昨年に続き、GWはおくのほそ道ウォークの続き。前日は雨のため予定より1日遅れ。
おくのほそ道のルートでは、往復している区間がいくつもある。短い往復区間や公共交通手段がない場合は私も往復歩いたが、いくつかは片道だけ歩き、往復するのは省略してきた。これまででは、黒羽→雲嚴寺,末の松山→塩釜,一関→平泉・中尊寺,天王寺追分→岩出山,土生田追分→山寺・立石寺,羽黒山・荒澤寺→月山→湯殿山神社の区間がそうだった。
前回の酒田→象潟も片道だけとするが、これまでの中では最長の距離になる。なお象潟から酒田に戻った時の曾良日記は「アイ風吹テ山海快 暮ニ及テ 酒田ニ着」で、陸路ではなく海路だったのではないかという説もあるそうだ。
そんな訳で、続きは酒田から歩くことにした。
19.04.28(日)
鶴岡7:40発の列車に乗った。途中、最上川の橋の手前で、羽越本線列車事故慰霊碑が見えた。強風で特急いなほが脱線して5人死亡の事故が起きたのは、2005年のクリスマスの日。私が白血病初発で最初に入院した時だった。病室のテレビで見たことを今でも覚えている。
8:16 酒田着。すぐに酒田駅からウォーク開始。まず不玉宅跡へ。昨年9月16日と22日にもここを通った。7か月ぶりとなる。ここは芭蕉と曾良が酒田で泊まった伊東玄順という人の家の跡地とのことで、象潟へ行く前に2泊、象潟から戻った後に7泊、計9泊し、句会も開かれたそうだ。同氏の俳号が不玉のため、不玉宅跡と言うのだろう。計9泊に及ぶ滞在中の様子は、曾良日記だけでなく、この伊東玄順氏の記録からも研究されているそうだ。
不玉宅跡から酒田市役所前を通り、8:50 庄内米歴史資料館に到着。開館が 9:00 なので少し待ってから見学。資料館は山居倉庫の中で、この倉庫裏のケヤキ並木の光景が有名である。
写真.山居倉庫裏ケヤキ並木
9:20 山居倉庫を立ち、目の前の国道112号と県道353号の交差点「山居倉庫口」を通過。昨年9月16日に鶴岡から酒田まで歩いた時のルートとここで分れる。9:40 最上川の橋入口。半年前は国道7号の新両羽橋で最上川を渡ったが、今回、酒田からは国道112号の出羽大橋。
曾良日記では「酒田立 船橋迄被送 袖ノ浦 向也 不玉父子 徳左 四良右 不白 近江屋三郎兵 加ゞや藤右 宮阝弥三郎等也」で、袖ノ浦の向かいの船橋まで、宿泊先の伊東玄順氏親子のほか大勢に見送られた。ということだが、今の地図で「袖ノ浦」を探しても見当たらない。市中心部から6~7kmほど南に「袖浦郵便局」があり、昨年9月16日に鶴岡から酒田まで旧赤川沿いに歩いた時、袖浦郵便局近くを通った。が、現在の地図で見ると、船橋で結べる距離ではなく、「向也」ではなさそうだ。市中心部から最上川をはさんだ向側に「宮野浦」という地名がある。ネットや資料等で調べてみると、袖の浦は現在の宮野浦らしい。9:50 国道112号の出羽大橋を渡り終えた。大勢に見送られて川を渡った芭蕉と曾良は、ここら辺に着いたのかな。でも、330年も前と今とでは、河川改修工事などで川や水路の位置はだいぶ変わっているだろう。橋を渡ってから1kmほど左に土門拳記念館があるが、4年前と昨年見たので今回はパス。
11:35、赤川の開削区間の橋に到着。昨年9月16日に歩いた時に通った、旧赤川との分岐点から2kmほど下流である。大正時代に開削工事がされ、昭和2年に開通した新河口だそうなので、芭蕉と曾良の頃はなかった川ということになる。赤川の橋を渡ったところに「アフタヌーンティー」という外食できる店があり、11:40 からここで昼食。iPod のウォーキングメータによると、不玉亭跡からここまで 12.44km,15,870歩
12:05 ウォーク再開。12:40 国道112号の旧道で、浜中の集落を通過。出羽浜街道の宿場とのこと。曾良日記に「酒田ゟ浜中へ五リ近し」とあり、浜中を通ったことが書かれているが、5里はないだろう。浜中の村社、岩船神社でトイレを借りた。水洗の腰掛け式で紙も完備。神社のトイレとしては随分立派だな。
13:05 頃、庄内空港滑走路下のトンネルをくぐった。13:18 酒田市と鶴岡市の境を通過。このあたりの国道112号は、両側が松並木になっている。
13:47 湯野浜温泉口交差点着。ここから坂を少し上り、1975年に廃止された庄内交通湯野浜線の線路跡に入った。現在では途中までサイクリングロードになっている。鉄道の廃線跡なので、芭蕉と曾良が歩いた道であるはずはない。曾良日記では「酒田ゟ浜中へ五リ近し 浜中ゟ大山へ三リ近し」で、酒田→大山の間、浜中を通ったことはわかるが、他の地名は書かれていない。近くの、現在は田んぼになっているあたりを歩いたのかな。
サイクリングロードは旧善宝寺駅の手前で終わる。14:30 善寶寺に到着し、中を見学。平安時代の938年~957年頃に開かれた古刹だそうだ。五百羅漢の特別展示をしていた。この五百羅漢は江戸時代末期に作られたものだそうだ。五重塔もあったが、解説板によると、明治に作られたものだそうだ。どちらもそんなに古いものではないな。曾良日記にはこの善宝寺の記述がないが、現在の地図を見ると、浜中から大山へ歩いたのなら、この寺の前は通ったはずである。参詣しなかったのか、単に記録しなかっただけなのか。
写真.善宝寺駅跡
写真.善宝寺駅跡
向かいの善宝寺鉄道記念館、湯野浜線廃止後に旧善宝寺駅を記念館にしたそうだが、今では立入禁止の廃墟になっている。失礼してロープを越えて中を拝見。旧ホームの脇に置かれたまま朽ち果てている昔の電車があった。
廃墟の記念館脇には土産物屋があり、玉こんにゃくのおでん鍋があった。80歳過ぎと思われるお爺さんがいたので、
「おでんください」「一本?」「はい。いくらですか?」「ひゃぐえん」
私M3Vも東北人だが、80歳過ぎくらいの東北人だと「百円」を「ひゃぐえん」と言うね。
善宝寺から南下。じきに大山の町に入った。出羽浜街道の宿場とのこと。曾良日記では「吉 酒田立 (中略) 未ノ尅 大山ニ着 状添而丸や義左衛門方ニ宿」で、未の刻、14時頃に大山に着いている。「状添」から、紹介状を持って丸や義左衛門という人の所に泊まったことがわかるそうだ。この紹介状を書いたのは、宮部弥三郎(低耳)という名の、象潟で知り合った美濃の商人で、酒田での見送りのメンバでもある。芭蕉・曾良のために、各地の宿への紹介状を書いているそうだ。この日泊まった大山では、丸や義左衛門あての紹介状を見せたことになる。
大山は日本酒造りが盛んで、全盛期には数十軒も酒蔵があったとか。現在は4軒を残すのみらしい。15:49 富士酒造前に到着。この富士酒造の数軒北隣が、芭蕉が泊った丸屋義左衛門宅跡とのこと。16:02 羽前大山駅に到着。ウォークメータによると、赤川での昼食後、17.62km,22,307歩。酒田駅からここまで、31.61km,40165歩。16:23 の列車で鶴岡へ戻った。
↓この日のウォーク(6月30日追加)