山縣美季さんリサイタル(2022/8/26@新潟市りゅーとぴあ) | カラフルトレース

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明けない夜がないように、終わらぬ冬もないのです。春は、必ず来るのですから。

お昼に人生で初めてのどぐろを食べ、あまりの美味しさに回転寿司のカウンター席でひとり恍惚を味わうなど、かなり機嫌のよい状態で会場に向かっていた。

 

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「とろけるような旨さ」は嘘じゃないと我が身で体感

 

ここは新潟県新潟市。お察しの通り、山縣美季さんのリサイタルのために新幹線でやって来た。今回は東京だと勘違いしてチケットを買ったわけではなく、れっきとした理由があっての遠出である。

 

フランクの「プレリュード、コラールとフーガ」が演奏される

 

フランクの「プレリュード、コラールとフーガ」が演奏される!!!!!

 

これがどのくらい重大なことか先に説明しよう。

 

わたしが山縣美季さんを初めて知ったのは、2020年ピティナ特級二次予選の配信で、右肩から布が長く垂れた白いドレスを着て、まさにフランクの「プレリュード(以下略)」を弾いていた時であった。

 

 

フランクと言えばヴァイオリン・ソナタや室内楽のイメージが強く、ピアノソロの作品があることすら知らなかったので、まずその時点で興味を引かれた。だが、興味の本質は別のところにある。コンクールの予選という、どうやっても技巧を披露する作品が多くなる場で、あえて超絶技巧とは違う路線の、静謐な祈りのような曲を選ぶこの山縣美季という人に、抗いがたく惹かれてしまったのだ。

そこから美季さんに肩入れし、推しと呼ぶまであまり長い時間を要さなかったその後の展開は、皆様もご存じの通りの展開である。

つまり「プレリュード、コラールとフーガ」を弾く山縣美季は、わたしにとっての原体験なのだ。

 

聞きにいかない理由は、なかった。

 

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左からアジ、名前忘れた魚、多分ブリ。全部初挑戦のネタ

 

【前半】

シューベルト(リスト編)/12の歌S.558より「アヴェ・マリア」

リスト/詩的で宗教的な調べS.173より「眠りから覚めた御子への賛歌」「愛の賛歌」

フランク/プレリュード、コラールとフーガ

 

美季さんが舞台に出てきた時点で、わたしは叫びそうになっていた。

いつもリサイタルの度に「今日はどのドレスだろう」と楽しみにしているのだが。今日はよりによって、胸元に金の刺繍があしらわれ、右肩から布が垂れた、あの白いドレスだったのだ。

 

わたしが、美季さんを初めて認識した、あの時の。

 

「ヤバいですぞ~~このドレスでフランクをお弾きになるのはヤバいですぞ~~」と心の中のオタクが大暴れしていたが、おおはしゃぎしているのは明らかに本日の選曲の趣旨に添わないと判断したので、そっと深呼吸して何とか落ち着いた。

 

まずはピアノ・ソロ版の「アヴェ・マリア」で幕開け。

アヴェ・マリアといえば女声ソロの印象が強いが、リスト編曲ではいわゆる真ん中のドより低い音で最初のメロディーが奏でられる。原曲は同じメロディーが何度か繰り返されるが、リストの手を経て音の高さも、装飾も多彩に変化する、変奏曲の様相を呈する。

歌曲×変奏曲。まぎれもなく山縣美季の得意ジャンルと得意ジャンルの組み合わせだ。変奏曲となることで、賛美歌の穏やかなメロディーと歌詞に本来秘められているはずの、情念の揺らぎがかえって可視化されている

それを的確に拾うのがね、上手いんですよ、美季さんは。

低音で穏やかにメロディーを歌いあげる冒頭から、次第に音数が増えて盛り上がり、原曲にはない短調の翳りを挟み、教会装飾みたいな天上の煌めきを随所に浮かべつつ、最後は静かに祈りを締めくくる。

メロディーが馴染みやすく「歌と祈り」という、リサイタルを貫くメッセージが凝縮された曲

これが一曲目であったことで、山縣美季の世界にうまく導かれた。

 

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へぎそばと野菜の天ぷら。巨大マイタケが忘れられない。

 

その後、恒例の(わたしが楽しみにしているだけかもしれないが)美季さんトークタイム。

今回は初めての新潟でのリサイタルなので、観客の大半は初めて自分の演奏を聴くはず。だから「山縣美季」がどんなピアニストであるか、自己紹介になるようなプログラムを組んだ。選ばれた曲はいずれも、平和や愛、祈り、その内側の痛みがテーマとなっている。

 

シューベルトに続く曲は、リストの「詩的で宗教的な調べ」から2曲と、フランクの「プレリュード、コラールとフーガ」。

 

「詩的で宗教的な調べ」は、リスト作品の中ではあまり演奏されない方(そういう曲を選ぶところがわたしは好きだ)で、美季さんいわく「宗教的な一面が強く出ており、リストを好きになったきっかけ」とのこと(しかも今回の2曲、この曲集の中でもメジャーじゃないという)。

実際、この「詩的で宗教的な調べ」は、リストに対するイメージが変わる曲集と言えるだろう。リストの有名な作品は、いずれも「技巧を目的とした」曲が多い。一方、この曲集では、リストの中で伝えたいことが先にあり、あくまでも「技巧は手段である」という姿勢が打ち出されている。だから分かりやすく華美ではないものの、求められる技巧のレベルが低いわけではなく、ただ技巧が主役になることはないという、なんとも絶妙なバランスだ。

 

まず今回の演奏を聞いて感じたのは「リストも実は歌が好きだったのではないか」ということだ。実際の演奏にわたしは触れた覚えがないが、リストは生涯に70を超える歌曲を作っている。自身の歌曲以上に、リストとオペラの繋がりを示すのは、当時流行していた歌曲やオペラの旋律をピアノソロ用に編曲したショーピース、つまりピアノ・トランスクリプションと呼ばれる作品の数々だ(有名どころでは某亀井君が演奏していた「ベッリーニ『ノルマ』の回想」など)。

ただ、それらの曲は大スタァとして君臨するリストをヴィルトゥオーゾとして売り込む目的が強く、リストの歌への関心を反映するものであったとしても、歌としての音楽性が重視されていた訳ではない。

 

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白山公園、今度は全貌を知りたい場所

 

一方で「詩的で宗教的な調べ」の中には、リスト自身による合唱曲を編曲したものも含まれており、リストが最初から「歌であること」をゴールに作曲したような趣がある。リストが晩年に信仰へ傾倒したのは周知のとおりだが、驚くべきことにこの「詩的で宗教的な調べ」に関しては、バリバリのヴィルトゥオーゾだった20‐40代にかけて作曲されているのだ。

 

美季さんが共感するのも納得できる。この曲集に滲み出ているのは「華やかな超絶技巧の裏にずっと流れていた、静かな敬虔さ」なのだから。

 

山縣美季は殊に「歌うこと」に長けたピアニストである。それは何度も主張してきたように、幾多の音符の中から歌の旋律を浮かび上がらせるのが巧みだから、だけではない。歌うほかない内なる衝動を、寄り添うように奏でて昇華させられるから、だ。甘い言葉で慰撫するだけが共感ではない。作曲家が楽譜に織り込んだ、痛みを同じ目線の高さで追体験する。だから「眠りから覚めた御子への賛歌」のように素朴な祈りでは、変にベタベタと讃美歌性を強調せず、平和な日常を大事に包み込むような演奏になるし、逆に、華やかでロマンティックとされがちな「愛の賛歌」では、リストの二面性とも言うべき真っすぐな祈りが見落とされることはなく、予想以上に真摯な訴えが響いてきた。
 

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手水舎が可愛いことに

 

そして遂に、この時がやってきてしまった。

セザール・フランク作曲、「プレリュード、コラールとフーガ」

 

フランクのピアノ曲の中では数少ないピアノの大曲で、「前奏曲、アリアと終曲」と双璧を成す。20分弱続くロ短調の曲で、題名の通り3部構成を取ってはいるが、各主題は連関しているし最初から最後まで切れ目なく演奏されるので、感触としては「ひとまとまりの小説を一気に読んだ」に近い。

 

最近知ったのだが、美季さんはこの曲を高校時代の公開試験でも演奏していたらしく、自身にとって長い付き合いの、肌に馴染んだ曲なのだろう。美季さんのフランクは自然で、取り繕うところのない、等身大だからこそ劇的な祈りだった。

 

美季さんいわく「曲全体が祈りに満ち、内側から祈りがあふれ出る曲」と紹介されていたが、なるほどこれは自分の中に留めておけなかった祈りの衝動に、終始貫かれている。だが魂の叫び一辺倒ではなく、フランクらしい端正な構築による、非常に抑制のきいた美が体現されている。ああ、と腑に落ちるものがあった。

 

この曲、まさに美季さんのピアニズムそのものなんだ。

 

筆者の話になるが、この曲が好きすぎて、ヴィスコンティの「熊座の淡き星影」を視聴したことがある。理由はいたって簡単、映画全編で「プレリュード(以下略)」が使われているからだ。あまり詳しく話すとネタバレになってしまうが(それで困る人がどの位いるかは分からん)、作中で「プレリュード(以下略)」は主人公の消せない心の傷を引きずり出す鍵の役割を担っており、豪華なセットをモノクロで映した画面と魅力を相互補完できる、効果的な選曲だった。仮にカラー映画だったら、画面の方が強すぎて嚙み合っていなかっただろう。胸の奥に呼びかけ、過剰な装飾を削ぎ落した美しさによく似合う。そういう曲なのだ。

 

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夜の水面に映るりゅーとぴあ

 

「プレリュード(以下略)」を聴いて、何が呼び覚まされるか。「熊座の淡き星影」では過不足だらけの家族の歪みであったが、この問いに正解はない。美季さんの演奏もそうだ。祈りの方向性は、具体的には示されていない。一人ひとりの痛みを、個々が抱える「祈り」を、全て包み込んで許す

 

今回はりゅーとぴあのスタッフさん(美季さんについての記述が解釈一致すぎて握手したかった)が「卓越したペダリング」「繊細な弱音の美しさ」を美季さんの魅力として押し出していた。それが最もシンプルに現れていたのが、この「プレリュード(以下略)」であったように思われる。長く弾いた曲で本人もリラックスしていたのか、本来の持ち味がナチュラルに生きていた。ペダルの離し方が(月並みな表現で恐縮だが)とても丁寧なので、残響が精緻に作りこまれていることを実感できる。

 

最後の最後、フーガの終盤で駆け抜けるまで、ありったけの激情は揺らぎながらも隠しておいて。

ほとばしる和音の響きが消えるやいなや、待っていたかのように拍手が降り注いで「美季さんはこの会場に、歓迎されたんだ」とこちらまでじんわり温かくなってしまった。

 

本当に、本当に。これが聞けて良かった。オタク心の原点回帰。

わたしから引き出されたのは「美季さんに出会えてよかった」という感謝かもしれない。

 

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オタクの孤独な二次会(ビジホの机)

 

【後半】シューベルト/ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調「幻想」

第1楽章 モルト・モデラート・エ・カンタービレ
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 メヌエット(アレグロ・モデラート)-トリオ
第4楽章 アレグレット

 

後半は初めて拝見する衣装。全体的にはシンプルな紺色の軽やかな素材だが、首から胸元にかけての大胆なストーンワークが、孔雀の羽すら彷彿とさせる豪華さで麗しい。

 

シューベルトのピアノ・ソナタは、後半になるほど「長大」と評するに相応しい。最晩年のソナタ3部作と呼ばれるのは19-21番だが、この18番も40分あるのだから十分長い。

 

前回(2021年2月)同じくシューベルトの13番を演奏した際には、演奏前のトークでシューベルト作品の長大さに言及していたが、今回語られたのは全く別の話。

まず美季さんがこの会場でシューベルトを選んだ理由が予想外で、なんでも以前にサントリーホールで開かれた内田光子さんのリサイタルに触発されたらしい。広いホールでシューベルトのソナタを演奏する孤独な姿と、それに反してホールが音で満たされていく様子が印象的で「自分も(サントリーと同じ)ワインヤード型のホールでシューベルトのソナタを弾きたい!」という動機があったそうだ。

 

そしてシューベルトの作品についてもコメント。愛やその温かさを歌ったかと思えば、それを打ち消すような痛みが訪れ、現実とは不幸なものなのではないか?と感じさせる。手に入らない幸せを求めてもがくのではなく、一歩引いて諦観しつつ、それでも幸せを求めることはやめられない。こうしたシューベルトの心持ちを意識しながら演奏している、とのこと。

 

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帰りの弁当までおいしい!

 

わたしは美季さんの演奏を聴くまで、シューベルトの「幻想」ソナタにかなり限定的なイメージを持っていた。40分というのは、ピアノソナタにしてはかなり長い。長いけれど、その長さ自体に意味があるのであって、長いからといってドラマティックな幕切れを迎えはしない。その長さは平穏を希求するものであったり、詩情を吐露したりするためのものだから、どんなに「要約できそう」と思っても、勝手に短くしてはいけない。長大な抒情詩であることで成り立つ美、たとえるならタルコフスキーの長編映画みたいなものだと解釈していた。分かりやすい展開を求めては、いけないのだ、と。

 

確かに美季さんの幻想ソナタは、長く揺蕩う美しい詩だった。でもそれは、決して掴みどころのない白昼夢ではない。どうしようもない現実に裏打ちされることで、生身の人間の明確な感情が作り出す。現実を前提に想像力を飛翔させた先の「幻想」なのだ。だからこそ「幻想」ソナタという通称とは裏腹に、とても人間味のある響きに仕上がっていた。

 

第1楽章を聴き始めて真っ先に感じたのは「ここにシューベルトがいる」ということだ。存在の圧を放っているというわけではない。くつろいだ空間に、話し相手としてシューベルトが横にいる。ビーダーマイヤー、という概念を想起する。外側ではなく内側に目を向け、ささやかな生活の安定を大事にする、小市民的傾向。第1楽章の時点のシューベルトは、まだ激動にまでは踏み込んでおらず、率直な心情をぽつぽつと教えてくれているようだ。とはいえリズムの揺らぎが、僅かに不安定さを醸し出しているのも事実である。

 

第2楽章から次第に、仄暗い情念の影が差しこんでくる。心地良さだけに酔いたいところを、楽しくない感情も拾い上げて向き合う真摯さが、美季さんの演奏では光っていた。前楽章のビーダーマイヤー的な穏やかさがまだ存分に残る中で、次の第3楽章を予感させるような痛切な暗がりも共存し、ああこれが美季さんの言う「相反する心情を歌うシューベルト」の魅力的な対照なのだ、と実感した。

 

この魅力的な相反は第3楽章でも続く。これ「メヌエット」と題するのも非常に面白いところで、リズムは確かにメヌエットらしいのだが、和音の響きが完全に短調で、とうてい踊りを想定したとは思えない。最初の和音の連打が強烈で、終始深刻な調子かと予想させておいて、舞曲ならではの素朴な軽やかさが随所で空気をやわらげる。切実な告白と、軽やかなダンス。それらは相対するものであっても、美季さんの演奏において「矛盾」ではない。何故ならその逆説性こそが、シューベルトの描きたかった心理風景だと知っているから。

 

そして第4楽章は、大きな波が渦巻いていた水面が、次第に凪いで落ち着きを取り戻す。可憐なポルカのような躍動と、力強い情動が混ざりあい、第1楽章のシューベルトが横にいる空気感を思い出す。これは作曲家の大事な内緒話だったのかもしれない。だから、終わりそうでも終わらない。シューベルトがまだ、会話を楽しみたい限り。たとえ作曲家が内緒話のつもりで書いていたとしても、それが意図通りに聞こえるのは、弾く側が作曲家の話し相手として対峙していたからであり、この曲を弾いている間は、時空も何もかも飛び越えて、美季さんはシューベルトの良き語らいの相手として楽譜の中に入り込めるのだろう。

 

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船から見上げた万代橋

 

今回の美季さんは、ずっと肩の力が抜けた、自然体の演奏をしていたと思う。心を開いた演奏、と評するべきか。選曲が自身の「表現したいこと」に合致するものばかりだったから、というのは当然あるだろうけど、りゅーとぴあの観客の皆様の優しい温もりも、まぎれもなく理由の一つだろう。なんか嬉しくなっちゃったよ。

 

この時点で、既に十分すぎるほど満足していた。そしてアンコールについては、7月のシャネルでの演奏会を踏まえて勝手に「シューベルトの『魔王』だろうな」と予想していた。だが、これは予期せぬ形で覆された。

 

自己紹介的なプログラムを組んだが、山縣美季がどんなピアニストであるか知ってもらいたいと言いつつ、最も長く取り組んできたショパンが今回は含まれていない。だからアンコールにはショパンを選びたい(なるほどねわかるよ)。りゅーとぴあのスタッフさんが、自分にお声がけしてくださるきっかけになったのがこの曲の演奏だと教えてもらった(お?どれだろう)。今から弾くのは、ショパンの中でも自分にとって最も大切にしている曲(まさか…まさかとは思うが……)

 

「バラード4番です」
 

!?

 

オタクは受け取る情報量がキャパを超えると軽率に「待って」と口にすることで知られている。当然この時のわたしも、客席で誰にも聞こえないくらいの声量で「待って…」と漏らした。

 

だって。だってさあ。そんなの聞いてないよ。好きなんだもん、美季さんのバラ4。わたしがバラ4の魅力を知ったのも美季さんの演奏のおかげだもん。水の潤い、木の葉の重なる影、うねる波、すべてを揺らす風。自然の自然な美しさが簡素に染み渡る。2月のデビューリサイタルの「私の全部を委ねます」という決意表明の締め括りとはまた違う。水と草に囲まれ木の味わいも存分に活かした自然豊かなホールと溶け込むような、曲と人とホールがまろやかに調和するバラード第4番

 

これ以上の幸せは、今この場において存在しない。自信を持って、そう断言できた。

 

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500円で最大5種類楽しめる新潟駅の利き酒

 

帰りのバスの中ですら、リサイタルとバラ4の余韻に浸って、ぽやぽやと夜の万代橋を眺めていた。

これまでに聞きに行った中でも、美季さん自身も一番幸せな演奏だったのではないか

勝手にそんなことすら決めつけたくなるような、満ち足りた時間であった。

 

 

ちなみに新潟は、米も肉も魚も蕎麦も日本酒も美味しいという、非常に危険な土地である。

いつもの遠征ではサラダチキンとinゼリーくらいしか口にしないわたしが、これだけ(記事掲載の写真を参照)食を堪能したのだから、よっぽどだ。お土産もすごいことになった。

次は食に専念するために新潟を旅するのも楽しいかもしれない。