Shall we think?! -20ページ目

Shall we think?!

一個人、海賀大湧の自由な発想の記

パワースポットが盛んに脚光を浴びています。


10年ほど前から風水に関心を持って、吉方位への風水旅行(含:日帰りドライブ)を行ってきました。大地の良い気を取りに行く、浴びに行く、といった感じです。


例えば、次のような神社・温泉めぐりをしてきました。


北:出羽三山神社、北東:塩竃神社、東:香取神宮、東南:勝浦の温泉、南:館山の温泉、南西:箱根神社、西:下鴨神社・椿大神社、北西:戸隠神社・榛名神社・・・・


だから、東京にいても、大地に根が生えたような感じがして、生活ができています。不思議ですが、ありがたいことです。


李家幽竹さんによると、パワースポットとしての大地の気は、そのまま放っておくと、20年くらいで違う場所に移動してしまうのだそうです。それを逃がさないでその場所に固定させておくために、神社の境内を作り、「鳥居」で気の移動を封じ込めるのだそうです。だから、パワースポットの神社はいつでも気を漲らせているのです。


そのような大地の気が、生い茂る木々に宿り、「御神木」となる木も出てきたのでしょう。実際に、素晴らしい気を持った木々に出会ったものです。その横で1時間ほどたたずんでいると、身震いがして、足の裏から体中に気が充満してくるのがわかりました。大自然の恵みです。


人間も、いい気を持った方々に出会うと、とても気持ちがいいです。


人間も、大自然の一部です。


それを忘れた人々は、人間性の一部を失ってしまっているような気がします。


是非、いつも思い返して、豊かな心身に回復をして参りたいものです。



ノーベル平和賞という権威が、中国を揺さぶっている。


下記は、Asahi.comの記事を記載させていただいたもの。


【香港=小林哲】香港で17日、ノーベル平和賞に決まった劉暁波氏の釈放を求める民主派団体による抗議デモがあった。約40人が中国政府の駐香港事務所前で、投獄されている劉氏や自宅で軟禁状態にある妻・劉霞さんの早期釈放などを訴えた。参加者たちは劉氏の顔写真を印刷した面をつけて、「投獄は中国の恥だ」「釈放して授賞式に出席させろ」「民主的な中国を作ろう」などと声を張り上げた。



よくよく考えると、「言論の自由が許されていない社会」なんてものには、現代の日本人である私たちは戸惑うばかりだ。それも隣国で。


ほんとうは、中国民衆は「我に自由を」と内政に対して訴えるべきところを、「日本よ、出て行け」「沖縄は中国のものだ」等々と言ってそのエネルギーを周辺各国に向ける。政府がそうさせているという報道も見受けられるが・・・。


分かり合えるのか、合えないのだろうか。


どこぞの日本の研究機関で、真剣に、中国人気質ときちんと向き合えるスキルを研究しつくした人たちはいないのだろうか。思考・行動分析をし尽くせばよい。そうすれば、自ずと対応策は見えてこよう。米国では、各国人の特徴を分析している機関があると聞いたが・・・。


歴史の問題はあるにしても、感情・謝罪だけに任せず、少し科学的なアプローチで「関係を和らげる」解決策を見出してはいかがだろうか。


もちろん、きちんとした政治・外交姿勢があっての話だが。


日本を知恵で守り抜く、そういう政治家・外交官・官僚であってもらいたいものだ。



人の行動には、その意図(想い)が伴います。


意図(Intent)を伴った行動(Action)の特性・傾向を「コンピテンシー」と呼び、人事・教育の施策を考えるときの重要な要素となります。特別な深層心理までは触れず、仕事でパフォーマンスを上げるための意図(想い)と行動にフォーカスします。


お客様に喜ばれたい「顧客指向」、絶対に諦めずにがんばる「達成志向」、いろいろな情報に関心を持ち、収集する「情報指向」など仕事の遂行上に重要なものや、いつも倫理を守りたい「倫理観」なども仕事のベースとして大切になってきています。


そして、行動の頻度やレベルも観察・議論の対象になります。


そうすると、行動を観察して、特に頻度の高い行動を特定し、それがどういう意図(想い)なのかを確認・推察して、コンピテンシーの種類を特定します。


周囲から、「・・・という場面では、いつでも・・・・と行動する」と観察を重ねて、判断をされますので、その段階で、「自分では、そんなつもりはない」と言っても、今までの傾向で判断されていますので、反論が難しいのです。(法律と違って、どこに証拠が、と言っても逃れられないのです)


もちろん、自分が気がついていない、自分の優れたコンピテンシーも観察・判断されます。それはそれで喜びです。


良い行動を行うためには、良い「こころ(意図)」を鍛えなければならないのです。

たいそうに記述しましたが、昔から日本人は、人を良く見て判断していましたので、すぐに理解できる人は理解できてしまいます。(欧米が日本を見習ったという説もあります) 象牙の塔に入れる領域ではありません。


例えば、「国民視点」や「継続的発展」というコンピテンシーがあったら、どれだけの公務員がそれを発揮しているでしょうか。発揮していれば、「税金の湯水のような無駄遣いによる大赤字」は無かったはずだと思いますが・・・。


今に至ってもなお、「天下り防止」を骨抜きにする法案(現役官僚を出向させる仕組み)を通そうとしています。どういう意図なのか・・・、少なくとも「国民視点」でないことは確かですね。今回、古賀さんの真っ当な告発を、恫喝に近い言葉で批判した仙石さんに、空恐ろしさを感じます。



是非、みなでそういう視点を共有して、政治家たちも含めて、頼りない傾向の行動をしている方々を注視して参りたいです。



芸能(人)は、「タレント(才能)」を授かった者たちとして、それを観る者のこころを満たし、癒し、潤し、喜びと楽しみを与えてくれる。


舞台、コンサートはもとより、テレビにおいてもタレントのオーラを感じることができ、私たちを健康にしてくれる。街に貼られているポスターでさえ、観ていて元気がでる。ありがたいものである。


世の中に光を与えてくれる、本当に芸のあるタレントさんには、感謝してもしきれない。人間の可能性を感じさせてくれる。素敵な俳優・役者、歌手、落語家、画家、デザイナー、・・・・みなさんに感謝です。


一方で、芸を見せず/磨かずに、勘違いの優越感をひけらかす芸人は、見ていて痛々しい感じを受ける。それも芸風なのだろうが、もはやタレントの本質からは外れているのだろうと思う。また、民衆向けの芸能に携わるタレントが、庶民感覚を大切にしなくなったら、それも痛々しい。


また、芸能人がやたらと上下関係や人間関係に気を使い、芸能人同士でペコペコしているのもどうかと思う。一般の社会人と同じような縮図を観て、多くの視聴者は面白いのだろうか?芸能人は、「芸」で勝負するものだろうと思うのだが・・・。



素敵な、才能溢れ、そしてそれを磨き続けるタレントさんたちに頑張ってもらって、「本物を大切にする世の中」の風潮を盛り上げてもらいたいなあ、と願う。



加治将一さんの「あやつられた龍馬」を以前に読みましたが、ほんとうに面白いです。


歴史を語り継ぐ人々の意図を、様々な情報・証拠を収集・分析してくつがえし、真実を明らかにするような展開がとても痛快で、素晴らしいと思います。


よく考えると、下記のような加治さんの真っ当な疑問に、とても共感します。


○どうして脱藩した龍馬が、幕府や雄藩の意志決定者たちと談判でき、あれだけの大きな仕事をなしとげることができたのか。


○亀山社中を創設して、どうして短期間のうちに上海から武器を輸入できたのか。


○当時、飛脚代がとても高い時代に、どうしてあれだけの多くの手紙(私信)を姉に送ることができたのか。


等々・・・・


詳しくは書籍に譲りますが、長崎の英国商人グラバーのエージェントとして龍馬が任命され、その意を受けて動いていたようです。当時、列強各国は内戦による武器販売で儲ける算段をもっていたので、薩長同盟を仕掛け、幕府と対峙させたのも彼らの意図が働いていたのではないかとも思えます。


そう考えると、その後の龍馬は薩長同盟と真逆の「大政奉還」を仕掛けて、争いを避ける方向に動いたため、上記の考えに基づけばそれは「裏切り」と判断され、非業の最期につながったのではないか、ということも考えられましょう。


「大政奉還」に、龍馬本来のやさしさの本質が表れたのではないでしょうか。最後まで国を思い、大きな争いを回避する、その精神が、多くの民を惹きつけてやまないのではないでしょうか。


たった150年前に、国内で殺し合い、暗殺が横行し、・・・・熱狂に巻き込まれた人々の悲しい一面だと思います。


合掌。



現代にも、大局をおさえつつ、先見性をもって、強く正しいこころで、冷静に国の行く末を議論するリーダーたちの登場が望ましいと思っています。



外と内。両方の要素が、私たちを囲んでいる。


外の観点から言えば、グーグルアース(地図)のような大きな視点で自分の位置を見極める。宇宙、世界、日本、そして周りの社会環境の中で、自分がどんな立ち位置にいるのか、常に認識する。「社会のGPS」と言ってもいいかもしれない。


その位置から、どの方向に進もうかを考える。そして、どうやって進もうか、工夫して成長してゆく。いろいろな書物や人物との出会いがあるだろう。自分の進みたい方向に、よりよい刺激を与えてくれる出会いを探して、進んでゆく。



「こういう方向に進みたいなあ」ということは、自分の内から湧いてくる。最近は、メディアの発達で見聞きできることが多くなっているため、「面白そうだから」と自分の進む方向さえ流されているような気がする。


自分の内面を見つめて、自己対話を突き進めていくことが、自分を知るうえで大切なことではないかなあ、と思う。外の情報に流されず、一度、自分のフィルターに取り入れ、自己対話でその意味を深く考える。一日、5分間でもいいと思う。


自分が何が得意なのか、どういう傾向があるのか、どうありたいか等々を、「自分に愛情を持って」接し、考える。自分が何を社会に提供できるか、そのためにどうやって自分を成長させていくか、を考える。



外と内で、自分を認識・成長させて、社会に出てゆく。



社会に出た後、周囲の不健全さ、傲慢さに直面しても、上記の外と内の認識・成長の意識をしっかり持って進んでゆく。周囲は、必ずしも健全な意識で、私たちに接してくれるとは限らないから。他人の成長さえ疎ましく思う輩も少なからずいるのだから。自分で自分を一番好きになってあげないと。



健康な人々、書籍、情報との出会いや「絆」を大切にして、セルフ・プロデュースの意識で進みたいものである。



人は、体内の心臓の鼓動も含め、周囲に波動を伴った「気」を出している。





気が合う、合わないは、性格もさることながら、お互いに「気」の波動が合うので、一緒にいても楽しいことも大きな要因となる。





日常的な行動で、電車で隣り合った人とでも、「何だか気が痛い」とか、「横に座っていて楽だ」とか、「気」の感じ方が違う。





グループでも、「やる気」の方向性が合致したグループは、行動も楽しく、力強い。





また、水晶(クリスタル)を身につけることは、自分の気と同調して波動を共鳴させて高めてくれる効果がある。いつも気の合った友人と過ごしているような感覚になる。





そして、その気が、「こころの根底で、曇りなく、光り輝いていれば最高であろう。」




人は本来、「豊かな気を発する」生き物であることを、再確認したいものである。






人は、現象を認識・理解しようとして、その現象に名前(名詞)をつける。


毎年気温が上がってくると「地球温暖化」や、希少鉱物にスポットが当たると「レアメタル」という英語で理解する。それらの名詞を聞くだけで、内容・現象のイメージがつかめる。


しかし一方で、名前をつけることで認識・意識が過剰に進み、その呪縛から離れられなくなる人も多くいるのではないかなあ、と思うときがある。特にメンタル面の病状に、その傾向を感じる。


「躁鬱」、「うつ」、「引きこもり」、「分裂」等々、ネガティブな名詞がたくさんある。


良く考えると、人間誰しも、程度の差はあれ、メンタル面の浮き沈みはあるものだろう。決して、自分だけの特別な現象ではないのだが、名詞で病状として認識することによって、「自分は大変な状態かもしれない」と過剰に反応し、継続的に悩むことで悪化し、抜け出られなくなるのではないかなあ、と思う。


いっそ、病状の名詞を頭から離してみたらどうだろう。


「気が重いなあ」、「つらいなあ」、「元気が出ないなあ」、「休みたいなあ」、「やる気が湧かないなあ」、「混乱することが多いなあ」、「気が散ってしまうなあ」等々、形容詞・副詞を交えた状態で表現すると楽かもしれない。名詞はつけない。


そして、「まあ、そんなこと、皆にもあるさ」と考えて、そんな自分も好きになってあげて、「気分転換に・・・をしよう」と切り替えるクセをつければどうだろうか。周囲の視線や、既存の価値観に惑わされず、「人生、そんな時期もある」、と。(もちろん、現実を見極めて、あせらず、ゆっくりと自分の実力をつける努力をしつつ。)


ただ、香山リカさんの本によると、本当の「うつ」等々は「病気である」と思い、「病気だから治る」と考えるのが良いと書いていたような気がする。治らない病気なのではなく、病気だから治る、と。なるほど、と思う。


(ほんとうに)書いていてふと思った。戦前の日米の話を学んだとき、資本主義を少しでも否定したり、社会への分配を強調する人々を、「赤」(共産主義の意味)と名前をつけ、「赤狩り」が行われたようだ。名詞は、カテゴリー化して分かりやすく一つに括ってしまう。


資本主義と共産主義の間には、人間が知恵を絞れば、多くの融合の仕組みは存在すると思うのに。資本家のエゴがまかり通ってしまうと、多様な考えが「名詞で一括り」にされてしまい、批判の対象になってしまう。



「名詞」は、こわいこわい。名詞に囚われすぎると、一種の思考停止状態に陥らされてしまう。その名詞の周辺には、もっと幅広いスペースや解決策があるかもしれないのに。


もっと、事柄によっては、現象を「感性」、「イメージ」でとらえませんか?


英語の「マネー」が、どうして「お金」と訳されているのか、ずっと不思議でした。「金」は「ゴールド」で既に使っているのに。






「マネーの語源」というネットページを見つけましたので、御紹介します。




『古代ローマの造幣所は、女神Juno(ウノ、ジュノー)の神殿の中にありました。




ウノは Jupiter(ユピテル、ジュピター)の奥さんです。ウノは結婚式で新郎新婦を忠告する女神だったため、Juno Moneta とも呼ばれていました。 Monetaは「忠告する」という意味です。



3世紀に発行されたローマの銀貨には、女神の周囲に「MONETA」の文字が刻まれています。



いつしか Monetaは「貨幣」の意味を持つようになりました。

そしてこれがイギリスに伝わり、英語の ”Money” になりました。

この他にも、Moneta を語源とすると思われる単語がヨーロッパ中に拡がっています。




Moneta(イタリア語)、Monnaie(フランス語)、Monedas(スペイン語)、Moedas(ポルトガル語)

Monety(ポーランド語)、Monede(ルーマニア語)、Монет(ロシア語)、Монети(ブルガリア語)

Münze(ドイツ語)、Mynter(ノルウェー語)、Mynt(スウェーデン語)、 Mince(チェコ語)、Mønter(デンマーク語)』






マネーのもともとの意味は、「忠告する」のようです。






どう考えても、「金は天下の回り物」というような感覚とは相容れない語源のようです。




いっそ、「金(かね)」という言い方を止めて、「戒(かい)」「徳(とく)」「品(ひん)」「貴(き・たか)」など、受渡しの際に、忠告・戒めを思い起こさせるような名称に変えてしまうことはいかがでしょうか。




そうしたら、「裏金(うらがね)」なんて言葉を生みだす行動は減ると思うのですが。



御仏の世界には、魂の階層があるようです。今風に言うと、スピリチュアル・グレーディングとでも言いましょうか。


最高位は、既に悟りを啓(ひら)かれた「如来」様。阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大日如来など。何事にも動じず、周囲の者が感化されてしまうような存在でしょう。


次は、悟りに至る前段階にいる「菩薩」様。普賢菩薩、文殊菩薩など。自ら修行中でありながら、周囲の者たちに教えを説いている存在です。


そして、悪のこころを懲らしめ、衆生の目をひらかせる「明王」様。不動明王など。ほんとうに怖い顔をしているが、御仏のこころを持って悪を懲らしめるのです。


その下の階層にも、多くの御仏がいらっしゃるようです。


お金や地位が幅を利かせ、その周りに群がり、ひれ伏す人々で満たされた社会には、是非、スピリチュアル・グレーディングのしっかりした人々にご登場願い、痛快に、教えを説いて頂きたいものです。


梅原猛さんが著書「日本仏教をゆく」で、宮沢賢治さんを現代の菩薩と称されていました。


私も、「出でよ、宮沢賢治に続く、現代の菩薩様!」といった気持ちで一杯です。