昨日TVで「かぐや姫の物語」をやっていた。
nikoが観ているのを横目で観ながら、
昨年書いたブログを読み返してみる。

聴いてくれる母。~映画「かぐや姫の物語」

その後もう1本。ネタばれ(?)含む

映画のラストを知りたい派?

で、まだ2つ書きたいテーマがあったんだとトライしてみる。


一つ目は、絶望的なまでにすれ違う、男と女。

姫のためにと、ととさまの与える環境が
まったく姫を喜ばせないこと

求愛してくる殿方たちが
誰も姫の本意を聴きとれず
無理難題に「果敢に」あるいは「効率的に」挑戦して
「勝ち」を取ろうと努力する姿。

それはまるで「家族のために働いてローンで家まで買ったのに」
と、妻子に去られてなお意味が分からずにいる男性を彷彿とさせる。

パワハラ・セクハラの帝。
この人も、なぜうまくいかないのか意味がわからないんだろう。

再会した捨丸にいちゃん(その名も捨丸・・・・)は
いきなり妻子を捨てて姫と逃げようとする。
しかし、「運命の女」である姫が手にはいらなければ、
もとの妻子とのくらしに戻ることができる。

(これは映画「マディソン郡の橋」では男女逆だけれど
 でも男性側のスタンスがすごくよく似ている。
 自分と女、以外の要素(子どもや配偶者)にめっちゃ無頓着。
 自分と相手、ではなくて女、という狩対象のようにみえる)


確か先日観た映画「何を恐れる~フェミニズムを生きた女たち~」
出てきた言葉(あれ?本のほうだったかも?

「男と女はまだ出会っていない」

という言葉がこだまする。


けれど。

まだ出会っていないならば

これから
出会うことができた時に
今とは全然違うパートナーシップが築けるという希望でもある。

実際に、この映画のように
男性である監督の側から、
ここまで絶望的なすれ違いを描けるならば

先日観た「幕が上がる」の原作・平田オリザ氏があんなに
生き生きとした少女群像を描けるならば

男と女は、出会うことは可能だ、という希望を感じるのだ。
(高畑氏と平田氏だけが天才だから、とかじゃないと思う)


さらに。

この物語は、古い物語だ。


ととさまの決めたことに
かかさまは逆らわない。

現実を根本から変えるアクションを起こさない。

だけど、与えられた環境で
ひたすら快適さを創り出す。
都の小さな庭で菜園を造るかかさま。

その一角で、田舎の風景を再現し
箱庭療法のように癒しを求める姫に寄り添う。


この物語は、古い物語だ。

現状の中で快適さを創り出すか
あるいは「死」を選ぶか。

そんな時代があったのだ。

今、私たちは

本質的に出会うことができる。
きっと。

現状を根本的に変えることも、選べる。

きっと。


月に帰る前に。


niko画・めのわらわ(nikoに似ている)



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