おくのほそ道ウォーク | M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

M3Variant : 高齢者の仲間入りしました

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLのほとんどはM3型(多顆粒型)ですが、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

18.09.13(木)

敬老の日の3連休、前日までの天気予報では山形県庄内地方の降水確率はやや高かった。
が、この日の予報では確率が下がり、15日(土)夜以外は晴れらしい。
行くか行かないかずっと迷っていたウォークの続きを決意。鶴岡までの乗車券・特急券を購入。

18.09.14(金)

3連休の降水確率予報は上がっていた。15日(土)午後以外は雨らしい。ありゃりゃ。
勇み足だったかな。でも切符は買ったし、ホテルも前から予約済だし、行ってみることとした。

午後は半休を申請済。昼に丹沢の麓の勤務先を出て新幹線で新潟へ。新潟から在来線特急で鶴岡へ。
鶴岡は今年だけで4回目。駅前の景色を見ても、また来たか。という感じ。
ほそ道のルートからして、鶴岡には何泊もすることになるね。他のほそ道ウォーカも同じかな?

鶴岡駅前のビジホにチェックイン。
今年の5月と7月に泊まったビジホ、大浴場があったのでそこにしたかったが、
今回は満員で部屋を取れず、別のビジホにした。大浴場がなく、ちょっと残念。

降水確率予報は下がっていた。翌日15日は曇りだが、雨は降らないらしい。
どうもこの時期の天気予報は直前に変わることが多いな。
昨年,一昨年もそうだったような気がする。

18.09.15(土)

天気予報の豹変に一喜一憂していたが、この日はほそ道の続きを歩くことにした。
天気は曇り。隙間から青空が見えることもない完全な曇りだったが、
月山や鳥海山の頂上ははっきり見えていた。

羽黒山頂行のバスに乗り、荒澤寺・月山ビジターセンタへ。手前の谷沿いの区間は
土砂災害からの復旧工事中。8月の豪雨で崩れたようだ。

荒澤寺・月山VCバス停で下車。月山への車道入口にある電光掲示板には、
この先は通行止めで、迂回路へ行くよう表示されていた。この道も8月の豪雨にやられたのか。

いったん荒澤寺に立ち寄り、8:55 山門の真向かいにある山道へ入った。羽黒山へ登る山道である。
5月にここを下った時は途中から土砂降りに見舞われ、月山VCに駆け込んで雨宿りしたなあ。
45分ほどで羽黒山頂に着き、5月に上った2446段の石段を今回は下った。
一気に下ることはせず、9:55頃、1/3ほど下ったところで、南谷へ行く道へ入った。

南谷宿坊跡

5月に来た時、南谷へは立ち寄らなかった。かつては南谷に宿坊があり、
芭蕉と曾良はそこに泊まったそうだ。今回は立ち寄ってみた。

南谷の宿坊跡から先の山道へも行ってみたら、荒澤寺から登ってきた山道に合流した。
芭蕉と曾良が月山へ登ったときはここを通ったのだろう。
合流地点から元の道へ引き換えしたところ、途中の沢に渡した板の上で滑って転んでしまった。
再び南谷を通って石段に戻ったのが10:55。ちょうど1時間。

石段を下り、羽黒山麓の宿坊の町、手向(とうげ)着。「**坊」という看板が目につく。
白装束で月山に登っている団体客は、ここ手向の宿坊に泊まることが多いのだろう。

宿坊は本来、寺で僧侶を宿泊させる部屋だったらしいが、時代が下ると参詣者も宿泊させるようになり、
寺の部屋でなく、周辺の宿屋に変化していったらしい。
江戸時代には、巡礼や参詣を名目にすると通行手形を取得しやすかったため、
お伊勢参り,金毘羅参り,善光寺詣でと称して通行手形を取得し、観光旅行をしたそうだ。

宿坊側もその辺りの事情は心得ていて、参詣者を宿泊させるという名目だが、
実態は観光客相手の宿だったのだろうな。
私の勤務先は相州大山の麓にあるが、大山参りもその一つ。

11:35 宿坊の町、手向で昼食。ウォークメータによると、
荒澤寺から10.76km,14,560歩だったが、途中で南谷に立ち寄った分を含んでいる。

珍しや 山をいで羽の 初茄子び

昼食をとった店の隣に「いでは文化記念館」がある。バス停名にもなっていて、
バス車内の案内放送でも聞いて知っていたが、この句から名を付けたのかな。
5月には立ち寄らなかったので、今回は入ってみた。

「いでは」って何だろうと思っていたが、出羽の別名、読み方を変えたものと初めて知った。
出羽、今では「でわ」と読むが「いでは」と読んだ時期もあるのかな。
風流なのか、五七五にするためなのか、わざと読みを変えているとか?

「いでは文化記念館」に展示されていた写真には、月山登山道にあった小屋の写真があった。
7月20日の記事に、三合目,四合目,七合目の立札の写真をアップしたが、
この立札のそばに小さな祠などが残っているだけだった。

8合目までの車道が開通する前は、1合目ごとに小屋があり、
巡礼者や登山者に、茶などをふるまっていたらしい。

小屋を再現したもの

この昔の写真に写っているのは茅葺の掘立小屋で、再現したものが展示されていた。
これでは冬季の積雪には到底耐えられず、潰れただろう。毎年初夏に建て直していたんだろうな。

記念館を見た後、12:40 鶴岡(曾良日記では「靏ケ岡」)へ向けて出発。
羽黒・手向から鶴岡へ向かうこの県道47号は、5月と7月の出羽三山ウォークの時や、この日朝も、
路線バスで通って来た。何回かバスで通っているので、初めて見るわけではない。
でも、バスと歩きではまた趣きが異なるな。時々旧道を通ったが、概ね県道47号を歩いた。

14:40 旧道から現県道へ合流する地点にパトカーが停まっていた。
事故かなと思ったら「わ」ナンバ(つまりレンタカー)の前側バンパが割れていた。
近くの縁石のポールが折れていて、割れ口も新しかったので、これに当たったんだな。

この頃から青空がちらほら見えて、陽が射したりし始めたが、月山の中腹に雲がかかり始めた。
陽が射していなかった午前ははっきり見えていたのに、陽が射すことで逆に
視界を遮る雲が出るのだから、天気は一筋縄ではいかないね。
完全な無風状態で、蒸し暑いことには変わりなかった。少しそよ風でもあればいいのに。

鶴岡市街に入る手前の赤川を渡る位置が、資料によって異なっている。
金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』では、そのまままっすぐ羽黒橋を渡るが、
ネットのデータでは 2kmほど北(下流側)の三川橋を渡る。

地図を見ると、羽黒橋から500mほど北の地点に渡し場があったように見える。
その対岸から鶴岡城方面への通りには桝形などもあり、やはり金森氏のほうが正しそうだ。

渡しがあったらしき地点まで行こうとして、県道47号から右の旧道へ入ったところ、
舗装工事をしていたため、少し迂回。渡しらしき地点まで行った後、500mほど上流の羽黒橋を渡り、
再び下流側の対岸へ戻った。こちら岸には神社がある。やはりこの辺りが渡しの位置に違いない。

桝形などを通って鶴岡城方面へ向かい、内川(外堀?)で右へ折れ、16:50 芭蕉乗船地点に着いた。
メータによると、いでは文化会館→芭蕉乗船地は、19.58 km,24,539歩。そのあと駅前のホテルに戻った。