今日の絵ハガキ。
鎌倉の竹の寺、報国寺の庭。
この庭を川端康成が「山の音」と表現した。
私は、川端さんの小説「山の音」のような、品のある凛とした老人にはなれない。
今日紹介する「おようの尼」に出てくる老僧のような爺さんだな、俺は。
「打ち出の小槌」。
詩人、佐藤春夫が新日本という雑誌に連載したものを、昭和14年に一冊の本として刊行されたものである。
室町時代、江戸時代の文学作品の中から、優れたものでありながら、言霊[ことだま]の幸を得ないで、あまり一般に知られていない作品がある。
そのような作品を、今様の文章に書き直して、打出の小槌を振って、読者のお目にかけようということだ。
面白い試みだ。
特に明治になってからは、今まで数多くの読物が出版されてきた。
ほとんどの作品が忘れられただろう。
一時期ベストセラーになった作品だって、時代に合わなければ急速に忘れられる。
とっくに忘れられた作品で、私が思い出して、または読んで、面白いと思った作品を、打出の小槌というテーマの中で取り上げる。
このテーマは年に一度か二度更新できればいい方だろう。
佐藤春夫の打出の小槌の中では、室町時代の[おようの尼]というのが面白い。
「おようの尼絵巻」というのが、サントリー美術館に収蔵されている。
その説明文。
「一人貧しく暮らす老法師の草庵に、ある日、薬や扇、香などの日用品を商うおよう(御用)の尼という老女が訪れ、身の回りの世話をする若い女性を取り持とうという。
僧が心待ちにしていると、おようの尼が来て灯火を暗くして待つように言い置く。
やがて現れた女は口もきかないが、僧は上機嫌で一夜をともにする。しかし翌朝傍らの女を見ると、女はおようの尼その人であった、という美しい娘を得ようと色欲に迷い、かえって醜女をつかまされる失敗談を、稚拙ながらも滑稽味のある絵で描き出した佳品である。
佐藤さんは「おかしくあわれに、なさけないうちに、いたわしいものを覚えさせる複雑な味がある。
恋愛―否 じかに色情そのものを象徴しているような味が有難いのである。
一歩を誤ればかなり退廃的なものになるそうなところを危うく逃れて,古雅な趣を保ち、そこはかとなき字句の間に心理の動きなどもほの見えているのもうれしい。」と絶賛している。
この話、その後二人は念仏を唱えて心やすらかに暮らしましたとさで終わる。
何だかホッとする。