いわゆる真田幸村公の記事の第三弾です。真田丸の続きから始めますね。
真田丸ですが、記録によっては少々ややこしくなっています。最初は後藤基次公が入る予定だったが、その後藤勢が遊軍となったので真田幸村が受け継いだ。そしてその際に幸村公が 「 真田丸 」 と(勝手に)名付けたとあります。
ですが、第二弾に書いた通り、真田丸はそれ自体が大坂城の馬出しみたいなもの。完全に旧武田領内の城のスタイルなので、やはり武田の遺臣である真田幸村公が最初から絡んでいたと思われます。幸村公が昼夜にかかわらず突貫工事で作った素晴らしい戦術眼を持った素晴らしい出城でしたが.....。これを豊臣譜代の大野治長は、 「 真田幸村は関東勢に一族がいるので、内応(裏切り)するかもしれない 」 と言っていたそうですから、始末に負えません。
いよいよ1614年の11月19日に、幕府軍の攻撃が始まりました。旧暦なので真冬だったそうです。
大坂城外である緒戦の「木津川口の戦い」や「鴫野/今福の戦い」は、戦い自体は一進一退でしたが、やはり物量に勝る関東軍が優勢。大坂方は早々と ろう城 に切り替えました。
真田丸近辺が本格的な戦闘に入ったのが12月4日。真田軍と対峙していた前田利常(有名な前田利家の嫡男)公の家来・本多政重が4日未明に真田丸の前方にあった篠山という真田の砦があった場所に攻め寄せると、人っ子一人いません。それもそのはず、事前に攻撃を察知していた真田勢はすべて退却していたのです。本多勢は易々と篠山を奪取しますが、それを真田丸内にいた武将が罵詈雑言を並べて挑発。怒った本多政重が真田丸に戦をしかけ、戦闘が始まりました。
この本多政重の抜け駆けに怒った越前の武将・松平忠直らが真田丸に取りつくと、真田勢は櫓の上から鉄砲を撃ちまくりました。本多勢及び松平勢は、途端に死傷者が続出し始めます。
関東軍にとってタイミングが悪い事に、このとき大坂城内で爆発がありました。実際は石川康勝という武将(有名な石川数正の息子)の配下が誤って火縄を火薬の中に落としたのが原因でしたが、かねてから真田丸の副将の南条元忠(元は秀頼公の家臣)という武将が関東軍に内応するという約束をしていました。事前に企てが発覚し南条は成敗されていましたが、関東軍はその爆発を南条の内応の合図だと思ってしまったそうです。
関東軍は真田丸に殺到してしまい、更なる死傷者が続出します。そしてこのタイミングで真田幸村&大助幸昌の父子が率いた500人ほどの部隊が真田丸から飛び出してきて。大混乱に陥っている関東軍に襲い掛かります。真田丸での緒戦は大勝利でした。ちなみにこの戦いが 真田 大助 幸昌 にとっての初陣となりました。打ち取った幕府軍兵士はこの日だけで1万人を越えたそうですが、さすがに誇張がある様な気がします。それから、この戦いは幸村公が昌幸公無しで戦った初めての戦です。これ以降、「真田幸村」の名前が世に出ます。
死傷者続出な関東軍は、12月23日に遂に大坂方と和睦をします。和議の条件は、かの有名な「本丸以外の堀を埋める事」です。外堀を幕府軍、三の丸及び二の丸を豊臣軍が担当する筈でしたが、幕府軍が作業を強引に手伝う形になってしまいました。年内には作業は終了。幕府軍は撤退します。
そして、翌年の夏に大坂の陣が再度勃発します。それが大坂夏の陣です。
その大坂夏の陣の話題は次回で。