真田 左衛門佐 豊臣 信繁 | かつぼうさんのブログ

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大好きな歴史の事等を「軽い暴言」を含めて(笑)書いていこうと
思っています。なにとぞ生暖かい目で見て下さい。

はい。いわゆる、真田幸村公の記事第二弾爆弾です。第一弾は、下のリンクからどうぞ。


http://ameblo.jp/m-katsubou/entry-12116633683.html


この記事のタイトルは、戦国時代でも指折りの武将・真田幸村公が名護屋に居た1594年から大坂夏の陣でなくなる1615年までの、幸村公の正式な名前です。


第一弾でも書きましたが、念の為再度記載します。「真田」は姓、「左衛門佐(さえもんのすけ)」は官職名、「豊臣」は本姓、「信繁」は諱(いみな)です。



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第一弾は、紀州九度山に流されていた幸村公が大坂に入場する辺りまで書きました。


幸村公の官職が「左衛門佐」だった為、大坂入城時は歓迎されたと書きましたが。真田昌幸&幸村父子を憎んでいた徳川幕府といえども、父子の官職をはく奪する事は出来なかったべーっだ!みたいですね。やはり幸村公の「左衛門佐」は、幕府ではなく朝廷から与えられたものだからでしょうね。


ただ、安房守(あわのかみ=真田昌幸公の官職)と左衛門佐の官職はそのままだったが故に、九度山での生活は大変だったむっみたいです。屋敷構えや調度品にそれ相応の「格」が必要宝石ブルーになってしまうからです。昌幸公を経済的に援助していた真田信之公(※)も大変だったでしょう。


ちなみにいつだったのかは正確にはわかっていないみたいですが、幸村公は九度山滞在時に出家お坊さんしています。この頃上田に送っていた手紙には、「 真 好白 信繁 」 とか有名な 「 伝心月叟 ( でんしんげっそう ) 」 の署名が多くなるそうです。


ただ、九度山滞在時、幸村公は実に7人も(!!!)子供を作っています。大坂夏の陣で秀頼公と自害した大助幸昌も、九度山で生まれています。



7人も子供を作っておいて、出家もクソもあるか!



と言う突っ込みが聞こえてきそうですね(笑)。


前置きが長くなりましたが、大坂方の要請により大坂城に入城し歓迎を受けました。歓迎を受けた理由は第一弾に書いた通り、幸村公が「左衛門佐」の官職を持った大名格だった事と、にわかには信じ難いですが、入城時に率いた手勢が有名な 赤備え だったそうです。


赤備えとは、鎧兜や旗指物を赤で統一する事。目立つ赤は、軍団の最強の部隊が使った色だそうです。真田といえば武田と縁の深い家柄。そして武田の赤備えは、そのあまりの強さ故に 「 赤 = 最強の部隊 」 というイメージを作り出した、言わば赤備えの元祖爆弾です。これは効果的だったでしょう。


幸村公が大坂に入城すると言う事で、国元から130人の武士が幸村公の元に駆け付けた音譜という記録が残っています。


徳川方の記録に、幸村公は秀頼公から入城のご褒美&支度金として黄金200枚を貰ったとの記載があるそうです。加えて豊臣方の記録に、騎馬武者一騎につき黄金2枚を支給したともあるので、幸村公は100人の騎馬武者とともに入城したか、(当時は騎馬武者一騎が徒歩の兵10人に相当したそうなので)1,000人の足軽とともに入城と言う事になります。おそらく騎馬と徒歩とがミックスされていたと思いますが。


幸村公の他に大坂に入城した、主な大名クラスを書いておきます。


長宗我部 宮内少輔 盛親 ・・・ 言わずと知れた四国の雄・長宗我部元親の四男。長宗我部家は関ヶ原の戦いで西軍についたからではなく、お家騒動で改易されてしまった。改易後は 大岩幽夢 と名を変え、京都で旧家臣の援助や寺子屋で生計を立てていたという説があります。


毛利 豊前守 勝永 ・・・ 本ブログでも紹介しています。父親の勝信公は、豊臣秀吉公直属の黄母衣衆出身。


後藤 又兵衛 基次 ・・・ 有名な黒田官兵衛の配下の最強の8人で、その名も「黒田八虎」の一人に数えられていた猛将。官兵衛の子・長政と仲が悪く、出奔してしまった。


明石 掃部 全登 ・・・ 関ヶ原の戦いでの西軍の主力・宇喜多秀家の家宰 ( 家老よりも上。有名な直江兼続も上杉家の家宰 ) 。西軍の敗戦&全登公はキリシタンだった為にどこにも仕官出来ず。秀頼公が大坂の陣で勝てばキリシタン布教を許すと言った為に大坂方に参加したと伝えられている。「あかし かもん てるずみ」と読みます。「全登=てるずみ」は、いきなり正しく読める人はいないでしょう。


大名だった長宗我部盛親公と毛利勝永公と幸村公の3人で、「三人衆」と呼ばれたという記録があります。また、大名ではなかったものの黒田家で16,000石の待遇だった後藤基次公と宇喜多家の家宰であると同時に豊臣秀吉公の直臣でもあった明石全登公(待遇は併せて10万石を越えていたという説もあり)の2人も含めて「五人衆」と言われていたとの記録もあります。



浪人は全員ひっくるめて 「 新座衆 」 と呼ばれますが、発言力は低かった様ですしょぼん。幸村公と後藤基次公が城を出て戦おう!と言っても却下。また、秀頼公の出陣も当然却下ショック!。却下したのは大野治長淀殿 ( この頃は 御袋様 と呼ばれていたそうです ) という、戦闘に関してはド素人叫び。プロの言う事がことごとく却下されては、勝てるものも勝てません。


援軍の見込みが無い ろう城(城にこもって戦う戦法) となりました。ここで幸村公は、大坂城の弱点ともいえる城の南側の補強の為に有名な「真田丸」を作ります。真田丸とは、大坂城の出城みたいなものです。


大坂城から約70メートル程離れた台地に築かれた砦みたいなもので、東西の長さは180メートル程あった三日月型だったと言われています。旧武田の城には 「 馬出し馬 」 という城から突き出た箇所がありました。幸村公の父・昌幸公の作った上田城や、昌幸公が築城に関わった武田最後の城・新府城にも馬出しがあったと言われています。高いところにあるので左右の敵の動きを掴みやすく、銃撃が可能ドンッでした。真田や武田の戦法のノウハウをつぎ込んだと言えるでしょう。



すいません、夜勤明けで眠たくなってしまいました。少し休みます。あまり進んでいませんが(笑)、今回はこれまでって事で。




(※)昌幸&幸村父子が九度山に流された頃、信幸から改名しています。真田家の棟梁に受け継がれた「幸」を捨てる事によって親・徳川をアピールしたかったからだとか、結果的に裏切ってしまった昌幸公に申し訳が立たなくなって「幸」の字を自ら辞退したからだとも言われています。