電車が止まっていた。沿線で火災があったらしい。復旧のめどは立たない。おれは仕方なく、会社近くの駅でひとりファミレスへ。日曜日の夜ということもあって、多くの人で賑わっている。楽しい話をしたりできる場所だから騒いだりするのも当然といえば当然のことだ。一人で行くと、嫌でも他人の会話が耳に入る。その中に、気になる会話があった。
男2人、女2人で来ていた高校生くらいのグループ。実に楽しそうに、周りの迷惑も考えず、大声でしゃべっていた。当然おれの耳にも入ってきたのだが、その会話の内容をおれは理解できなかった。何を言っているのかわからない。日本語だということは、かろうじて理解できる。けれど、相手に何を伝えようとしているのか、それが分からなかった。要は、言葉の使い方が目茶目茶だったという事。彼らのような世代が皆、そういうわけではないと思うが、それでもあの言葉で理解できる人もいるということに、ただ悲しくなった。
外国人が話す日本語というのは、実に丁寧だと思うときがある。日本人と接する機会が多い人は、’砕けた’日本語を耳にすることが多いから、それなりに日本人に違和感のないしゃべり方をするが、そうでない人はきちんとした教科書のようなもので勉強するから、’砕けた’部分がない。それは決して悪いことではない。外国のエリート外交官たちの日本語は本当にきれいだと思う。
もしかしたら、今は純粋な、きれいな日本語は海外でしか生きられないのかもしれない。おれは、大学の時に「日本語表現法」という授業を受けたことがある。日本人でもほとんどみんな知らないような、日本語の奥深さを学ぶ講義であった。おれは、まだまだ知らない言葉がたくさんあるなぁと、思ったものだ。言葉は知れば知るほど、その言葉の美しさを感じるものだ。人を感動させ涙を流させることもあるし、絶望から救うこともできる。反面、人を傷つけるナイフになる場合もある。言葉には本当に大きな力がある。使い方次第で、その人の人生をも決める重要なものにもなるかもしれない。だからこそ、絶対にきちんと話せたほうがいい。今のおれには、きちんとした日本語を話せる人というのが、とても魅力的に見える。そういう人と話すと、絶対に嫌な気分にはならない。
もちろん時代によって、多少は変わっていく部分もあると思う。けれど、忘れてはいけないこともある。言葉はある種の文化だ。文化はちょっとした変化で生まれるものではなく、何年もの年月を要して、多くの人に認められて初めて、存在するものだ。この国にも、微かではあるが、それは確かに存在する。乱雑な言葉は、文化を否定していることと同じことなのかもしれない。