映画「カラオケ行こ!」に情緒が占拠されて困っている | カラフルトレース

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明けない夜がないように、終わらぬ冬もないのです。春は、必ず来るのですから。

何の覚悟も持たずに見た映画で情緒を揺さぶられるのは、予想外だけに多大なダメージを負う。

もともと後味が重い映画は選好しない性分なので、尚のこと、かもしれない。

筆者にとって、他所からの評判を聞いて映画作品の視聴を決めることは珍しいのだが、今回はあまりにもタイムラインでの評判が高騰していたので、さすがに見に行ってしまった。

それが「カラオケ行こ!」である。

最後に見た映画が「コカイン・ベア」であったように、邦画は自発的に見ない。「実写化」には、どちらかといえば警戒心を抱いてしまう。しかも原作を履修していない。でも行ってみよう、と思わせる熱量が、フォロワー各位から滲み出ていたのだ。

結果として、「カラオケ行こ!」のことしか考えられなくなってしまった。

コメディー漫画じゃなかったのか。
情緒を前から殴るつもりなら最初に一声かけてほしい。


というわけで以下、原作未読勢によるネタバレ満点の感想となる。
未視聴の方は適宜自己防衛の程、どうぞよろしくお願いします。

(以下、ネタバレ防止用の虚無)







(ネタバレ防止用の虚無、終わり)


・主人公の中学3年生、岡聡実くん。

序盤から「こんな可愛い男の子がいるわけない」と疑いの目を向けていたが、劇場を出る頃には「聡実くん わたしの生活に実在しない なぜ」の検索窓が脳裏に浮かんでいた。

非常に可愛いのだが、男子中学生の描写としてリアリティの残る可愛さで、だからこそ後に尾を引く。お財布がマジックテープ式なのも、チャーハン大好きでいっぱい頼んでしまうのも、目立つ傘は恥ずかしいけどお母さんの買い物についていくのは気が進まないところも、ファンタジーにならない可愛らしさだ。

気持ち悪い感想で恐縮ですが、心の許し方がすごく…猫っぽいんですよ。

最初は明らかに「警戒してます!ぼくのテリトリーに入らないでください!」が全身からビシビシ放たれているし、身体的にも引き気味なんですが、学校の友人など馴染んだ相手には対照的に、控えめに喉でも鳴らさんばかりの柔らかそうな表情を見せる。

この背中の毛を逆立てた猫みたいな状態から、狂児を徐々に信頼し「狂児さんだけなら会ってもええ」と扉を開けるようになるまでの段階的な描写よ。目が離せん。夢中になるだろ。

彼の可愛さが頂点に達する瞬間は二度訪れる。一度目はヤクザ勢揃いのカラオケ指導会に怯え、あれだけ最初警戒していたはずの狂児の腕にぎゅっとしがみつくところ。二度目は狂児のために歌いやすそうな曲のリストを手書きで作り、自分から真横に距離を詰めてウキウキで説明しているところ。後者については、狂児の「かわええなぁ~!(頭撫で回し)」で全て代弁していただいた。

ところが恐ろしいことに、後半になればなるほど、可愛さを凌駕する侠気が前面に出てくるのだ。そりゃあんた、ヤクザに魅入られるわけだよ。なんなら半端な黒い方々より豪胆の者ではありませんこと?


・筆者は俳優には全く明るくない(綾野剛を本作で初めて見たレベル)ですが、綾野剛さんってもしかしてとんでもなくすごい役者では、と理解してしまった。

既に指摘されている通り、ビジュアルは原作にあまり寄っていない。だけど個々の所作、機微すら伝わる顔の表情、どれも非常に意図的で雄弁なのだ。芸が細かい。そう、まるで漫画家が意図して描き込んだかのように。

綾野剛が演じる狂児がとんでもない「人誑し」なのは、彼が演じたからなのか、あるいは原作へ忠実に過ぎないのか。いずれにしても恐ろしい男ではある。

多分この人、反社会勢力を演じたご経験が豊富ではありませんこと?「ヤクザ」を親しみやすい形には薄めず、でも戯画的に誇張された怖さもなく。なんというか、演じるに際して「反社会」の引き出しが多いような印象を受けたのだ。これも聡実の「可愛さ」と同様、完全なるファンタジーでないからこそやはり尾を引く。

懐柔と暴力を瞬発的に行き来する容赦の無さ。そうした己と周辺の危険さを自覚しているからこそ、一定以上の親密さになってしまう前に突き放す。「こんなところに二度と来てはいけない」と言葉にする。姿を消すときは跡形もなく消す、その徹底っぷりも含めて、やはりカタギの者ではないと感じさせてくる。

あれだけ男子中学生の懐に入り込んでおきながら「俺はお前たちとは違う世界に生きてるんや」と線を引くのは、フィクションだからこういう言い方できるけど、罪な男だねェ~!

で、分別あるオトナみたいな挙動を散々やっておいて、エンドロール後のあの刺青はどういうことや。説明せぇ。


・何がヤバいって、これコメディーの顔した「喪失の物語」なんですわ。それも多重構造の。笑えるのに。

変声期、部活、再開発。そしてヤクザの中年とカタギの中学生という、永続することが明らかに無理のある関係。全てが「失われること」を前提に成り立っている

映画研究会の演出も憎いですよね。巻き戻すことのできないビデオたち。それは作中の登場人物を取り巻く時間を冷徹にも説明していて、でも「巻き戻せないからこそ愛おしい」という優しさもある。

作品全体にウェット過ぎずドライ過ぎない温度感が、一定して流れているんですが、それは「ヤクザと中学生」という少しでも均衡を崩すと危ない関係を描き抜くためだけでなく、万人に存在する「喪失」をひとつずつ並べていくためにも必要なものなのでしょう。

いわゆる「部活モノ」の醍醐味って「絶対に期限付きであること」ですよね。その「終わりがあること」を正面から見詰めた作品でもある。自分たちが卒業しても部活は関係なく続いていき部外者になる、という「終わり」もあれば、自分たちが卒業すれば部活の歴史も絶たれるという「終わり」もある。

聡実くんを序盤からじわじわと苦しめていた「変声期」が、最後に狂児のために昇華されるあの恍惚、なんと表現すれば良いものか。合唱祭のために大切に温存しておいたはずの、二度と取り戻せないボーイソプラノ。最後の輝きの名残りが、掠れて苦しみながら完全燃焼する。

たった1曲を歌うあの短い時間で少年期が終わってしまったことを、明確に見せつけられる。そんな表現がこの世に存在することが信じられない。

ついでに、変声期の取り扱いの繊細さを、男性教員に比して女性教員があまり理解できてなさそうな描写も、ちょっとリアル。

よく考えれば、あの合唱祭でありカラオケ大会の日、他にも色々なものが失われているな。聡実が自らカタギ側の世界を捨ててヤクザ側の世界を選んで踏み込む実績が解除されてしまったり、聡実と狂児にとって親密さを育む空間であった黒い愛車が事故に遭ったり。

ここぞとばかりに積み重なった「喪失」に、どれもちょっとずつ覚えがあって、ギュッと心臓を掴まれてしまうわけですが。

でもこの映画が真に恐ろしいのは、丁寧すぎるまでに「喪失」の要素を散りばめておきながら、その対極である永久に残るもの、「刺青」が最初からテーマになっていることなんですよ。で、最後の最後に狂児の腕に彫られていた刺青の内容を思い出してください。

他ならぬ狂児によって、二人が過ごした時間が永久に刻まれたというわけです。


・そして聡実くんを演じた齋藤潤さん。ご本人も(撮影決定時?)15歳だと言う。

彼の前には俳優としての輝かしいキャリアが開けていて、今後も数多くの作品に出演するだろうけど、15歳という年齢を、いや「少年期の終わり」を等身大に演じた作品という点で、同じものはもう二度と撮れないのだ。彼自身の少年期は、もう戻ってこないのだから。

少年から青年への変わり目は想像以上に儚く、しかも不可逆である。その「不可逆」を詰め込んだという点で、作品のメッセージと演者のリアルな人生もオーバーラップする。

つまり、役者自身の人生の一部をまるごと捧げてもらった作品、ではないだろうか。
だからこそリアリティのみならず、ナマの生を作品に資する背徳感も味わってしまう。

製作陣も「齋藤潤という俳優の15歳の輝きを精一杯詰め込みたい」的なコメントしていたようで納得しかない。ありがとう、手に取ると壊れそうなものを映像作品という形で半永久的に残してくれて。


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2024年、まだ1月も終わっていないというのに、濃いものをたくさん浴びてしまって情緒が大変です。

山縣美季さんのリサイタル宝塚のRRR、そして今回の「カラオケ行こ!」。

今年は一体、どんな年になってしまうのでしょうかね。