山縣美季さんリサイタル@2024/1/7浜離宮朝日ホール | カラフルトレース

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明けない夜がないように、終わらぬ冬もないのです。春は、必ず来るのですから。

会場へ向かう道すがら、近所の白椿にふくふくの雀が2羽止まっていて、今日はいい日になるなと確信したのを覚えている。

浜離宮では2年ぶりとなる山縣美季さんのリサイタル。わたし個人としても、彼女の一人舞台を拝聴するのは一昨年の新潟以来だったので、本当に楽しみでした。

 

この「一昨年の新潟」が、筆者の中でのベスト山縣だったのですが、前半が終わった時は既に「これ現時点のベスト山縣を超えたぞ」と断言していたし、後半まで終わってしまうともはや「わたしはまだ山縣美季というピアニストのことを何も分かっていなかった」という空恐ろしさすら感じさせられました。

 

「ベスト山縣」と言わしめたポイントはどこにあったのか。

それは「これまで聴いた中で最も素直な山縣美季」だったことです。

選曲の妙に導かれるように、徐々に心を開いていく山縣美季さんの世界に魅了された次第です。

 

開演前、プログラム冊子を開くと二重の驚きがありました。

ひとつは、曲目解説が美季さん本人による文章だったこと。内容のこだわりも共感できるものが多いのですが、何と言っても文体の品が良い。

もうひとつは、ヴァイオリニストの堀内優里さんとのデュオリサイタルのチラシが挟まれていたこと。

曲目がなんと、フランクのソナタとフォーレのソナタ第1番

7/31です。わたしは既に会場内でチケットを買ってしまいました。

堀内優里×山縣美季 デュオリサイタルのチケット情報(2024/7/31(水)) - イープラス (eplus.jp)

 

【プログラム】

バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」BWV992 変ロ長調

ハイドン:ソナタ第58番 Hob.XVI:48 Op.89 ハ長調

フォーレ:バラード Op.19 嬰ヘ長調

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ショパン:24のプレリュード Op.28

 

まずこのプログラムね、本人は前半の曲について「後半がプレリュード集だから前半に持ってこれる曲が限られている」「その上で自分が素直に弾きたい曲を選んだ」と仰っていましたが、これ相当バランスよく考えられて組まれているプログラムですよ。どういうことは各曲の項目で詳述します。

 

 

バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」BWV992 変ロ長調

この曲は、バッハの兄がカール12世に随行するため旅だった頃に作られたそうですが、それぞれ情景を描写するタイトルがつけられた全部で6部分から構成されています。

 

題名を辿る限りでは、兄との別れを惜しみ、友人たちも旅路を案じて一緒に嘆くのですが、結局は御者のラッパが鳴り響き、出立を引き留められなかった、というストーリーです。

 

タイトルの力こそあれど、筋書きを分かりやすく伝えるバッハの構成力はさすがのもの。

そして「小さな情景描写のシークエンスにより、ひとつの大きな物語を描き出す」という構造が、ショパンのプレリュード集に通じるものを感じさせませんか?

 

もちろん、曲の性格としては真逆で、バッハは悲しいストーリーのようでありながら、カプリッチョ(自由なフーガ風の鍵盤音楽)の形式をとることで深刻になりすぎていません。

 

最初プログラム見た時は、美季さんがバッハとは珍しいなあと思ったのですが、プログラムでは「奏者の者の自由に委ねられた部分も多く、この日限りの演奏をお楽しみいただきたい」と、楽譜への誠実と忠誠を誓う美季さんにしては尚のこと珍しい発言をしていました。

 

それが吉と出るか凶と出るか、当然吉と出たわけで。

 

演奏者の自由に委ねる、というものの、悲しい旅立ちの場面も精巧で軽妙なフーガに仕立ててしまうバッハの魔法に、むしろ美季さんが心を許して身を委ねているように聞こえたのです。

 

たとえば奏者の自由に許された部分として装飾音が挙げられるのですが、決して装飾過多にはならない範囲内で、でも必要以上に昂ぶりを抑えつけている印象もなく。

 

菰野のピアノ歴史館でガイドさんに言われたことを思い出します。バロック音楽における装飾音は、高まった情動の表れだ、と。そうした情動の表出を美季さんが許すこと自体、これまでと違う段階に一歩踏み出したのかもしれません。

 

いま振り返れば、この時点でわたしの知らない山縣美季が、そこにいたのでしょう。

 

 

ハイドン:ソナタ第58番 Hob.XVI:48 Op.89 ハ長調

わたしの記憶している限り、美季さんが演奏するハイドンを聴くのは初めてです。

そして記憶違いでなければ、ハ長調がメインの曲を弾く美季さんも初めてだと思います。

 

ハイドンのソナタ、に詳しいわけではないのですが、わたしのイメージとしては「明るい」「古典派だけどモーツァルトほど天真爛漫ではなくベートーヴェンほど重厚ではない」という感じです。

 

美季さんがこのハイドンを選んだのは、陰惨(といっても差し支えないでしょう)な幕切れのプレリュード集と対比をなす存在として、気楽に明るい曲が必要、と考えていた可能性があります。最高のバランス感覚。

 

ただ、そんなハイドンのソナタの中でも、ちょっとこの曲は変わり種ではないでしょうか。

まず古典派ソナタではあまり見かけない2楽章構成。しかも第1楽章が、ソナタ形式ではなく変奏曲。

 

2楽章の遊び心に富んだロンド形式も相まって、個人的にはモーツァルトのような自由さも感じられます。もっと言えば、度重なる休符による中断や変奏の豊富さのおかげで、ちょっとした冗談の趣すらありました。

 

よく考えればハイドンというのは「びっくりシンフォニー」が有名なように、音楽によるおふざけが大好きな面白おじさんなのかもしれません。今回の美季さんは、その面白おじさんの悪戯に乗っかって一緒に遊ぶような、無垢にも近い素直さが内側から溢れ出てくる弾き方に思えました。

 

一線を引かれているはずの、観客席にいる我々と舞台上にいる美季さんが、ハイドンの遊び心を通じて心理的距離が縮まったのではないか、と錯覚してしまうほどに。

 

ハ長調というのは、従来の美季さんにあまりない選択でしたが、この曲が終わった時点で「美季さんの弾くハ長調をもっと聞いてみたい!」という、新たな期待が湧いていました。

 

 

フォーレ:バラード Op.19 嬰ヘ長調

美季さんによって存在を教えられたうつくしい曲たち、の中でも最たるものが、このフォーレのバラードです。

 

2021年3月のピティナの入賞者記念演奏会で聞いたのが初めてですが、それ以来わたしにとって忘れがたい曲のひとつとなっており、事あるごとに「美季さんフォーレのバラード再演してくださらないかしら」とツイートしていました。夢が叶いました。やったね!

 

どこでフォーレのバラードがショパンのプレリュード集と結びつくかといえば、他でもなくバラードという形式においてフォーレがショパンから大きな影響を受けていたことが挙げられます。ショパンの面影を最後に色濃く残して、前半のプログラムが終わるというわけ。

 

フォーレの音楽は、ぼんやり聞き流している限りでは「ただの綺麗な曲だな~」で終わってしまうのですが、注意深く観察すれば、それぞれ一見不条理な音と音の取り合わせなのに、全てが組み合わさって初めて、陰影を孕んだ絶妙に美しい彩りが生まれるという、スーラやシニャックの絵画みたいな名人芸なのです。

 

美季さんにフォーレが似合うのは、既に豊富な前例によって重々承知しておりましたが、3年前に聞いたバラードより、さらに伸びやかさが増していました。

 

フォーレの「バラード」の魅力は、旋律の美しさや響きの巧妙な透明感だけではなく、3つの主題が違和感なく絡み合う構成の緻密さもありますが、その構成美を浮き彫りにすることは怠らないまま、バラードらしい情緒の揺らぎもしっかり尊重して形にする、理にも情にも流されず自身の音楽を作り上げていく、そんな演奏でした。

 

多分ですけど、美季さん嬰ヘ長調お好きじゃありませんこと?幾多もの調号が織りなす響きの中に、官能的な煌めきも禁欲的な祈りも香る、本当に魅力的な調。ショパンの舟歌も嬰ヘ長調ですよね。

 

夢と現を揺蕩うような心地のまま、静かに前半の幕が閉じて。どこか浮き足立ってすらいたかもしれません、この時は。

 

 

ショパン:24のプレリュード Op.28

ショパンのプレリュードは、いったい何に対する「前奏曲」なのか。

敬愛するバッハの「平均律クラヴィーア曲集」に倣って24の調性を並べ、短く印象深い曲を並べて。

24曲まとめて演奏するのを本来の姿とするなら、これは「死への前奏曲」ではないでしょうか。

 

走馬灯、という考え方はいささか日本的すぎるかもしれませんが、明るい曲の愛や希望と、暗い曲の悲哀や憤怒を交互に行き来することで、まるで人生の楽しかった時間を懐古しつつ、迫る死期に抗えない苦しみの方へ、どんどん突き進んでしまい、そのまま事切れたかのよう。

 

長調の次が短調、短調の次が長調、と繰り返されると互いの性格がより際立ち、終曲の悲劇性が強調されます。古くから死を表現するときに使われるニ短調で最後の24曲目が締め括られることで、より一連の作品としての絶望感が深まりますね。

 

さて。山縣美季さんという人は、わたしの中では圧倒的に「光属性」の音楽家で、演奏の基底にあるのは音楽への愛、平和の希求、そして絶望の中にも希望を見出す強靭さ、と思っていたのですが。

 

本人は演奏会前のインタビューで、自身の音楽生活は挫折と苦悶の繰り返し、という旨を語っていましたが、実際のところ自分の弱さや後ろ向きな感情を受け止め、言葉にできる強さが、彼女の音楽を支える本質なのかもしれない、と考え直すに至ってしまいました。ここでいう彼女の「言葉」は、同時に「音楽」をも包含します、当然ながら。

 

だからなのでしょうか。ショパンのプレリュードの中でも、短調の曲はこれまでにないほど剥き出しの激情が生々しく伝わり、長調の曲はこれまでにないほど表裏一体の悲哀を想像させてきて、今までわたしが知ることのないほど率直な、光も闇も素直な山縣美季さんがそこにいたのです。

 

幾つか、殊に印象深い曲の話をしましょう。

 

第4番ホ短調の滴るような悲しみに、美季さんの持つ懐の深さを感じたり。第11番ロ長調の口ずさむような装飾音がフォーレの「バラード」と近い音型で、もしかしてここにもプログラムの有機性を持たせたのではないかと想像したり。最も美しい第13番嬰ヘ長調のことを、調性とゆるやかなテンポから第二の「舟歌」と捉えているのではないかという愛情を読み取ったり。

 

「雨だれ」として有名な第15番変ニ長調は、単独で演奏されることが多いのでつい「綺麗な曲」という印象に終始しがちですが、プレリュードの中の1曲として見つめなおすと、大変な孤独を抱えているように聞こえてきます。その内省的な性格に、躊躇いなく焦点を当てる演奏。そういえば「雨だれ」って、ノイマイヤー版「椿姫」の中でも蜜月を断ち切る別離の場面で使われている曲で、やっぱりノイマイヤーはショパンへの解像度高くない? あと美季さんバレエ版「椿姫」のピアノにご興味ないですか?

 

第20番ハ短調。スケートファンからすると「カンフーピアノのアレかあ」となる曲ですが、ショパンの原曲は簡素ゆえに死を悼むような嘆きが露になります。一つ一つの音に言葉を込めるのは美季さんの得意分野ですもの、どのくらい痛切な響きだったかはご想像の通りです。

 

そして穏やかな第23番ヘ長調からの、真っ逆さまに墜落するような第24番ニ短調。この悲劇に向かう疾走感たるや! これまで感情の振れ幅にさんざん揺さぶられておきながら、最後の最後で突き落とされる。ショパンが内心どれほどの絶望と憂愁を抱えていたかが想像できます。

 

聞いているこちらも息を止めてしまうような美季さんの凄みに引きずられ、最後に三度打ち鳴らされる低音の後は、演奏する側も聞く側もともに息絶えたかのような臨場感

 

美季さんの演奏を聴いて、こんな絶望を味わったことが今まで全くなかったので、未知の場所へ、それも冥界へ連れ込まれたかのような新しい感情を味わってしまいました。

 

「山縣美季のショパン」に対する理解が、美しく潤いがあって曲の構成に忠実、で止まっていたのですが、完全に覆されてしまいました。

 

申し遅れましたが、プレリュードの衣装とても好きです。光の当たり方で色が様々に変わる生地が、あたかもプレリュードの持つ24の調性みたいで。

 

 

アンコール①ショパン:ノクターン Op.27-2 変ニ長調

美季さんよ、アンコール1曲目を「気楽な曲」と紹介していたが、これはプレリュードより夢見る余地が何倍もある曲とはいえ、あまりに綺麗で「気楽」かは若干議論の余地があるぞい。

 

というのは別に良くて、「雨だれ」と同じ変ニ長調のノクターン、曲そのものがショパンのノクターンのなかでも一、二を争う美しさというのもありますが、プレリュードの後に聞くとまるで現世の苦しみから解放されたかのような、非現実的な歓びすら伝わってくるので、なんとまあ絶妙なチョイスですこと。

 

山縣美季のノクターンといえば37-2という方が多いと思いますが、そういう皆さんにこそぜひ聞いていただきたい完成度の高さを誇る27-2でした。どうしても、こういう美季さんには旧知の仲のような安心感を覚えてしまいますね(お前は旧知の仲ではないだろ)(それはそう)。

 

アンコール②バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻より第1番 ハ長調

ノクターンを弾き終えてから鳴りやまぬ拍手の中、笑顔で「もう1曲!」のジェスチャーをしながら登場した美季さん。かわいいね。ではなく。

弾き始めてあまりに予想外の選曲だったのでビックリしました。ほんまかいな。しかもフーガまで弾いてくれるなんて!

 

この平均律、グノーの「アヴェ・マリア」に使われているのもあって、ハ長調の持つ平明さや清澄さが全面的に活かされている曲なんですけど、まさかハイドンを聴き終わった後の「美季さんのハ長調をもっと聴きたい!」がこんなに早く叶うとは予想だにしなかったんですわ。

 

そして山縣美季さんという人は、プログラムの構成を凝りに凝って、アンコールも含めてひとつの大きな作品にしてしまう人なんですが、ここでバッハの平均律のハ長調を持ってくるのはよく出来すぎている。

1)バッハで始まってバッハで終わる

2)ハイドンでチラ見せしてくれたハ長調の魅力が再臨

3)バッハの中でも平均律は、ショパンに大きな影響を与え「24のプレリュード」の着想の元になった

というわけで、プログラム全体を閉じるエピローグとして、あまりに最適な選曲なんですわ。すごくない、この人?

 

これだから…これだから山縣美季さんのファンはやめられないんだッ…!

 

斯くして今回のリサイタルは、美季さんのこれまでになかった素直な表現と率直な感情を全面的に浴びられ、しかも従来の誠実でクリアな魅力は失われていない、という掛け値なしの「今までで一番よかった」演奏会だったと思います。

 

今年は既に4/13(土)の佐川文庫でのリサイタル(こちらは歌と自然とト長調を楽しめる回です)と、前述の7/31(水)のヴァイオリンソナタ回が確定しているので、大ご機嫌でございます。

 

そして今回、演奏会が終わった後に直接お話しできる機会があったのですが(本当にうれしい!ありがとうございます)、とても何というか…その…好きです。うん。

あとアンケートにも書き足して帰ったのですが、一刻も早くCDが発売されますように。こちらは一人のオタクとして、初CDに収録されてそうな曲の予想リストを練り直す作業に入ります。関係者各位、対戦よろしくお願いします。