宇佐神宮14 和気清麻呂ってどんな人?② | 絵本作家 ふじもとのりこの「絵本がもっと楽しめる!絵本製作裏話」

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宇佐神宮14 和気清麻呂ってどんな人?②

 桓武天皇は即位されると、それまでの荒れた時代を立て直す施策をどんどん進めて行きました。

その時、桓武天皇が重用したのが、和気清麻呂兄弟だったのです。
下級貴族だった和気清麻呂でしたから、大抜擢だったのです。

 桓武天皇は、仏教偏重政治をやめ、律令政治を立て直すなど次々改革を始めます。が、旧勢力の強い奈良の地から、、新時代に相応しい都造りを決意されました。人心の一新をはかる目的もありました。

 清麻呂公は、予定どおりに進まない長岡京の造営中止と、葛野方面(京都市)への再遷都を提言しました。清麻呂公は多くの役職を兼任し、造営大夫として、新都造営を進めました。

 また、先進技術を駆使して、多くの治山治水事業を行っています。これにより、京阪神地区の収穫は安定し、発展の基礎を築きました。
 
 もともと和気氏は秦氏と関わりが深く、渡来系の多彩な技術や鉱物学に関する知識を持っている氏族でした。

 清麻呂の子どもたちは、それぞれに多彩な事業を発展させています。旧都奈良仏教から平安の新しい仏教の確立、私学を設立し、若い世代を教育する、貧民救済事業などです。また、医学の優れた医家として江戸末期まで、代々活躍することにもなります。

 特筆すべきは、平安の山岳仏教の基礎が築かれたことです。

京都高尾にある神護寺は、もと高雄山寺という名で、和気氏の氏寺です。清麻呂の墓所もここにあります。
(これがのちに「護王神社」となり、京都御所の蛤門のそばに守護神社として移転しています。)

最澄や空海の支援をしていたのが、実は、和気氏だったのです。

平安遷都に深く関わっていたのは和気清麻呂のほか、大黒麻呂という人がいました。この人の跡継ぎ「藤原葛野麻呂」に、清麻呂の娘が嫁いでいます。(写真は葛野麻呂)

この「藤原葛野麻呂」が、804年には「遣唐大使」として空海・最澄らと唐に渡っています。これで和気氏が最澄・空海とその後密接な関係が生じたのです。

唐から帰国した最澄を和気広世が高雄山寺に招き、灌頂式を行っています。和気氏が最澄の強力な支援者になったのです。

さらに最澄より遅れて帰国した空海も入京して高雄山寺に入っています。
空海はその後、乙国寺の別当をした後、もう一度高雄山寺に戻り、ここを拠点として真言密教の本格的活動を始めています。
824年に高雄山寺は神護寺と合併して「神護寺」になりますが、初代住職が空海です。

このように、和気氏が空海と最澄の天才的な才能を見出して、支援してきたのですね。

 しかも、この高雄山は渡来系の秦氏の勢力下にある土地です。秦氏が和気氏を通じて、平安京や最澄空海を支援協力していた可能性が高いと思われます。