みなさま、こんにちは。Lynnです。
今日は「人間関係うまくいくあり方なら恋愛もうまくいく」と題してお届けします。
今日は、今月6本の総括的記事です。
今日も、わたしの内省ノートからの転載。
*****
「人は、自分を愛する程度にしか、
他人を愛せない」
精神分析医 カレン・ホーナイの言葉。
であれば、こうとも言えないだろうか?
「あなたがその人から
その程度にしか愛されないのは、
その人の愛する能力がその程度だから」
* * *
その人からその程度にしか
愛されないのが不満なら、
その人から離れる選択肢もある。
それは恋愛に限ったことではない。
「愛」を「尊重」に変えれば
友人にも言えそうだ。
■「あなたがその友人から
その程度にしか尊重されないのは、
その友人の尊重する能力がその程度だから」
■「人は、自分を尊重する程度にしか、
他人を尊重できない」
・「この人はこういう人」と諦めて=明らかに見て、今までどおりつきあうのもひとつ。
・「こういう人とはもう少し距離を広くとってつきあうのが心地いいな」と見て、つきあい方、距離感を変えるのも
ひとつの選択肢として、ある。
* * *
そうは言っても、離れられない、
すぐに物理的に距離を置けない相手もいる。
たとえば、利害のからむ仕事の関係者。
そして、今となっては昔のことたが
幼少期の自分にとっての養育者、親。
であれば、こう思うことも可能だろうか?
「子どものあなたが親から
その程度にしか愛されなかったのは、
当時の親の愛する能力がその程度だったから」
つまり──
自分に価値がないから愛されなかったのではなく、
当時の親の愛する能力がその程度だったから、そうとしか愛せなかった
──と。
* * *
ここでわたしが連想するのは
「ハンロンのかみそり」。
「無能で十分説明できることに悪意を見出だすな」
当時の親の愛する能力がどんなに貧しかろうと、そこに悪意はない、と。
もちろんこれは、わたしの場合。
誰にとっても、どんな子ども時代を送ってきた人にも言えることではない。
あくまでもわたしの場合、
30歳前後の若い男女を「親である以前に、ひとりの人間」として見る視座を養うのに役立ったのが、
カレン・ホーナイの先の言葉と「ハンロンのかみそり」だった。
* * *
わたしがショッキングな体験をした5歳の頃の親の年齢を、今のわたしは越えている。
しかしわたしの愛する能力は
当時30歳前後の両親のそれを越えているだろうか?
同じ程度で、つまり "その程度" で
そうとしか自分を愛せず、同様に
そうとしか他人を愛せないなら──
ショッキングな体験をもたらした両親をとやかく責めるより、ほかに優先してやることがあるのではないか?
両親のことをとやかく言うより、
他人のことをとやかく言うより、
人さまの恋愛に首をつっこんで要らぬお節介を焼くより。
自分にとってのみ都合のいい過大評価や正当化をして人さまの人間関係にしゃしゃり出て、口出しダメ出し指図することなく、
謙虚に慎ましく、
淑やかな大人の女性でありたいと思う。
* * *
年齢、性別、文化、
置かれた状況や立場。
それらの違いを尊重し、
建設的に関わっていける心の状態の人は
えてして人間関係全般、
うまくいっているのではないだろうか。
恋愛も相手のあること、
人間関係のひとつだから、
恋愛も例外なく良好な関係でいるのではないだろうか。
わたしに限っていえば
幼少期の親からの関わられ方から身につけていった親との関わり方のパターンが
そのまま、人との関わり方になっていて。
それが恋愛となると不思議なことに
ほかのどの関係とも違って
「もっと愛されてもよかったはずの子ども時代のリベンジ、やり直し、生き直し」に利用していて。
誰だって、わたしだって
そんなことに利用したりされるために
恋愛関係になるわけじゃないのに。
恋愛を「もっと愛されてもよかったはずの子ども時代のリベンジ、やり直し、生き直し」に転用して関係を変質させた度合いが強いほど、
相手とギクシャクして恋愛がうまくいかなくなるのではないか?
そういう想いもノートに書いてきた。
* * *
そんなこんなの
我が身、我が行いを省みての想いを
ノートに書き出すこと、
中学時代からだから…10年では済まない。
四半世紀、25年。
それがまさかね。
そのノートがまさかね。
2018年4月にブログを始めたときは
想定していなかった。
まさか2024年同月、ブログ7年目にして
このノートが陽の目を見るなんて。
このノートを転載することを
自分に許可するなんて。
(※ほかの人には許可していません)
▼今年今月、2024年4月の内省ノートからの記事
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