おくのほそ道の後、伊勢へ。2日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

22.10.05(水)
桑名 8:09 発の養老鉄道で石津へ。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

8:45 石津駅からウォーク開始。前日に駅まで来た時と異なる道で揖斐川堤防へ向かったら、「薩摩工事義歿者墓」という石碑があった。宝暦の治水を命じられた薩摩藩の殉職者の墓所だろう。
海津橋を渡って揖斐川の左岸堤防へ。前日、堤防の上を歩かないようパトカーに言われたので、堤防の内側を歩くことにした。
何か所か排水機場の前を通った。10時過ぎに中江帆引排水機場の前を通ったあたりから、堤防内側の道がなくなり、堤防の上を歩いた。前日のうざいパトカーがまた来ませんように。

10:30 過ぎ、木曽三川公園に着いた。公園のタワー展望台に上ったら、テレビクルーがいて、リハーサルをしていた。もうじき生中継をするのかな。

 

木曽三川公園展望台からの眺め

 

展望台から木曽川,長良川,揖斐川が見えた。このあたりが長良川との合流地点だが、やはり長い堤防で揖斐川と長良川を隔て、合流地点をなるべく下流側にしている。展望台から下りて1階の展示スペースへ行ったら、小学生の団体がいて賑やかだった。三川公園を後に木曽川を渡り、いったん愛知県に入った。

 

船頭平閘門

 

正午過ぎ、船頭平閘門に立ち寄って見学。長良川と木曽川を繋ぐ閘門で、船舶の通る現役の閘門である。
 

船頭平閘門の先で三重県に入った。そのあたりの地名は桑名市長島町杉江。
曾良日記:
> 申ノ上尅 杉江へ着 予 長禅寺へ上テ 陸ヲスグニ大智院へ到
> 舟ハ弱半時程遅シ 七左玄忠由軒来テ翁ニ遇ス
大垣から下って来た川船から、曾良だけこのあたり(杉江)で下船して上陸し、長禅寺を通って大智院へ行った。芭蕉はそのまま船で下り、少し遅れてやってきた。ということか。その長禅寺は江戸時代の三川改修で桑名に移転したそうだ。杉江の下船場所も、当時の長禅寺も、正確な位置はもう特定できないだろうな。

13:30 近鉄線の橋脚跡を通り過ぎた後、その大智院に立ち寄った。曾良は信州諏訪湖近くの村で生まれたが、幼少時に伊勢長島の親戚に引き取られたという。幼少期をここ長島のあたりで過ごしたことになる。
成人後は、おくのほそ道で芭蕉に随行し、最後は幕府巡見使の随行員として、玄界灘の壱岐島で病没したそうだ(異説あり)。まさに旅の人生だな。

大智院の先で、国道1号に出た。私が最初に歩いた旧街道は東海道だった。その東海道ウォークでこの橋を渡ったのは 2008年12月20日で、その時は佐屋街道の終点佐屋から日永追分まで歩いた。もう12年近くも前になるので、その時の記憶は断片的である。

国道1号を西に向かい、長良川と揖斐川の橋を渡った。日本語における東西方言の境界はこの揖斐川だそうだ。長島から東が東日本方言で、桑名から西が西日本方言ということになる。また、この方言の境界は、角餅文化と丸餅文化の境界と一致している。とか聞いたことがある。事実かどうかわからないが、食文化に限らず、言語と文化は密接な関係にあることは疑いようがないだろう。

14:25 六華苑前を通過。ここは東海道を歩いた12年前に立ち寄っているので、今回はパス。ほどなく旧東海道七里の渡し、桑名側の船着き場跡に到着。旧東海道42番目の宿場で、ここからは旧東海道の陸路となる。旧東海道については書籍やネットの情報が豊富で、事前調査が楽である。右足小指に豆ができ始めたため、ここでテーピング。


旧東海道を南西に進み、16:38 橋を渡って四日市市に入ったところに、歌川広重の五十三次、四日市の絵が描かれた解説板があった。
17:13 近鉄富田駅でこの日のウォーク終了。この日も昼食を取るタイミングを逸した。石津駅から 30.1km,47,409歩。ちょうど、急行名古屋行 17:16 発が来たので、急いで乗り、桑名のビジホに戻った。