10年前の3月11日。北京にいた私。 | 中国語上達への道トレーナーのブログ

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大家好!

 

中国語上達への道トレーナーの鈴木律子です。

 

 

2021年3月11日。

 

 

今日この日が来るまで、

テレビ、新聞、ネット、ラジオなどさまざまな媒体で

東日本大震災に関することを見たり聞いたりしました。

 

 

当時あの大地震でどんなことが起きたのか、

再び知りたかったからです。

 

 

2011年3月11日。

 

 

私は中国・北京にいました。

北京の会社で午前中の外回りが終わり、オフィスに戻って

外回りのまとめやメールへの返信に勤しんでいたそのとき、

突然、日本人上司が「なんかいまちらっと聞いたんだけど、

日本で大きな地震が来たらしいよ」と教えてくれたのです。

 

 

すぐにYahooで調べたけれども、そこに情報が載っていたかどうかは

覚えていない。それよりもなによりもすぐさま実家へ国際電話をかけました。

 

 

全然繋がらない。

 

 

高校の頃からの友人の携帯にもかけました。

 

 

こちらもダメ。

 

 

同僚の日本人も確か皆同じような感じだったと思います。

焦る気持ちを抑えて、その日は実家と繋がらないまま

北京の家に戻りました。

 

 

夜、フェニックステレビ(凤凰卫视)のニュースを

見ると、地震の被害の映像が出てきました。

家族皆言葉もありませんでした。

 

 

北京の家族も心配してくれたわたしの日本の家族とは

次の日にようやく連絡を取ることができました。

関東に住む家族。皆無事でした。

 

 

北京では、地震から数日は日本人の有志の方から何かできることは

ないかと会社に連絡がいくつか来ました。

また、日本のお客様相手に外回りをすると、外回り先のテレビには

いつも震災被害の様子が映っていました。

 

 

大地震の状況がだんだんと明らかになってくると、

いかに甚大な被害が発生したかということも

北京にもひしひしと伝わってきました。

北京の家では日本のテレビシステムを入れていなかったため、

北京で入手するだけの情報では情報に限りがありました。

そこで外回り中、お客様と話をしている際に、

お客様が意識をそらしている時を狙って

客先のテレビを見ていました。

 

 

ここ数日の震災に関する情報を見ていると、

「自分のことのように震災を考えて欲しい」という

ことをおっしゃっているメディア関係の方がいらっしゃいました。

 

 

自分はあの時に日本にいなかったので、地震を体験していないけれど、

家族や友人たちにあの日のことを聞いてみました。

 

 

「地震もすごかったけど、その後も大変だった。

電車は動かないし、バスも来ない。職場から歩いて

家に帰った。保育園にも電話がつながらず、お迎えは

夜になった。コンビニからは食べ物は消え、松屋の牛丼買って帰った」

 

 

「ボランティアとして地域の資料館に一人で滞在していると、

資料館を資料を借りにきたという知り合いの方がちょうど

来ている時に地震発生。二人で一緒に体を掴んで支え合いながら地震に耐えた」

 

 

「あの時、まずひどい地震があった。

それから何度も余震があって、それだけでも怖いし、

料理するのも火を使うから、それもいつ地震が来るか怖くて

ストレスで、そのあと断水になるとのことで、水を水道局に

貰いに行ったりと本当に大変で辛かった。」

 

 

こんなことが関東で起きていたんだ。

 

 

まだ多くの方が不自由な生活を強いられている。

 

 

いま午後2時46分。

 

震災のことをいつまでも心に刻んでいきたいです。

そして復興が1日も早く進むことを願うばかりです。