おくのほそ道ウォーク | M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

18.09.16(日)

朝食後、芭蕉乗船地近くの長山邸跡へ行った。
芭蕉と曾良は、ここにあった長山五郎右衛門という人の家に3泊し、句会も開かれたそうだ。
今では「バナナハウス」というアパートになっていた。
その後、内川(外堀?)沿いの芭蕉乗船地へ。

曾良日記によると「川船ニテ坂田ニ趣 船ノ上七里也 陸五里成ト」で、
芭蕉と曾良はここから酒田まで船で川を下ったそうだ。
城下町鶴岡と商業港酒田を結ぶ水路だから、昔は舟の航行が多かったことだろう。

おくのほそ道の乗船区間では、どこが一番長いのかな?
初日の江戸深川→千住宿の隅田川、松島湾内(塩竈→松島)や、最上川下り(元合海→清河)では
舟に乗っているが、この先、越後の築地→新潟も運河の舟かもしれないとのこと。
でもやはり、この鶴岡→酒田が一番長い乗船区間になるのかな。

現在では橋で簡単に渡っている箇所も、330年も前は渡し船や徒渡りが多かっただろう。
今まで歩いてきた区間では、利根・阿武隈・北上・最上など、大きい河川は渡し船だったろう。
これから先の区間では、阿賀野・信濃・黒部・手取・九頭竜あたりがそうかな。

で、今回の鶴岡から酒田までの川下り区間、現在は船には乗れないだろうから、
川沿いの堤防を歩くことにした。まあ、他のおくのほそ道ウォーカも同様だろう。
ただ、曾良日記の「陸五里成ト」は間違いだろう。地図を見ると陸路でも七里ある。

9:10 芭蕉乗船の碑から出発。左岸を進んだ。土手の上で生きている蛇二匹と、
車に轢かれて皮だけになった蛇一匹を見た。市街地にしては蛇が多いな。

9:25 青流寺川と合流。10:15 赤川と合流。赤川沿いの道を車で下見したのは、8月13日だった。
前日は無風状態だったが、この日は僅かにそよ風があった。蒸し暑い日のそよ風はありがたいね。

10:45 県道333号の峨眉橋を渡って右岸へ渡った。
格式あるような名で、古くて、いかつい鉄橋なので、おそらく国道7号の旧道に違いない。
名の由来は何だろう。中国の峨眉山から取った名前かな。

右岸の三川の町の旧集落を通り過ぎ、県道沿いの道の駅「庄内三川」に立ち寄った。
敷地内に「田田の宿」という温泉付き宿泊施設があり、11:40 からそこで昼食。
メータでは芭蕉乗船地から 11.25km,14,509歩。

昼食後、県道333号から旧道に入り、三川町役場付近を通過。その先、酒田市青果市場の少し先で、
県道333号と国道7号バイパスとが合流するが、このあたりで、赤川の流れが北から北西向きに曲がる。

そして、ここから先のほそ道のルートが資料によって異なっている。
ネットのデータでは、ここで赤川から離れて北へ進み、広野というところで京田川に出る。
これに対し、金森氏の著書の地図では現在の赤川をさらに北西に2kmほど進み、
黒森というところで赤川から離れて北へ進む。

金森氏の著書によるとかつての赤川は、最後は最上川と合流して海に出ていたそうだが、
治水工事・河川付け替えで、現在の赤川は最上川には合流しない。とのこと。

地図や航空写真では、この黒森付近に昔の河川跡のような形が見える。
地図では黒森から一直線に日本海に出ているから、この部分が治水のための開削区間だな。
芭蕉と曾良も赤川を下って酒田に出たのだから、金森氏のほうが正しいだろう。
13:50 国道7号バイパスを横切って、赤川の堤防へ。2km ほど堤防を進んだ。

イメージ 1
旧赤川跡と思われる水路。

14:25 黒森付近の河川跡のような地形の手前に、水門と水路があった。
現在の赤川は、上の写真の向かって右、西へ流れ、2km ほどで日本海に出る。
手前の小川が、おそらく旧赤川の跡だろう。
金森氏の著書に掲載された地図でも、このルートに見える。

そうだとすると芭蕉と曾良はここを舟で下ったことになる。しかし、その先の水路は
まっすぐで人工的に見える。赤川の河口水路開削の後、こちらはまっすぐに改修したのだろう。

旧赤川の位置、昔の地図や土木資料等まで調べればわかるのだろうが、
それとて芭蕉の時代と同じとは限らない。
研究者でもなく、酔狂でほそ道を歩いているだけの私に、そこまで調べるほどの意欲はない。

水門の少し先で県道38号に出た。県道の向こう側正面は、山を開削したであろう人工的な地形。
ここで赤川から離れ北上。すぐに38号の旧道へ。袖浦の集落を通った。

15:20 高速道の下をくぐって少し先、豆ができそうが感触がしたので、右足の親指にテーピング。
15:50頃、その先の錦町に着いた。酒田の新興住宅地らしい。
この少し北に飯森山という小高い丘があり、昔の赤川と先ほどの京田川は
ここら辺で最上川に合流していたらしい。現在の京田川はこの京田のあたりから最上川と並行するものの、
堤防で仕切られ、河口付近ぎりぎりまで合流しないようになっている。

16:10 京田で国道7号の橋に入り、最上川を渡った。
大きい川の河口付近なので、渡るだけで5分以上かかった。

暑き日を 海にいれたり 最上川

橋を渡った後、左へ折れて北西方向へ。県道353号を北上し国道112号へ。
17:00 新井田川を渡り、酒田の旧市街に入った。少しして、不玉宅跡を通った。
伊東玄順という人の家で、芭蕉と曾良はここに泊まったそうだ。
田田の宿→不玉宅跡 は 23.66km,29,856歩。

17:30 酒田駅着。朝ホテルを出てから酒田駅まで、ウォークメータでは 39.17km,49679歩。
このメータは距離を長めに表示するので、実際は35kmくらいだろう。
途中で区切れる場所が見あたらなかったので、鶴岡から酒田まで一気に歩いた。
起伏のほとんどない平地のウォークだったが、30km以上歩くとやはりかなり疲れるな。

上り各停は 17:22 に出たばかりだった。
次の 17:48 発は余目から陸羽西線に入るので、鶴岡に戻るのには使えないが、
行先は新庄ではなく、清川となっていた。
駅内の表示を見たら、陸羽西線は8月の豪雨災害で、古口~清川が不通とのこと。

これを機会にJR東は陸羽西線を廃止に追い込むつもりかな?とも思ったが、
後で調べたら、10月運行再開予定とのこと。

18:04 の特急いなほに乗り、鶴岡へ戻った。