ー2日目ー (a,m)


少しでも長くニューヨークを感じるため、おれたちは、まだ外が薄暗い頃、目覚まし時計を鳴らした。いつもなら、冬の朝はベッドから抜け出すことができずにいるのに、この日の朝は起きることが当たり前のように、毛布を剥ぎ取った。


ニューヨークの朝は、真っ白なTシャツのような爽やかさで、おれたちを迎えてくれた。毎日がこんな朝なら、どんな日もきっと素晴らしい日になるだろう。おれたちはまず、ホテルから近くのセントラルパークへと向かった。途中、至る所で朝食が買えるような小さな売店がある。おれたちは、その売店の一つでパンとホットチョコを買い、それらを朝食にすることにした。朝のセントラルパークは、思ったよりもたくさんの人たちがいた。気持ちよさそうにランニングする人、愛犬と戯れる人、そしてベンチに腰を下ろした散歩途中の老夫婦。どんな人も、朝のこの時間をとても貴重なものとしているのだなぁと思った。おれたちは、少年野球のグラウンドのそばのベンチに座り、朝食を頬張りながら、一日の計画を立てた。たった2日しかない滞在期間の中で、どこに行けば自分たちにとって良いのか、どんなものを見ればそれが良い思い出となるのか、考えた末、やはり今回の旅の最も重要な目的地であるWorld Trade Center(以下、WTC)に最初に行くことに決めた。


WTC跡は、セントラルパークを約5kmほど南下したところにある。様々な角度からニューヨークを見るため、おれたちは徒歩で向かうことにした。知らない街を歩くということは、いつだって新鮮で、目に入ってくる画像も聞こえてくる音も何もかもが、新しい自分へと導いてくれるようだった。特にニューヨークという世界最大の街では、その力がとてつもなく大きい。おれたちはそのパワーに吸収されたように、この街に惚れ込んでしまった。


マンハッタン島の道は、京都や札幌のようにきれいに区画されており、それは観光客に無言の案内をしているようであった。おそらく、ここで迷子になる人なんていないに違いない。1時間近く歩き、ようやくWTC跡へ。地図で見た以上に、5kmの道は長かった気がする。WTC跡には、周りにNYPDがたくさんいて、近づくことができなかった。それでも、多くの人がこの場所に足を運んでいる。忘れてはいけない記憶としてシャッターを切る人、復興への願いをこめてメッセージを書く人、そして知人を亡くし、ひたすら涙を流す人。この場所にいる誰もが、悲しみと憎しみを抱え、そして何よりも、あの華やかなニューヨークが戻ってくることを信じた。心の傷がすぐには癒えないことくらい分かっている、それでも祈ることで少しでも復興に近づけることを信じた。おれも、そこにいた人たちと同じ気持ちで、メッセージを残すことにした。けれど、言葉が見当たらなかった。目をつぶると多くのことが脳裏を過る。


「9月11日、ここではどんな音がして、どんな匂いがして、人はどんなものを見たのだろう。歪んだ世界の象徴的事件に俺は何を思えばいいのだろう。おれの今いる場所から、100メートル先には、まだ何千人もの死体が眠っている。この事実をおれたちは、どう受け止めるべきなんだろう」


遠くから泣き声が聞こえ始め、やがてそれが自分のものだと気付くまで随分と時間がかかった。あまりにも考えることが多すぎた。俺は近くの花屋で買った名前の知らない花と簡単なメッセージを残し、再び目をつぶり、この街の一日も早い復興を祈った。

ー初日ー


このニューヨークの旅は、格安の旅。宿泊代、飛行機の往復チケット込みで2万円という破格のツアーであった。これは、あのテロ事件以降、海外旅行をする人が急速に減っていたため、JTBが人気回復を狙って出した話題性のあるツアーである。それにおれと友人がたまたま当たったというわけだ。しかし、格安といっても海外に行くということはやっぱりお金がかかる。なぜか集合場所が関西空港で、おれたちは、もちろん自費で羽田から関空まで行かなければならなかった。


関西空港からデトロイトまでの飛行機、風の影響による揺れにひどく恐怖を感じた。テロがあってから、それほど経っていないだけに、何かあったのではないかと不安になった。いや、もしかしたらそれは、おれだけが感じた恐怖だったのかもしれない。その証拠に、隣の友人は眠り続けたままであった。


デトロイトを経て、ニューヨークのラ・ガーディア空港に着いたのは、横浜の家を出て24時間後のことだった。エコノミークラスの席に長く座っていたせいか、血液の循環がいつもと違うように感じ、ほとんど眠ってないおれを、一層気分悪くさせた。しかし、無事ニューヨークに着いた喜びが、その悪い気分に勝っているのを感じた。ニューヨークの夜空の下にいる自分が、とても誇らしく、この喜びを日本にいる家族や友人に伝えたいとさえ思った。


ホテルに着いたのは、夜8時を少し回ったところであった。疲れ切っているはずの身体が軽く感じたのは、ニューヨークに対する憧れにも似た好奇心からである。夕食は、ホテルから10分ほど歩いた’geogio's country grill'というお店に。値段は少し高かったが、アメリカらしく豪快な料理で大満足であった。そして、ホテルに戻ったおれたちは、目をつぶるのと同時に夢の世界へと転げ落ちた。

2001年9月11日、ニューヨーク。俺は20年間で一番の悲劇を見た。飛行機がビルに、しかも意図的に突っ込むことなど、誰が予想できただろうか。ブラウン管に映し出される映像は、世界中の多くの人に悲しみを与えた。


ー3ヵ月後ー


おれは何十年かに一度、あるかないかの’運’を手にした。あのニューヨークに行くチャンスを得たのである。その時のニューヨークは、まさに’閉鎖’した街に等しかった。自由の女神もどこか弱々しく、9月11日のビルの崩壊の煙が、いまだに残っているようであった。少なくともテレビで見る限りは。


両親は強く反対した。友人たちに羨ましがる仕草は見られなかった。親戚には無用な心配を避けるため、伝えることをしなかった。そしてもう一つ、旅行の保険の手続きの際、何かを強く意識した。その金額が、妙にリアルに感じたからだ。この旅行は、ある種の覚悟が必要だと本気で思った。


しかし、ニューヨークに行きたいという気持ちは全く変わらなかった。むしろ日毎に増していく一方であった。俺はどうしても見たかった。ニューヨークの市民の瞳を。ニューヨークの空を。ニューヨークの色を。テレビではなく、この目で。


「人生はまさにアドベンチャー。いつも注意深くいることは、悪いことではないが、何もしないのでは意味がない。時には恐怖の中に身を投げ込むことも必要だ。それがいつしか、次なる恐怖に立ち向かう自身となる」

「ニューヨーク」という言葉を聞くたび、特別な気持ちになる。アメリカの首都はワシントンD.Cだけれども、世界の首都はこの街だ。そこに一度でも行く機会を持てたことは、自分にとって意味のあるもので、とてつもなく貴重な体験であった。これから先、世界の様々な街へ行く機会があるかもしれないが、あの時行った思い出が色褪せることはないだろう。


9月11日。この日は、ニューヨークにとって独立記念日と同じくらいの特別な日だ。今でもあの日を昨日のことのように思い出すことができる。歪んだ世界の象徴的な出来事であったあの日。崩れていく2つのビルに、おれたちは何を感じるべきであったのだろうか。世界の中心地の象徴がなくなり、世界は何が正しくて何が間違っているかを理解できなくなってしまった。


だからこそ、忘れてはいけない日として永遠にこの日はある。世界がこの先、あらゆることを改善し、多くの平和を招いたとしても、この日が残酷で悲劇以外何ものでもないということは、絶対に変わることはない。


あの日、9月11日、世界は新しい海を創った。多くの人々の涙によってできた悲しい海。その海は、ほかのどんな海よりも広く深く果てしない。それがある以上、あの日を「なかったこと」には絶対にできない。歴史はどうしていつも、悲しい話ばかり残していくのだろう。ポジティブはそこら中に転がっているのに、世界は不公平さや悲しみ、それに無理解のような不信の例ばかり拾い集めていく。



『せめてぼくたちは、あなた方のために泣こう

 悲しむことで、あなた方の魂が少しでも癒えるなら

 ぼくたちはいくらでも涙を流そう

 涙だけでは足りないことくらい分かっている

 それでもぼくたちはあなた方のために

 涙と共に祈ろう

 だからこれ以上世界を恨まないでほしい

 どれだけ時間がかかってもいいから

 あなた方にひどいことをしたこの世界を

 許してあげて欲しい

 それまでぼくたちは静かに祈りを捧げよう

 全ての犠牲者、そしてその家族・友人のために』

おれは大学を卒業してから、パン屋として働いている。正直、自分でも何でこうなったのかなぁと、不思議に思うときがある。同業者のたいていは、パンの専門学校出身か、ケーキやとかからの転職組だ。でもおれは昔からヒトと違うことをするのが好きだった。いや、ヒトと同じことをするのが嫌いだったのかもしれない。混んでる道よりも人通りの少ない道のほうが早く、成功に近づける。そういうことなのかもしれない。大学で周りが皆、就職活動をしている時、おれは人通りの少ないその道をパン屋にしたわけだ。


「なんでパン屋を選んだのか、」


この質問はもう何度も聞かれた。親・友人、その他自分の周りの人たちから。でも、この質問を一番しつこく聞いてきた相手は、もしかしたら自分自身かもしれない。疲れて、嫌になって、何もかも投げ出してしまいたいと考えたことは何度もある。けれど、気が付けば、朝早い時間に目覚まし時計をセットしていたりする。おれは、珍しい仕事だからとかそういう理由でパン屋を選んだのでは決してない。自分が一番夢中になれるものだから、結局は好きだから選んだのだ。辛いこともたくさん経験した。人間関係で嫌な思いをしたことも多くある。でも、それはこれから先も一生付き合っていくものだと思う。それはパン屋だけに限ったことでもない。全ての社会で共通するものだ。


おれは、大学時代からパンを作るバイトをしていた。その時、完全に楽しい・楽しくない程度のレベルで仕事と向き合っていた。で、それは根本的には今も変わらない。楽しいから続けている、楽しさを見出せなくなったら、すぐに辞めている。仕事だから、つまらなくてもしょうがないという考えは、俺は持っていない。でも、その楽しさは、友達とかと買い物に行く、そういう楽しさではない。自分の中にある本気モードのスイッチを入れ、何かを睨みつけ、何かに夢中になる、譲れないものは譲らない。仕事中に、あ~今楽しんでるなぁ、などと思ったことは一度としてない。時間経って振り返り初めて気付く、そういう楽しさ。それをおれは、パン屋の仕事の中に見出すことができた。


理想。それは、パン屋で仕事をしている人なら誰もが持っている理想、自分の店を出すこと。でもおれは、パン屋だけにこだわってはいない。ただ、自分の店を出したい。そこのメニューの一つにこだわりパンを出せたらいい。自分の店を出したら、やってみたいことがたくさんある。インテリアにこだわりたいし、服装にもこだわりたい。店の雰囲気はアイディアにあふれている。それは、ヨーロッパに行ったときのカフェが今でも忘れられないからだ。休日、買い物に言ったりした時、自分のイメージを膨らまし、思い描くことが、今すごく楽しい、自分の中にある何かが充たされていく気がする。でも、一番こだわってるのは、自分の店を、自分の周りの人たちにとってのリビングのような場所にすること。そこに行けば、親しい誰かがいて、嫌なことを忘れ、良い気分になれる。家でいえば、リビングのようにみんなが集まる場所。おれは、そのリビングを作ることが、今の一番大きな理想。そして、それが今生きている上で大きなモチベーション。


いつかはみんな結婚し、家族を築くだろう。俺もそうなのかもしれない。で、そのいくつかの家族が結びつき、さらに大きな家族となる。その大きな家族のリビング、つまりみんなが気軽に集まれる場所、それが俺の店のテーブルになったら、こんなに嬉しいことはない。今はそういうのを目指して、日々生活している。





暴力的な寒さの中、駅まで自転車に乗っていく。毎朝同じリズムの繰り返し。駅までの道で耳にするのは、犬やカラス、そして踏み切りの鳴き声。それも毎朝、ほとんど変わらない。鼻先をかすめて流れる冷たい空気の帯が、通路を支配していく。なんだか知らないところで引力が働いているような、そんな感覚に陥る。


おれは、一日の中で2番目に速い電車(つまり、始発の次の電車)で仕事場に向かう。都心から離れていく電車は、一車両にだいたい一人か二人の割合で、乗客を目的地に届けていく。いつも、周りにはほとんど誰もいない。ウォークマンから流れる歌だって口ずさめるし、横になって眠ることだってできる。けれどこの時期の、空いている電車には弱点がある。それは、駅に着くたびに外の冷たい空気をダイレクトに感じてしまうところだ。満員電車であれば、人の盾で少しは寒さを防げるのかもしれない。つまりは、空いているということにも少なからず問題はあるということだ。


会社近くの駅は、高いビルなどもない新興住宅地だ。道幅が広く、悪い気分ではない。まだ陽も昇らないこの時間は、すれ違う人も少ない。おれは、20分くらいかけて、会社を目指して歩く。途中、空を見上げると、まだ月が出ている。おれは、前の日にも見た同じ月を見ている。そう考えると、なんだか不思議な気分になった。前の日、同じ場所で仕事終わりに見た月と、これから仕事に向かう時に見た月が同じなんて。でも、月は、おれがどんなことを考えているかなんて構いもせず、まだ目覚めていないこの街で、唯一、光を放っていた。


朝6時、ひとり思ったこと。どこかに折り返しでもつけておかなければ、区別できなくなりそうな同じ毎日。おれが、今立っている場所の不確かさ。それでも、おれは毎朝、同じ月を見ている。






「たとえば僕らは、それが意味のないことだと知りながら、ときに不安定なまま逃避行に及んでしまうことがある。たとえば僕らは、下らない馬鹿話をひとしきりした後、いつの間にか朝を迎えてしまうことがある。そして、僕らは時折、覚悟を決めて一歩踏み出す時もある。」


学生のころの楽しかった記憶。社会人になって、忙しい毎日が続き、良き想い出はいつの間にかディズニーアニメのチーズのように、ところどころ穴が開き始めているような、そんな錯覚に陥る。それらは、絶対に森の中のキノコのように、勝手に増えたりはしない。それどころか、日に日に失われていく。脳細胞は一日に10万個も死んでいくそうだ。だとしたら、記憶があること自体、奇跡みたいなものなのかもしれない。


雨に濡れた木々の葉と、誰もいない公園。窓の外の僕のキャンバス。


学生時代の想い出を友人と話したりすると、失われたと思っていたことを、取り戻した気がして、嬉しい気持ちになる。どうでもいいような、下らない馬鹿話にもまた、自分の中に何かを確認できる。いつまでも、心の引き出しにしまっておきたい素晴らしい時間、記憶。一人でいるとき、それらを呼んでみても、返事はくれない。仲間と会ったり、電話かなにかで話したりするとき、それらは返事をくれる。氷を溶かすよう、ゆっくりと思い出させてくれるのだ。その感覚は、無性に心地よい。


先日、友人と会った。久しぶりに会った気がした。彼はいつだって、僕のしわしわになった部分にアイロンをかけてくれる。だから僕は彼にいくらか、光熱費を払わなければいけないのかもしれない。僕の人生に掛かっている暗い雲を振り払ってくれ、忘れかけている微笑み方を思い出させてくれ、自分に与えられている数多くの恵みに気付かせてくれる、そんな友人。話している時間、強烈な何かが、ダイレクトに僕のほうにぶつかってきた。それはきっと、学生時代と変わらない’楽しさ’に違いない。


それにしても、’笑う’ということは、とても健康なことだ。野菜を食べることなんかより身体に良い気がする。仕事の嫌なことは忘れることができるし、ストレス解消にもなる。嫌なニュースばかり流れる不健康なこの国で、唯一の救いは’笑い’だ。最近のお笑い芸人の人気と、健康志向が強まっていることは、もしかしたら何か関係があるのかもしれない。


木々の間から差し込む雨上がりの日差し、散歩途中、公園のベンチに座る老夫婦。窓の外の僕のキャンバス。








「小野伸二、浦和復帰!!」


最初にこのニュースを目にしたとき、彼は欧州で続けるべきだと思った。日本の民放よりもBSやスカパーがが似合う選手であるからだ。おれは、浦和レッズが好きだけれども、彼だけには戻ってきたほしくなかった。


しかし、時間経ってよく考えてみると、良い選択であったと思えてきた。彼は、勝つことよりも楽しくサッカーをやることに重きを置いている選手に見える。そんな彼は、一番必要だと考えてくれるチームでやるのが良いのではないか。仲間がいて、医療スタッフがいて、そして何よりも自分の国で好きな仕事に打ち込める、こんなに素晴らしいことはない。おれは、一人のレッズファンとして、小野伸二に声援を送りたいと思う。またいつの日か、ヨーロッパで観客を楽しませる彼を信じながら。


完全に次元が違うのだけれども、おれも彼のような選択ができたなら、一つの考えとして、どんなに素晴らしいだろうと思っている。小野伸二にとっての浦和レッズが、おれにとって地元・横浜だ。横浜に帰って仕事をするということ。大好きな仲間がいる、慣れ親しんだ風景がある、そんな場所で好きな仕事ができたなら、それは、仕事において何かを断念したのではなく、何かを心から望んだもので、それはきっとポジティブだ。仕事というのは、どんなことをするかと同じくらい、どこでやるか、場所が重要だと今は考えている。自分の好きなことに妥協したくない、でもその仕事を好きでいられる、確認できる場所にもまた、こだわりたい。


話は戻って。今年はJリーグが面白くなるぞ~。ワールドカップもあるし、盛り上がりそうだ。日本で小野伸二という’ワールドクラス’を見れると思うと、わくわくする。今年はさいスタに何度か足を運びそうだ。

広島・長崎に原爆が落とされ、今年で61年。この国は世界唯一の核被害国となり、そして世界のどの国よりよりも平和を願うようにもなった。アメリカが落とした原爆には様々な意見があるが、もしあの時、原爆を落とされなかったら、この国はどうなっていただろうか。でも、それはこの国の歴史から、ひとつ悲劇がなくなる程度のことではない。もしかしたら、もっとひどいことが待ち受けていたかもしれない。原爆を落とされたことは、もちろん悲しいことではあるのだけれど、落とされなくても同じくらい悲しいことが確実に起こっていただろう。やがて食べ物がなくなり、子供に食糧を与えることのできぬ親の気持ちだって、やはり悲しいことだ。これは、当然のことだがアメリカへの「感謝」ではない。やり方として、正しいことであるはずがない。けれど、この国は原爆投下により、多くのことに気づいた。知らなかったことを知るようにもなった。原爆により、この国が発展するスタート地点を見つけたこともまた、事実だ。あの日があったからこそ、成長できた部分もきっとある。だからこそ、この国は今もなお原爆の悲惨さを、次の世代にも伝えているのではないだろうか。


夕方のニュースを見て、上記のことを書いた。そのニュースとは原爆についてのニュースではない。日本の隣国の「飢え」の報道だ。国の貯金箱を、子供たちの教育や国民の食糧に回すのではなく、爆弾や核兵器などの軍事に変えている現状は、そのまま戦前の日本である。北朝鮮の人は、外の世界を知らない、知る術がない。ある一人の人物を神様のように崇拝し、自分たちが恵まれていないことに気づきもしない。そして、外の世界との遮断により、情報と食料が不足する。いつだって罪のない子供たち。


この現状が、もしかしたら日本でも続いていたと考えるとゾッとする。今、悩んだり不満に思っていることの贅沢さが、恵まれていることの一つの証に思えてくる。歴史の悲しい話は絶対に繰り返してはいけない。核や軍事力で、北朝鮮に救いの手を差し伸べるのではなく、新しい時代の新しい解決方法、きちんとしたきれいな話し合いで、世界中に嬉しいニュースを届けてほしいものである。

細く開けたカーテンの向こうに月が見える。窓を開ければ、冷たい空気が音もなく静かに入り込んできた。入れ替わるように、部屋の暖かさが、逃げていく。冬の夜は、とりわけ寒さが厳しい。


けれどおれは、冬は嫌いではない。寒いのは大嫌いだけど、冬という季節は嫌いではない。どことなく、冬には、’温かさ’を感じるからだ。食べ物の温かさ、部屋の温かさ、何よりヒトの温かさを。冬というのは、ヒトとヒトを近づける季節なのかもしれない。


もう一度、月を見た。月は何も言わず、雲の影に隠れてしまっていた。いや、あれは雲であっただろうか。もしかしたら、俺のタバコの煙かもしれないし、道行く人の大きなタメ息だったかもしれない。光を隠す何か、得体の知れぬ何か、俺が確認したい何か。月は、その何かを決して教えてはくれない。