誤解を解いておきたい戦国武将 小田原北条氏 | かつぼうさんのブログ

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左:北条早雲公(伊勢新九朗)、右:北条氏康


今回誤解を解いておきたいのは一人の武将ではなく一族全体、『 小田原北条氏 』です。


四代目の氏政と五代目の氏直に「世の流れを見る目目」が無く、全国を統一しつつあった豊臣秀吉公に最後まで逆らい続けてしまいました。そして、結果として五代百年続いた家を滅ぼしてしまいました。それによって、小田原北条氏全体の評価が低くなってしまっている印象があります。


ですが、あくまで四代目と五代目が馬鹿だっただけで、その他は決して暗愚ではありませんでした。


小田原北条氏の祖は、有名な『 北条早雲 』公。下剋上の見本プンプンとまで言われているこの稀有な武将には、逸話が沢山あります。早雲公と意気投合した六人の浪人が「 我ら七人の中で誰かが大名になったら、他の六人はその家来となろうではないか! 」と誓い合ってお酒を呑み交わした話しは、私も大好きな三国志の「 桃園の誓い 」に似ていますね。有名な伊豆討ち入りで早雲公が伊豆を支配すると、先に誓い合った六人が本当に早雲公の本に馳せ参じ家来となります。有名な「 御由緒六家 」の話しです。また、早雲公が駿河(静岡県東部)に向かった時に、山賊に襲われ身ぐるみ剥がされてしまいました。その時たまたま通りかかった貴婦人に助けられ、それが縁で今川家(義元公で有名)に仕官したとか。


早雲公のそんな逸話の数々を、子供の頃ワクワクしながら読みましたが・・・。


上の話しは全て逸話(またかよ!)。早雲公の父・伊勢盛定公は、室町幕府八代将軍・足利義政公(銀閣寺を作らせた将軍)に仕えた身分の高い人でした。早雲公は、幕府の命令で今川家の家督争いの調停をしに駿河に下向し、目的を果たすとそのまま今川家の家臣となりました。


今川家の家臣となってからしばらくすると、鎌倉公方(関東の武士を束ねる存在)にお家騒動が起きました。それを早く収めたい幕府の意向を受けて、早雲公は鎌倉公方の対抗勢力を叩きそのまま伊豆を支配しました。


って、何だかつまんないですね(笑)。これだったら、まだ下剋上の方がずっと面白いです(笑)。


これには私の想像も入りますが。鎌倉公方の対抗勢力(堀越公方)は、戦をする為に伊豆の民に重税を課しました。堀越公方をやっつけると、早雲公は税を安くしました。伊豆の民は喜んで早雲公を迎え入れたそうです。初めて自分の国を持った事で、早雲公も気さくに民に接したのでしょう。もちろん民は早雲公の出自なんて知りませんから、「御由緒六家」とか「伊豆討ち入り」といった話を勝手に作ってしまったのでは無いでしょうか?


早雲公はその後、有名な小田原城を奪いそこを足がかりに相模(今の神奈川県西南部)を攻め取りました。


二代目の氏綱公を挟んで登場するのが、「北条中興の祖」と言われる『 北条氏康 』公です。あだ名は「相模の獅子」です、カッコいい!幼い頃は近くで見た鉄砲の音に驚き家臣に笑われ、「うつけ者=バカ」と言われた氏康公でしたが、元服(成人)すると父・氏綱公に従軍し次々と手柄をたてていきます。順調に武蔵や下総に勢力範囲を広げていきましたが。


相模の獅子に最大の試練が訪れます。当時関東を支配していた山内上杉氏(関東管領)と扇谷上杉氏(有名な太田道灌公はここの家老でした)が古河公方・足利持氏と結託。今川家を継いだ義元公とともに東西から北条を攻めたのです。両上杉&古河公方の軍勢は、何と八万五千人で北条氏綱公が三千人で守る河越城を取り囲みました。それから今川義元公は、お家騒動(花倉の乱)で奪われた駿河東部奪回に燃えていました。


ここで相模の獅子の判断/行動は迅速で狡猾でした。駿河東部返還を条件に素早く今川と和解。手勢八千人を率いて河越に駆けつけました。その際、両上杉&古河公方に、「今まで奪い取った領地はお返しする」とか「城兵を助けてくれるなら、河越城は明け渡す」等の事実上の降伏ともとれる手紙を出しました。


対して、連合軍も北条の接近は知っていたでしょうが、数が少なく降伏とも取れる手紙を貰っています。すっかり油断した所を、氏康公は夜襲をかけました。


これが日本三大夜戦の一つである、有名な「河越夜戦」です。


氏康軍に呼応して、持ちこたえていた河越城の軍勢が城を出て連合軍に襲い掛かりました。連合軍はもちろん大混乱で、乱戦の中で何と扇谷上杉の当主・上杉朝定公が戦死してしまいます。これにより、扇谷上杉は滅亡します。山内上杉や古河公方も、領地に逃げ帰りました。これにより、北条が関東の支配者となりました。


この様に初代・早雲公と三代目・氏康公は一流の武将で、四代目と五代目が馬鹿だった叫びだけです。まぁそれが致命的だった訳ですが。