今日のスケッチ。
勝鬨橋。
色は明日。
連合赤軍の浅間山荘事件があった年だから1972年、2月に私は、東銀座にある会社でアルバイトをしていた。
その会社のアルバイト仲間で、近くに勝鬨橋があるから、仕事が終わったら見物に行こうとなった。
アルバイト仲間は、五六人はいたト思うが、皆田舎者で、東京見物をしたことがなかった。
勝鬨橋は、漫画雑誌のグラビアで見たことがあった。
墨田川にて架かっている橋だが、川を航行する大きな船が橋桁につかえてしまう。
それで大きな船が通すために、橋が真ん中で開いて舟を通す。
勝鬨橋は、設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。
この頻度はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少で次第に跳開する回数は減少した。
1967年には通航のための最後の跳開が行われ、その後は年に一度ほど試験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に開閉が停止となった。
だから私等が勝鬨橋見物に行った1972年に、勝鬨橋が真ん中から割れる場面を見られるわけがないのだ。
ネットもない時代、田舎者の私等はそういう事も知らなかった、
しかし、勝鬨橋の帰り、若い男女が、喫茶店に入る金もないまま、銀座通りをブラブラ歩いた楽しい記憶が残った。
どうしてそうなったのかわからないが、その時に、バイト仲間の1歳年上のお姉さんとバドミントンで遊んでいる。
ラケットなどは、お姉さんが、持っていたのだろうか、バドミントンは公園みたいなところで遊んだのだが、どこの場所だっただろう。
バイトの昼休みは、いつも、ビルの屋上で二人で話しをしていた仲で、なんとなく気があったし、私も饒舌になれた。
彼女は美容師の学校で学んでいて、和歌山出身。
翌日は、私はその会社を首になったから、その人ともバドミントンしたのが最後だ。
人生を振り返って、あの時こうだったら、それ以後どんな人生を送っただろうと、考えても゙仕方無い事を空想する癖がある。
たぶん、お姉さんと付き合うようになっても、それ以後何度も聞かされた、いついつまでも仲の良いトモダチでいましょうねと言われるだけだったかもしれない。
当時、同棲時代という上村一夫の漫画が週刊アクションに連載されていた。
私の空想は、彼女との同棲時代まで広がる。