みなさま、こんにちは。Lynnです。
今日は「アサーティブであることが、かまってちゃんへの対処法」と題してお届けします。

今日もわたしの内省ノートの転載。
アサーションやアサーティブがどういうものなのかの説明は略しています。

前の記事と同様、
フロムの「愛するということ」から引用して締めくくります。


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ありがたいことに、年々
人間関係に悩まなくなってきている。

今では、誰に対しても
自分がアサーティブであれれば十分満足。

どんな立場、どんな距離感、どんな関係であれ。
もちろん、自己中心的で依存心の強い人とであれ。


* * *


たとえば、
「この人は、こちらのために何をどれほどしてクレるだろう?」と、他者に関心を寄せるのはその一点のみという人物。

要するに
「自分が "される" こと」しか考えてない
自己中心的なかまってクレクレちゃん。


「かまってちゃんはかまわないのがイチバン」というのはよく聞く。

けれどもわたしは、
相手がかまってちゃんであろうと、
かまってもらうためのきっかけ作りや口実だろうと、、

誘われれば OK することもある。
何か頼まれれば協力することもある。
わたしが物理的に可能で興味のあることなら。

OK/NG、YES/NO、どちらにしろ
わたしはそれをアサーティブに伝えるだけ。


少なくともわたしは
かまってちゃんのお誘いや依頼を
いつでも最優先にして動きはしない。
かまってちゃんのお誘いや依頼を
いつでも最優先にして生きてはいない。

いちいちわざわざ自分から
かまってちゃんを避けることにエネルギーを使うより、
かまってちゃんがかまわれに来たときに
アサーティブに対応するほうが、
わたしには合っているみたい。


* * *


わたしが他者、
特にかまってちゃんに対しても
アサーティブでいる、ということは、

わたしがわたし自身に対して
愛と尊重(ひとことでいえば自己尊重感)をもって接していることを、

彼らの前でも、その態度を変えずに
いる/presenceするということ。


そんなわたしを
かまってちゃんがどう感じようと、
それは彼らの自由。

かまってほしい、
関心を向けてほしい、
共感してほしい、
尊重してほしい、
気遣ってほしい、
愛してほしい……

愛を求めるかまってちゃんが
どう感じようと、彼らの自由。


* * *


かまってちゃんが
人からほしがる上記のそれらは、
彼ら自身も意識できる「上辺のニーズ」なんじゃないか?という気がする。
氷山の一角的な。

実のところは
「愛(すること)を(自分に)求める」
じゃないだろうか。


* * *


人に愛を求めることが
「上辺、ダミーのニーズ」なら──

求められるがまま、求めに応じていくら
愛したとて
気遣ったとて
尊重したとて
共感したとて
関心を向けたとて
かまったとて──

彼らの「真のニーズ」は
どこかに埋もれたまま、潜在したまま、
満たされることはない。


* * *


だからこそ──

かまってほしい、
関心を向けてほしい、
共感してほしい、
尊重してほしい、
気遣ってほしい、
愛してほしい……

と「愛を求める」かまってちゃんが、

わたし自身に対する愛と尊重をもって
YESだけでなく、NOもありのままに
アサーティブに伝えるわたしのことを

どう感じようと、彼らの自由。


当然、わたしのことを
思いやりがない、愛がない、冷たい、人間的に未熟だと感じるのも自由。

わたしはそれを尊重するし、実際そう。

かまって沼にはまった人を
救い出せるほど、
すばらしい人物ではない。わたしは。


他者の(ダミーの)ニーズに応えるために
自分の気持ちを犠牲にしない。
大げさにいえば、そのために
自分の気持ちを自分で裏切らない勇気。

それがあるからこそ、
かまってちゃんに対しても
YESもNOもありのままにアサーティブに伝えられる自分でいられるのかも。

けっしてすばらしい人物ではないけれど
わたしはわたしであること、
そしてアサーティブであることを、
今ではわたしなりに誇りに感じている。


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エーリッヒ・フロム
「愛するということ」

第4章「愛の練習」
p189~190
【信念と勇気の練習は、
日常生活のごく些細なことから始まる。

第一歩は、自分がいつ
どんなところで信念を失うか、
どんなときにずるく立ち回るかを調べ、

それをどんな口実によって
正当化しているかをくわしく調べることだ。

そうすれば、
信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。

また、それによって
次のようなことがわかるはずだ。

つまり、
人は意識のうえでは
愛されることを恐れているが、

ほんとうは、無意識のなかで、
愛することを恐れているのである。