41 のバスで小川町駅へ。東武東上線の電車で坂戸のビジホへ戻った。