母がクモ膜下出血になりまして。その13


2012年6月20日

今日は学校が一日実習日でとても疲れている。
しかし、母のCTの結果を聞かなければならないので
今日も病院へ向かう。

兄が今日は仕事が休みなので、CTの結果を聞いてくれており、
それを自分にも教えてくれるのだ。

CTの結果から言うと、今のところ良好だそうだ。

既にCTをとってから1週間経つので、今週の金曜日に再度CTをとり、
問題が無ければ「術後合併症なし」となる。

最短レベルで回復していっているそうだ・・・
元気だった母らしい回復度合いだ。

今後の看護計画は、
まずは今月一杯は入院で経過観察を行う予定。
来月から本人の調子を見ながらリハビリ。
リハビリには2通りの選択肢があり、
1.病院に入院しながらリハビリし、社会復帰。
2.自宅療養、通院リハビリしてから、社会復帰。
母は1.の入院しながらのリハビリを希望している。

自分はいきなりの社会復帰で大丈夫か少し心配だが、
本人の希望を優先してしばらく見守ることとする。

早ければ9月から職場復帰が可能になるかもしれないとの事。

早いのか、長いのか、9月。。。


母の動きはまだ、ベッドと椅子の乗り換えはゆっくりしているが、
ベットの上での足の動きや手の動きは機敏になっており、
一段と回復がうかがえた。


ただ、今日は兄が来てくれていたが、
兄をまた叔父であるH兄ちゃんと呼んだ。
しかし名前を間違えていると気づき、言い直そうとしたが、出てこない。
数秒前には兄の名前を言っていたにもかかわらず・・・。
しかし、会話をしているとすぐに、
「・・・・あれ、思い出せないわ、・・・(会話)・・・(兄の名前)、あれ?言えたわ」
といった具合に思い出したりもする。
まだ記憶と表現が統合されていない部分があるのかもしれないが、
このこと以外はほぼ意識混濁も見られず、元気であった。


ひとつひとつ、元気になっていく母。
長期戦になるが、頑張って欲しい。


母がクモ膜下出血になりまして。その12


2012年6月19日


今日は台風が日本に上陸するみたいで、
自分が通っている地域ももれなく台風が通過していった。

暴風警報が発令され、午後が休校となった。

母に頼まれていたスリッパを購入し、午後2時ごろに病院へ向かった。
スリッパの色は・・・思い切ってピンクのクロックスにした!

一般病棟に移ったので、13:00~19:30まで面会が可能になったことが
とても嬉しい。

寝ていたらどうしようと思っていたが、いざ見てみるとベッドでぼーっとしている母がいた。
一応起きているらしい。

昨日よりもより体の動きは良く感じたが、まだまだ起き上がるにも
数十秒時間を要する感じだった。

頭痛はまだしているのか聞いてみると、
常にしているが、たまに痛くひどい頭痛がくるとのこと。


しばらく母と話していると、母の職場の方が来られた。
一人は大ベテランの方で、もう一人は褐色の肌がきれいな方だった。
二人ともとても心配していただいていたようで、一般病棟に移ったので
お見舞いに来てくださった。
母はとても嬉しそうで、元気よくお二人と話をしていた。
このまま元気ならば、退院も早そうだ。

しかし、自宅は急な階段があったり、風呂釜は掘り下がっているので
まだまだ動きの鈍い母には難所が多いと思う。
自宅療養期間をもらえるのだろうか?
いつから職場復帰なのだろうか?
もう少し落着いたら主治医に聞くか、
明日CTの結果を兄が聞くことになるので、その時に聞いてもらうかしたい。


母がクモ膜下出血になりまして。その11



2012年6月18日


はやる気持ちを落着かせ、病院へと向かう。
何も知らせがないので、きっと母は一般病棟へ移ったはずだ。

そう思ってICUの受付へ。

看護師に聞くと、母は同じ階の666という部屋へ移動したそうだ。

安心した。
これで一段階、回復に向かっていると確信できる。

一般病棟の部屋に入ると、4人部屋の一番奥、窓側のベッドに母がいた。
意識がしっかりとしており、覚醒状態だった。


しばらくすると医師(副治医?)が回診にきた。

「山場は2週間で、14日間です。
 今現在10日を過ぎて特に後遺症も見られないので
 このまま回復すれば良い結果になると思います。
 山場は過ぎたでしょう」


未だに排便のときは車椅子移動で、排尿はバルーンだが、
食事はベッドから降りてサイドテーブルに、椅子に座って食べるようにしていた。
まだおぼつかない足取りでそろそろと動くが、しっかり自分で立っていた。

この調子でよくなるならば、しばらくは家の1階で過ごした後、
2階でも生活できるようになると思う。

どんどん前向きな希望が出てきた。

このまま何事も起きずに回復して欲しい。
母がクモ膜下出血になりまして。その10


2012年6月17日


今日も母は調子がよかった。
昨日に引き続き、意識もしっかりしており、
冗談が言えるぐらいにまでなっていた。

ペンと紙が欲しいといい、自分の欲求を紙に書いていた。

頭痛は続いているが、嘔吐はなし。
家のことや、その他の付き合いの事なんかも
思いをめぐらせられるようになったので
大分容態は良くなっていると思う。

昼の面会で、妹は帰っていった。

夜の面会に行く間に、
父、母の伯父が途中面会にきてたようだ。

母は対応していたので、意識のある覚醒時間がどんどん長くなっていっているようだ。

その分「ヒマだ」と言っていたので、
元気になっているのかな?とも思う。


夜の面会は、兄と叔母が来てくれた。
とくに叔母はこの前言っていたように
メロンを持参してくれた。
それ以外にもお弁当、スイカを持ってきてくれていた。

母は晩ごはんを食べた後だったが、
メロンとスイカを優先的に食べた。

もちろん、完食。


たぶん、この様子だと明日には一般病棟に行くことになりそうだ。
数日前の容態からは考えられないほど回復している。
続いている頭痛が気になるが、ひとまずは一般病棟へ移り
気晴らしができるといいなと思う。

一般病棟の部屋番号などが分かればまた個別に展開する!

さてこれから洗濯物が増えるが、がんばりまっす0ω0n
母がクモ膜下出血になりまして。その9


2012年6月16日


今日は妹が来た。
妹も看護師をしているので休みが不定期な中、
遠いところから車を飛ばし来てくれた。


昨日の母の容態がとてもよかったので
今日は安心して会うことができる。

昨日母の幼馴染のCBちゃんからもらったイチゴを
のこりの分切ってもっていってやる。


今日はすごく大雨で移動も一苦労の日だった。

母の昼面会にはすぐ入ることが出来た。
顔もスッキリし、意識もスッキリ。

とても安心した。

大分言葉の「内容」も理解・把握することが出来るようになったみたいで
いままで話したことを重要な話はしなおした。

何を覚えていて、何を理解していなかったのか分からないので
すべて話しなおした。

もちろん、イチゴを食べながら。

CTの結果は月曜日になってから医師の時間を確認して、
そこから説明の日を決めるという事なので(土日は医師は休み)
説明を受ける前に一般病棟に移されることになるだろうということ。

一般病棟に移るということ自体があまり深刻な状況ではないという
証明になるので、そこは安心して構えておくとする。

母の現在の状況は以下のような感じで記録しておく。

・昨日は心電図がおかしかったが今日は正常だった。
 (R波が低く、S波がとても下に伸びていた)

・T字帯を辞め、普通の一般的な女性下着を着用するようになった。

・トイレは排便時のみ車椅子で移動してもらい、自分でするようになった。
 (排尿はいまだバルーンといわれる、ベットでできるもの)

・頭痛はたまにしている。
 (しかし、手術時の外傷からくる頭痛と、頭の内部の頭痛かは区別できていない)

・嘔吐はもうしていない。

母はトイレのとき車椅子でICUの外に出ることがあるため
頭を気にしていた。
手術のときに頭の髪の毛を左側生え際より10cm~5cm幅で剃っていたので、
それが他の人に見えることを気にしていたのだ。
なので「帽子がほしい」と言っていた。

夜の面会時間まで母の病院の周りをウロウロしようと思っていたのでその間に
探して購入することとする。

ICUの面会が大変なところは、面会人数に限りがあるということである。
それは一人の患者に対してではなく、ICU全体の制限人数があるのだ。
そのため、コチラの後に複数名の面会人(面会者はコチラとは別の患者)が居る場合、
面会時間(1時間内)に収まるようコチラの面会を打ち切らなければならない。

土曜日の昼間ということもあり、この時は打ち切りとなった。

妹と帽子を買いに出ることになるが、本当になかった!
そろそろ夏になるので、店で見かける帽子は
すべて麦わら帽子かメッシュ編みされた帽子だった。

その中から、タオル生地で、入院服でも違和感のないように
風呂上りに頭に巻くタオル帽子のようなものを選択した。

夜の面会は兄も参加し子供が勢ぞろい。
ずっと、兄のことを叔父であるH兄ちゃんと言っていた母も、
兄も兄と認識することができた。

それでもまだ、たまに意識混濁がみられるが、
とても些細な感じ(内容)になっていて、このままいけば
普段の生活に戻れる気がした。
一般病棟に移る夢も見ているらしく、それが現実のことなのか、夢なのかが
分かりづらいといってはいたが。
悪夢もまだ見ているかもしれないが、あまり記憶に残っていないとのこと。

母の普段の生活でも夢はみても記憶に残ることは少ないと言っていたので
普段どおりなのかな?と思った。

何か欲しいものはないか聞くと、「バナナ1房」と答えた。
始めて自分から欲しがった食べ物だった。
病院からの帰りに買うこととする。

これからドンドン普通の生活に近づけるように、
病院服から普段家で着ている服となる。

洗濯物は増えるが、多くなると洗濯機をまわすことができるので
ある意味楽になるかもしれない。
(現状5枚までならすべて手洗いで済ませているため時間がかかる・・・)

明日、妹は昼の面会を終えてから帰るそうだ。
休日をほぼすべて潰して会いにきてくれることには脱帽する。

母がクモ膜下出血になりまして。その8


2012年6月15日

今日で母が倒れてから1週間がたった。
今日は母の幼馴染みCBちゃんと
弟のH兄ちゃんが着てくれる日。

先にCBちゃんと会って
そのあとにH兄ちゃん。

CBちゃんは相変わらず元気!
お茶して、お話して楽しい気分になれて、
すごく楽しい時間をすごさせてもらったと思う。

H兄ちゃんは相変わらず。
でも心配してるのは顔や態度がいつもと違うから分かる。

そして母の妹のY姉ちゃんも来てた。

今日は豪華なお客がたくさんだった。


母がみんなを認識できるといいな。
なるべく事前に今の状況を伝えて、
食べ物は、頂いても頭が痛いなどの調子が悪いとなかなか食べてもらえないこと、
認識違いで別の人だと思われることもあることを伝えた。


そしていざ大人数で母のところにいくと、
大分顔のスッキリした母がいた。

腫れもスッキリしていたし、
意識もスッキリしていた。

すごく驚いたけど、CBちゃんに
「名古屋から来てくれて・・・」と母が言っていたので
誰だか、という認識は問題ないようだった。

CBちゃんはイチゴ(母の大好物)も買ってきてくれ、
母に食べる?と聞くと
「食後に食べるから・・・」というので
「食後に欲しかったらまたあげるから
 今食べれるなら食べたら?」
というと、嬉しそうに食べ始めた。
結局完食したので、食欲も回復過程になるのかもしれない。

Y姉ちゃんが「今度メロンもってくるよ」というと嬉しそうな顔もしたし、
H兄ちゃんが「焼肉いくぞ」っていうと嬉しそうに「バイキングな~」と応答していた。

前に何を食べたいか聞いていたときに
考えるばかりで答えることのなかった母に比べればすごい回復が見られた。


しかし相変わらず意識混濁はみられ、人の名前に対する混濁が顕著にみられる。
H兄ちゃんをH兄ちゃんと認識するが、息子であるUをH兄ちゃんだという。
「これ誰?(H兄ちゃんを指して)」 母:「H兄ちゃん」
「あれ誰?(息子Uを指して)」 母:「H兄ちゃん」
といった具合だった。

母はみんなの話しを聞いて、面白おかしく笑っていたが、
笑いすぎも脳の血管を刺激するようで、母は笑いで頭が痛いといっていた。
笑いすぎも今はまだ患部に触るようだった。

また、今日はCTを撮ったのだが、
検査結果を聞こうとすると、DM(糖尿病)の検査だと言い張っていた。
でも手は顔の前で動かしていたので、たぶん頭部CTの事を勘違いしているのだと思う。

CTの検査結果は明日以降の土日か、水曜日の昼間になっていた。
その後、問題が無ければ月曜日から一般病棟という運びになるらしい。

一般病棟は今まで以上に看護師さんがあまり注意深く見てくれない。
こんな状態で一般病棟に移って大丈夫なのか。
しかし、一般病棟に移れば、面会時間や制限がどがぐっと緩和される。
そして何より、ICUは急性期にある患者の為の区画である。


今日は久しぶりのCBちゃんとH兄ちゃんで、とてもにぎやかな時を過ごせた。
久しぶりにこんなに笑った。

来てくれて本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。
そしてこんなに駆けつけてくれる母は恵まれていると思った。

母がクモ膜下出血になりまして。その7


2012年6月14日


今日は学校の授業が終わっても、
グループでもう1コマ勉強しろというグループ学習日。

途中で抜けさせてもらえた。
看護学校に通っているので、先生ももちろん看護師。

話が早くて助かる。
なんで手術終わって1週間近く経つのに早く帰るの?なんて
ナンセンスな質問はされない。

今はとにかく母の不安を取ることが一番だと言ってくれて
自分が学校を帰る事を許容してくれる。

そうそう、学校の先生曰く、
脳近くの手術をすると脳が一時的に腫れあがり、
脳漿とともに脳を圧迫するので意識混濁のようなことは起こるそうだ。

是非、そうであってほしい・・・。
祖母が痴呆になったときはソコまで感じなかったのが
今はビシビシと体感として伝わってくる。
元気だった母が、考えることに時間がかかり、
意識混濁した発言をすることを見ているしかない自分の、あの無力感・・・。



今日は昨日食欲がなかったので、
和食弁当で少しずつの料理が6個程度はいったお弁当と、
甘納豆を買っていく。

ICUに入ると、母は起きていた。
顔をしかめているので、聞くと、頭が痛いそうだ。

そして文句を言うように言う
「今日4回目の食事なの。おかしいやろ?食欲もそらでないわ」

病院が3回以上食事を出すことはない(念のため確認したが、やはりありえなかった)

聴き取りづらかったが、母と同じ名前の人がいる?ような事を言ったので、
「たぶんその人の分が来ちゃったんじゃない?ラッキーって思えばいいよ~」
と流しておいた。

今日衝撃的だったのは
自分に次いで、兄が来たのだが、母に冗談で
「誰だかわかる~?w」と聞いたのだが、
叔父の名前を言ったことだ。

自分:「叔父は明日に来るんだよー」
母 :「・・・・・ん?(。-`ω-)」
自分:「んじゃぁコレだれよ?」

母 :(兄をじろじろと見て)「・・・やっぱり叔父じゃん・・・」


自分:「これアナタの息子だよ。わかる?」


名前と共にいうと、思い出した?かのように
「ああ」と小さくうなずいた。

自分の事も聞きたかったが、名前まで聞くと
何もかも母に質問して困らせているようなので控える。

とにかく、頭が痛いのか
食がすすまない。

買ってきた弁当を見せても、無反応だった。

本当、食欲は落ちたと思う。
自分からナニが食べたいのかいう事はない。


看護師さんと話をした。
・明日CT検査をし、問題がなければ一般病棟に移るとのこと。
・本人が、最近悪夢をよく見るといっているらしい。
・ICUは常に看護師が出入りし、うるさい割りに
 あまりモノを持ち込めないので気晴らしするモノもないので
 母はストレスを感じているのだと思う。
とのこと。


こんな、弱々しい状態で、一般病棟に移って平気なのか・・・?
しかし、ICUをずっと占領する訳にもいかない。


今日は頭が痛いので、あまり話しもせず
寝かしつけた。

しかし、帰るね、というと最後までずーっとこちらを見て、
手を振ると振り替えしてくれる。

出て行く間もきっとずーっと見られていたと思う。
寂しそうな顔だった。

一般病棟に移って良いことは、この辺の面会時間が延びることだ。
一般病棟に移れば、もうちょっと余裕をもって会えるから、
それまでの我慢だよーと心で思いながらICUを出る。


明日はたくさん人がくるから、混乱しないといいな。
母の面会の前になるべく会って、母が誰が来たか認識できなくても
傷つかないように事前に言っておきたい。


明日は母の幼馴染?の方と
叔父がくる。

二人の対応しつつ、兄とも連絡を取る。

明後日は妹がくる。


面会しに来てくれる人にあえて「お願い」するならば、
悲嘆するでもなく、意識混濁をバカにするでもなく、
昔の記憶はあるので、なるべく昔話をしてあげてほしい。
しかも笑えるエピソードのものを。
笑いは免疫効果を高め、病気に打ち勝つ力になる。
だから、なるべく笑えるような話を投げかけてやってほしい。
決してしんみりせず、深刻な顔もせず、母が少しでも楽しめる時間を
すごしてあげてほしいと思う。





もう少し、症状が良くなれば、肩の荷も下りるのだろうか?
本人には言えないけど、その日が早く来てほしいと思う。
「急かす」事は一番いけないことなので、これからも本人に言うことはないだろう。

なんだか最近常に気を張り詰めていて、針で刺されでもしたら
パチンとはじけそうな感じがする。
こういうときは、体調に気をつけよう。



土日は少し長めに寝よう。寝れるなら。

母がクモ膜下出血になりまして。その6


2012年6月13日


<前回のコメント返し>
今は何でも食べて良いそうです。
特に食事制限はありません。
しかし、もともとバセドウ病なので海草類はあまりたくさん食べることが出来ません。


* * *

今日は学校の終礼が長引いた。
先生が関係のない話をながながとする。

帰りたい。帰りたい。

そればかりが頭をめぐる。


無駄に焦っている気もする。
最近余裕がない。

ぼーっとする時間もなく、あきらかに授業中ぼーっとする時間が増えている。
ため息を、知らず知らずについていることに気づいた。

もうすぐ終末。土日で少し回復しようと思う。


急ぎ足で病院へ向かう。
母は医者と話しており、起きていた。
顔の腫れは大分引いており、ほぼいつもの顔に戻りつつあった。

医者:「今日は何月ですかー?」
母:「うーん、うーん。。。。。3月?」

医者:「今日は何日ですか?」
母:「・・・・・・・21日?」

医者:「何曜日でしょうか!」
母:「・・・・・・・水曜日」

曜日は毎日自分が、「今日は火曜日、明日水曜日にまたくるからね」
と言っていたからか、正解した。
術後から感じていたことだが、
考えるということに、少し時間がかかるようだ。


ちなみに、母が答えた3月21日は、祖母の命日である。


医者に聞くと、「今が山場」だそうだ。
やはり血管れん縮の危惧をしていた。
血管れん縮が起こった場合、第一の症状としては
手足などが動かなくなるそうだ。
母に聞くと、左目のまぶたが開きづらいそうだ。
頑張ればあけることもできなくはないが、どうしても細目程度になる。
母に血管れん縮が起こりやすいことを伝え(3回目???)
あまりにも動かない場合は看護師にいう事と、何度も言った。

病院のゴハンが美味しくない、というので何が食べたいか聞いてみた。
そうすると首をひねって考えるばかりで、答えは一向に出てこなかった。
しかし、明日は何か買って、もって行こうかと考えた。
今は少しでも食べて、栄養素吸収してほしい。
病院食は飽きたのか、すこしずつゴハンを残していっている。

母は動くことが億劫なのか、
動きが緩慢で、倒れる前のキビキビした感じは今はみられない。


明日学校で実習のオリエンテーリングがある。

今日は早く寝よう。
明日は5時起きだ。


母がクモ膜下出血になりまして。その5

2012年6月12日


毎日、面会の前には少し待たされる時間がある。

ナースステーションへ向かい、面会を以来すると、待合で待たされ、
呼ばれれば、ICU内に向かう。

ソレまでの間に宿題を少しでも片付ける必要があった。

家に帰れば家事はもちろん、
母の洗濯物(T字帯)などを手洗いして干し、
また次の日に持っていかなければならない。

一般病棟に移れば、これが着替え、下着、タオルなども
含まれてくるようになるので、今のうちにこの生活リズムに慣れなければならない。


***

今日も晩の面会に行った。

ICUの部屋の一角を占領している母のスペースには
ラジオが流れており、少しでも気がまぎれるといいなと思った。
看護師さんの配慮に感謝した。


母は相変わらず顔がパンパンに腫れていたが、
左目の腫れは若干収まっていたように思う。

看護師さんに聞くと、脳の手術をすると
必然的に顔は腫れるそうだ。
日薬で治っていくので、経過を見守るしかない。
少なくとも、水頭症の予兆ではないので安心した。

バイタルは血圧は外され、心電図と呼吸のみが測定されているようだった。


しかし、痛々しいのは、目をこするからか、目の両端が
スモモのように真っ赤になっていることだ。
腫れているので余計スモモを連相させた。

意識ははっきりしており、今日はよくおしゃべりをした。
声は擦れ、正直聴き取りづらいものもたくさんあった。
しかし、聞いているよ、という姿勢は絶えずとった。

食欲は相変わらず旺盛。

今日は鶏肉が出たが、大きかったので
切り分けられないだろうと思い、自分が切り分けて一口サイズにおいておいた。
しかし母は1切れではなく2切れをいっぺんに口に頬張った。

今日の驚くべきは、昨日までスプーンでしか食事をしていなかった母が
今日はお箸を自分で選択して、使用したことである。
米はおかゆ(全粥)なのでかっこむように食べた。

「朝も昼も全部食べたの?」と聞くと、
少し考えてから首を横に振った。
曰く、おいしくないから残したそうな。

食べるという作業はあいかわらず体力を消耗するようで
疲れながら食べていたが、なるべく自分の体を使って食べてほしいと思い、
会えて口元にモノを運ぶような介助はせずにいた。



今日も時折うっすらと目に涙を浮かべることも会ったが、気づかないフリをした。
口を拭いてやるときに、ついでに気づいたかの様に、めじりもぬぐってやる。



歯磨きをするが、お気に入りの歯冠ブラシが2本消失していた。
看護師さんが昼間担当した看護師に聞いてくれるそうな。


本人の自覚症状としては、
寝ている体勢から、座っている体勢になるときに
ゲップか「えづき」か分からないが、数回繰り返していたこと。
気分が悪いと(自分だけに)訴えたこと。

気分が悪いことは、術後7日間は特に血管攣縮が発生する可能性が高いことを言い、
ひどい場合にはすぐに医師に言うように母に言った。
あまり伝わっている感じではなかったが・・・。
(過去に何回か言っている)


今日はよくしゃべれるようになったからか、前回から日記に書いている
意識混濁(認知症かICU症候群かわからないので、ここでは意識混濁と表記を統一する)
が多数見られた。
以下に書き出せる分だけ書き出すことにする。

・病室に男の人がいる。
 (自分の目の前あたりを手で円描いて)「ここに男に人おる?」
 と聞いてくる。
 「男の人がきて、ココ、自分の部屋だからって言い出してな、
  どうしようかと思った」などと言う。
 ICU内でベッドの移動?があるかもしれないといった話を聞いたそうだ。
 (本当かどうかは分からない)

・「いとこの名、兄、自分、といて、兄がめがねを洗ってな、面白かった」
 と過去?のエピソードを言う。
 「昔のこと?」と聞くと、「最近だよ」といった。
 最近自分はいとことは会っていない。

・「今日はよく紅茶のカップがまわってる」といい、
 「家ではコーヒー、紅茶をよく飲む」という。
 実際は家では水かコーヒーしか飲まず、次いでお茶である。

・髪の毛の分け方を聞く。7:3分け?意味がよくわからないが
 とにかく髪の毛の分け方を気にしていた。

・目が腫れて目が見えづらいので
 目を閉じたままモノを探るしぐさをする。
 何か長い紙がない、と探し出す。
 「今はないよ、もっていっちゃった」と言っても
 1分もしないうちに、また目を閉じて、手探りで探し
 「紙がない」と言いだす。


幸いなのは、しゃべれるようになって、微笑程度にフフ、と笑うようになった事。
人間、笑みがないと免疫も低下する。
大笑いは脳に響くのでできないが、なるべく微笑ましいエピソードを母に話すようにしたい。


今日は学校の時間がギリギリだった。
明日は順調に帰れるといいな。
母がクモ膜下出血になりまして。その4


2012年6月11日(月)

朝から一人、家の中。

食欲はまったくない。

それでも1週間は始まる。


授業中、やっぱり電話が鳴るのではないかと思い、
ずっとひざの上にケータイを置いて授業を聞いた。

ひとまずは、術後の目だった後遺症はない。
何も無いという静けさが逆に不安を掻き立てるようだった。


学校の担任に話をつけ、なるべく晩の面会には
間に合うように学校を出れるようにした。

放課後なので、出席や成績に関わることはないだろうという
個人的な判断もあった。


晩の面会。
20分ほど待たされて入ってみると、

ソコには顔面をパンパンに腫らした母がいた。

特に目がひどい。
目じりと外がわの目の端がまるでひどくこすったかのように真っ赤。
本当に真っ赤だった。
そして左目は腫れすぎて開くことができなかった。
右目はかろうじて開くことができるので、
そちらで見ているようだった。

見た瞬間、少し衝撃を受けるほどだった。


本人曰く、今日起きたら腫れていたとの事。
寝ている間に本人が掻いたのか、それならまだ良い。
リンパが溜まって腫れていることが一番こわい。

体の循環がうまくいっていないという事だからだ。

まだ目の周りとほほ当たりが少し腫れているだけで、
アゴや首は腫れていなかったので
ただ単純に荒れている可能性もある。

明日また見てみないと分からないと思った。

頭のチューブは抜かれており、機械とドッキングはしていなかった。
これは快方に向かっている証拠なので、素直に嬉しかった。

母本人が言っていたが、
夢なのか現実なのかが分からないときがある、との事。
ずっと浅い眠りの中にいるそうだ。

ICUは窓もなく、時間も分からないので無理も無いことかもしれなかった。
ベッドの端に腕時計をかけ、かろうじて何時かは分かるようにした。

机の上に鏡を置いたことが間違いだったのかもしれないが、
母はあまり顔を見られたくないようだった。

血圧はベットに上半身を約45度ぐらいの体勢で、
133mmHg~77mmHgとやはり高めだった。

もともと、母はバセドウ病の為の薬を飲んでいたので
それをやめると血圧はあがると思う。
これがまだ正常の範囲内で収まって行ってくれることを願う。


食事も、白身魚が出たが、自力で切り分けることができなかった。
自分が、お箸を取り出して、一口サイズに切り分け、スプーンの上にのせてやる。
母は、それを自分で口に運ぶ。
多すぎると口の周りに食べ物がつき、荒れてしまうので、少し少なめにのせてやった。

兄が途中に来るまでの間、食事介助をされることに対する罪悪間か、
母が自分の非力を嘆いてか、すこし目に涙を浮かべていたと思う。

見ないフリをした。

兄が来て、食事の間、見守っていた。
母は、少し甘めの小鉢に入っていた春雨を
甘いので美味しくないと残した。

味覚はあるようで、安心した。

明日の晩面会もまた来るね、といって帰ると
母は何度も手を振ってくれた。


今日も母は、叔父が自分の保険証を持っているといった。
持っていない。自分で持っていて、倒れたとき、コチラに来ていたから。
手術で意識が混乱しているだけだと良いのだが・・・。

明日は学校の小テストがある。
なるべく早く回答して、母の元に向かう必要がある。