宇佐神宮13 和気清麻呂ってどんな人?(姉の広虫もご一緒に) | 絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

絵本に関わり、早や40年。
ママと子が一緒に楽しめる絵本を4冊、工作本も出版!
絵本作家しか知らない、絵本の創り方、絵の技法、親子で作るキッズアート大公開
描いて、読んで、親子で絵本を10倍楽しもう♪

宇佐神宮13 和気清麻呂ってどんな人?①(姉の広虫もご一緒に)

「和気清麻呂公絵巻」より見ていきます。

もともと和気氏は、第11代垂仁天皇の第5皇子、鐸石別命( ぬてしわけのみこと)より始まります。命のひ孫の弟彦王が、神功皇后の新羅遠征に従軍し、後の反乱軍を防ぎ鎮圧したことで、一族は備前。美作で繁栄します。

和気広虫姫は天平2年(730)に、弟和気清麻呂公は天平5年(733)に、備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれ育ちました。

この時代の地方豪族の子どもは、男子は男子は舎人として、女子は采女として、朝廷に出仕するのが習わしでした。

それで、姉の広虫は、采女となって奈良の都に上がり、孝謙天皇に仕えます。遅れて清麻呂も15歳で上京し、近衛府の武官として朝廷に仕えます。二人とも非常に優秀で女帝の信頼あつく、出世が非常に早かったと言われています。さらに、二人はとても仲の良い兄弟でした。
 
しかし、当時の奈良の平城京は、非常に不安定で荒れている時代でした。貴族の権力争いや、豪族たちの争い、また仏教勢力の政治介入も、ひどいものでした。
 

激しい政争のはてに戦乱が起き、飢饉もあって人々は飢えに苦しみました。戦乱と飢餓によって生活困窮者や、親を亡くした子供がたくさんできました。また、山野に子供を捨てる人もあったのです。

 

 広虫姫と夫の葛木戸主は、その様子をみて心を痛めました。広虫姫は親のない子供たちを、引き取って養育しました。子供たちが成人した時には、葛木の姓を名乗らせました。

そのうちに、広虫姫の夫である葛木戸主が亡くなりました。
出家した孝謙上皇に従って、広虫姫も尼となり法名を「法均」と名乗り、進守大夫尼位を授けられました。

藤原仲麻呂の乱の後、375人の連座者が出たとき、全員死罪にすべきという意見が強いなか、広虫は称徳天皇に減刑を願いました。
そして、死刑者は出なかったのです。

この乱で、たくさんの子どもが親を亡くし、広虫姫は、83人の子どもを養育し、孤児院を作ったのです。

そんな時代背景の中で、道鏡事件は起こりました。
その時、清麻呂公は37歳で、近衛将監で美濃大掾を務めていました。

朝廷に報告された宇佐八幡の神託は、
「道鏡を天皇の位につければ、天下は太平になる」
道鏡は喜びましたが、朝廷は混乱し、称徳天皇もさすがに神託を容易に信じられませんでした。


その時、天皇の夢に、八幡大神の使いが現れます。
「真の神託を伝えたいので、広虫姫を遣わすように」
天皇は八幡神に、広虫の代わりに弟の清麻呂を遣わしたいと答えました。

道鏡は、清麻呂に、「自分が天皇になれば、大臣の位を与える」と誘惑しましたが、清麻呂は姉と国家の大事を話し合い、その助言を深く受け止めました。

国家の命運を背負った宇佐までの道中は、重苦しく孤独でした。

清麻呂は潔斎して額づき、一心に祈りました。
最初に得た神託は「道教を皇位につけよ」でした。

しかし、清麻呂はさらに深く祈ります。
「これは国家の大事です。今の神託は信じがたいもの。願わくば、これが本当の神託であると、証を下さい。」
 

すると、身の長三丈(9メートル)ばかりで、色は満月の如く輝く神々しい八幡の大神が姿を表わしました。清麻呂公は仰天して、その場に伏してしまいました。
その時、厳かに真の神託が降ろされました。

 

「わが国家は開闢より以来君臣定まれり。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃い除くべし」

清麻呂はこの神託をその通りに報告しました。
群臣が見守る中、、「道鏡を掃い除くべし」と奏上したのです。

道鏡は烈火のごとく怒りました。

天皇も、皇位につけようとまで思っていませんでしたが、仏教を政治に取り込み慈愛の世にしようと願っていたので、頼りになる片腕の道鏡を放逐せよとの神託には怒りを覚えました。

清麻呂を「別部穢麻呂」と改名の上、大隈国(鹿児島)へ流刑にし、腹心と言っていいくらい信頼していた法均(広虫姫)も還俗させ、別部狭虫と改名の上、備後国(広島県)へ流罪としました。

流刑地に向かう途中にも、刺客に襲われたといいます。激しい豪雨と天皇の勅使に助けられたという説があります。

清麻呂は、お礼参りに宇佐八幡に参拝しようとしましたが、足がなえて歩けませんでした。それで輿に乗っていきましたが、八幡宮までの道を300頭の猪が守ってご案内し、参拝した日から足が立って歩けるようになったということです。そのため、清麻呂公の守り神はイノシシで、祀られている神社は狛犬でなく、狛猪だということです。



一方広虫のところには、育てていた孤児たちが干し柿と激励の手紙を届けてくれ、皆涙したと伝えらえています。

 770年、称徳天皇は53歳で崩御、光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷されました。

一方清麻呂公と広虫姫は、流罪を解かれて都へ還り、もとの位に戻り名誉は回復されました。


実は、和気清麻呂が活躍したのは、その後のことです。
さらに、清麻呂の子孫は最澄空海と関わりがあったのです。その話は次回に。