引き続き文章講座に通っておりますが、またしても没原稿。
「価値がある」コラムを書くのは、まだ超えなければいけないハードルがあるようです。
でも、出だしは褒められました。
せっかく書いたので、ブログにUP!
以前にも書いたことのあるネタをリライトしました。
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「田舎の無遠慮なコミュニケーションを認めざるを得なかった日」
18歳で田舎から逃げるように出てきた。
現在は街並みとしては地方「都市」なのだが、両親とも都市化する前の育ちで、文化的にはどっぷりと田舎で、おまけに貧しかった。もちろんふるさとには良いところもたくさんあるのだが、とりわけ私が受け入れ難いのは、身内間での無遠慮なコミュニケーション法だった。
踏み込む。
からかう。
茶化す。
皮肉る。
貶める。
差別する。
ひとつひとつは些細な習慣だ。
足の悪い叔父が「●●●(それを指す差別語)」と呼ばれていたこと。
私は「お前が器量が悪いから愛想をよくしろ」と言われて育ったこと。
娘(母にとっては孫)の大学合格の報告を電話でした時には、おめでとうもなく「大学にやる金なんかあんのか」と訊かれた。距離が離れて油断していた私は、不意打ちをくらって、怒ることも切り返すこともできずにモゴモゴと電話を切った。切り際に「大学になんかやらんで専門学校で手に職つけさせろ」という声が耳に流れ込んできた。うんざりだ。いつもこんな風に私の心の安全や自由は侵食されてきたのだ。
(それとほぼ同時に、そう言わざるを得ないほど母がおかれてきた経済的困窮に胸が痛むので、より始末に負えない)
大人になって、平和的なコミュニケーションを学べば学ぶほど、自分がネイティブな無遠慮さ・下品さを骨の髄まで沁みこませていることを痛感し、やりきれない思いをした。
失言をしては友人から浮き、優しく指摘してくれる友人の家庭はさぞかし上品であったのだろうと恥じ、妬む。パートナーと喧嘩をすれば強烈な殺傷力を持つ武器を内蔵している自分に気づく。両親の口論や離婚後の恨み言は私の無意識の辞書に丹念に書き込まれ、とてもぶ厚い。こんなものを持ち歩くことにも絶望していた。重すぎるだろ、これ。
自分自身が2度目の離婚をし、2度目のシングルマザーになった時には、本気で自分自身の「問題」を棚卸した。とにかくこんな連鎖からはもう脱出して、大方の友人たちのように幸福に暮らしたかったのだ。
さて、そんな私が、久しぶりに田舎に帰ったのは父の納骨であった。
両親は私が中学生の時に離婚し、私と姉には、「父と父方の親戚には一切連絡を取るな」と言い渡された。父の借金やアルコール問題が離婚の原因だったため、連絡を取ると借金取りが家にまで押しかけるから、というのが母の主張だった。実際、逃げた先の住居にも1件だけ借金取りはやってきて、怖い思いもしたので私は従った。14歳以来、父方の血縁には一切連絡をしなくなった。
親元を離れてからも、最初の結婚をして私が父にとっての孫を出産した時にも、「お父さんに連絡したら、金の無心に来たり、面倒をみることになるから絶対やめろ」そう母は私にきつく言い渡した。
私は心のどこかで気になりながらも、目の前の日常を必死で送っていたので、あえて父を探したり仲の良かった従姉妹と連絡をとったりはしなかった。
そんな父が東京で亡くなった、という知らせを受けた。生き別れてから実に30年ぶりに再会した父は、焼かれた後の骨。大きな壺の入ったこれまた大きな箱を抱えて、私は孤児のような気分で電車に揺られて帰宅した。
父は、亡くなる数年前まで建築現場で働いていたが心臓疾患が見つかり失職し、晩年は生活保護で暮らしていたそうだ。酒に酔って帰った朝の心臓発作で、アパートの玄関で倒れているのを隣人が見つけた。一命をとりとめたものの、リハビリ期間中にまた容体が悪化し亡くなった。まあ、じゅうぶん生きたよね、と思ったし、友人もいたようで死そのものには不条理感はまったくなく、むしろどこかほっとした。しかし父方の親戚はもう皆高齢で、誰も東京までの長旅はできないとのことで、都内に暮らす私が骨を引き取って、帰省する役を仰せつかった。
30年ぶりに会う父方の親戚は懐かしい顔ぶれだった。みな皺が深くなり、伯父たちはやや静かになっていたが伯母たちは元気でかしましい。ご無沙汰していた母や私たち姉妹の顔を見ると伯母たちがキャーキャーと声をかけてくれて、子どものころの、お盆や正月の記憶が一気によみがえった。
祖父母は既に住んでいない、懐かしい「じいちゃんち」で、読経をきく後列にはくすくす笑う従姉妹の子どもたちがいた。まるで子どもだった私達のまぼろしのように。
「ライちゃん、元気~? いま何やってるの?」一番上の伯母が話しかけてくれた。
「東京でカウンセラーをしてるんよ」私が答えると伯母は目を丸くして言った。
「本当け? うちのタケシ今引きこもりなんよ! 話聞いてやって! アハハハハ」
伯母の高らかな笑いには、なんの引け目も感じられない。なんというか天晴な強さ。今日来られなかった従兄のタケシくんは人生に悩んでいるかもしれないが、伯母は悩んでいないのだ。長年、化粧品の訪問販売で営業をし続けていた彼女は相変わらず明るく、人を惹き付ける。息子の人生は息子の問題なのだろう。
読経が終わるとみんなで敷地内にある裏山の墓場へ納骨に行った。
子どもの頃、お盆には従姉妹たちとお供えのお菓子をかすめて食べて回った懐かしい墓場。無花果の木。ねむの木。オシロイバナ。40年以上前の夏の風景だ。
先祖代々の墓の、窓のような部分を開けて、骨壺からお箸で骨をつまみ墓内へ投入する。中は土だ。お墓ってこういう構造だったのか。
みんなで神妙に箸で骨をつまんでは運び、と儀式を行っていたが、最後には箸では拾いづらいカケラたちになった。先の伯母が箸を置き、素手で豪快に集めて、小窓に入れた。まるで縁側の砂を庭先に払うみたいに無造作に。朝食の後、食卓のパン屑を集めるように自然に。見ている私の手にも骨のカケラの感触がザラりと感じられた。
骨壺を逆さにして、カラになったのを確認すると、伯母は母を振り返って言った。
「アキヨさん、これに梅干し漬ければいいねっけ」
不意打ちのギャグに、全員が無防備に笑った。言われてみれば、骨壺の大きさも形状も、梅干しが入っていてもおかしくない。そして母は、毎年美味しい梅干しを漬ける人だった。
「ほんだわ」母も笑った。
30年の時間も断絶も超えて、7月の裏山の墓場に、笑い声が響いた。納骨が終わった。
高台の墓場から、眼下に畑が遠くまで続き、空が広い。
父が、この土地に暮らす兄弟たちに迎え入れられた感じがした。母も、一度縁を失ったかにみえた姻族に、再び迎え入れられていた。
この一瞬にして壁を崩す破壊力は、遠慮や上品の文脈ではありえないのかもしれない。私は初めて、これまで忌むべきものとしていた田舎のコミュニケーションに、豊かさを見た気がした。
農家の祖父母が天候という制御できないものと共存してきたように、彼女たちは貧しくとも困難があっても、笑い飛ばしながら、言いたいことをずけずけと言いながら、こじれずにいじけずにやってこれたのかもしれない。
遠慮して距離をとることだけが是ではないのだな。距離を取り過ぎて部屋から出てこなくなっちゃった従兄のタケシくんや、居心地の悪さから実家に帰らなくなった私が、今から、受け継いだネガティブ・ワードの辞書を活用することはないとは思うけど、その価値を認めることができた納骨の日であった。
お父さんありがとう。
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