宇佐神宮12 2度天皇になった、孝謙天皇ってどんな人?
孝謙天皇は、幼少期の名前を阿部内親王といいました。
超サラブレッドの血筋で、父親は文武天皇と藤原宮子の皇子である聖武天皇、母親は藤原不比等の娘光明皇后です。大仏建立した父母ですね。藤原一族の濃い血を引く姫でした。
このご夫婦は、後継ぎの男児に恵まれませんでした。光明皇后の男の子基王は1歳で亡くなりましたし、異なる母から生まれた安積親王は藤原の血統でなかったのですが他に王子がおらず、後継になるはずでしたが、17歳で死去しました。
そのために、安積親王が成長するまでの間、皇太子に立っていた阿部内親王が、聖武天皇から位を譲られて即位することになります。
即位した孝謙天皇を光明皇后が補佐する形でした。
光明皇后は、同じ藤原一族である藤原仲麻呂を重用して、仲麻呂は大きな権力を持ちます。
退位した聖武天皇は、道祖王という孫を皇太子に立てるように遺言しましたが、孝謙天皇はこれを廃位し、独自の路線を進めていきます。
当時でも、女性が天皇に立つことを許さない風潮は強く「橘奈良麻呂の乱」というクーデターが起きましたが、それによりかえって反逆分子が粛清されることになり、仲麻呂と女帝の基盤は強化されたのです。
ここで、孝謙天皇は、母光明皇后の看病にあたるという名目で、淳仁天皇に譲位し、太上天皇となります。
淳仁天皇は、仲麻呂の養子になっており、これは藤原仲麻呂が女帝を廃し、自分の傀儡天皇を立てた、ということです。
この後、光明皇后も崩御され、心のよりどころを失った上皇は、病に倒れます。
この時に、医者を兼ねた禅師として看病したのが、道鏡でした。
看病されて病気が治った上皇は、道鏡を寵愛し、政治的にも重用しようとしました。
突然、身分の低い僧侶を特別扱いする上皇に、仲麻呂や淳仁天皇が注意しますが、それに激怒した上皇は、出家する宣言をしたり、自分が政治するから、天皇は形だけの儀式をする人でいい、などと無茶なことを言うようになります。
この事で、権力基盤を脅かされた藤原仲麻呂がクーデターを起こしますが、事前に密告もあり、吉備真備(きびのまきび)を派遣して、徹底的に鎮圧しました。(写真は吉備真備)
淳仁天皇も廃帝になり、淡路島に流罪になりましたが、不審な死を向かえています。
そして、出家したままで、再び天皇になりました。
乱世に苦しんだ天皇は、道鏡とともに仏教を重視した政治を行おうとしていたのです。
その象徴が百万塔陀羅尼で、100万基の木製小塔に「陀羅尼経」を一つ一つ収納したもので、、仏教によって国を守る「鎮護国家」を示しました。
西大寺の造営や「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」の製作など「鎮護国家」思想を象徴する施策を行います。
また、女性の地位向上を目指し、実績のある有力な女性に位階,勲章などを与えたことでも知られます。
道鏡をめぐっては「宇佐八幡宮事件」など皇位継承を巡るトラブルも発生しますが、結局皇太子を定めないまま770年(神護景雲4年)に崩御されました。
道鏡はこの時、看護をすることができませんでした。天皇の死後、道鏡は失脚していきます。
次は、和気清麻呂をみていきます。
超サラブレッドの血筋で、父親は文武天皇と藤原宮子の皇子である聖武天皇、母親は藤原不比等の娘光明皇后です。大仏建立した父母ですね。藤原一族の濃い血を引く姫でした。
このご夫婦は、後継ぎの男児に恵まれませんでした。光明皇后の男の子基王は1歳で亡くなりましたし、異なる母から生まれた安積親王は藤原の血統でなかったのですが他に王子がおらず、後継になるはずでしたが、17歳で死去しました。
そのために、安積親王が成長するまでの間、皇太子に立っていた阿部内親王が、聖武天皇から位を譲られて即位することになります。
即位した孝謙天皇を光明皇后が補佐する形でした。
光明皇后は、同じ藤原一族である藤原仲麻呂を重用して、仲麻呂は大きな権力を持ちます。
退位した聖武天皇は、道祖王という孫を皇太子に立てるように遺言しましたが、孝謙天皇はこれを廃位し、独自の路線を進めていきます。
当時でも、女性が天皇に立つことを許さない風潮は強く「橘奈良麻呂の乱」というクーデターが起きましたが、それによりかえって反逆分子が粛清されることになり、仲麻呂と女帝の基盤は強化されたのです。
ここで、孝謙天皇は、母光明皇后の看病にあたるという名目で、淳仁天皇に譲位し、太上天皇となります。
淳仁天皇は、仲麻呂の養子になっており、これは藤原仲麻呂が女帝を廃し、自分の傀儡天皇を立てた、ということです。
この後、光明皇后も崩御され、心のよりどころを失った上皇は、病に倒れます。
この時に、医者を兼ねた禅師として看病したのが、道鏡でした。
看病されて病気が治った上皇は、道鏡を寵愛し、政治的にも重用しようとしました。
突然、身分の低い僧侶を特別扱いする上皇に、仲麻呂や淳仁天皇が注意しますが、それに激怒した上皇は、出家する宣言をしたり、自分が政治するから、天皇は形だけの儀式をする人でいい、などと無茶なことを言うようになります。
この事で、権力基盤を脅かされた藤原仲麻呂がクーデターを起こしますが、事前に密告もあり、吉備真備(きびのまきび)を派遣して、徹底的に鎮圧しました。(写真は吉備真備)
淳仁天皇も廃帝になり、淡路島に流罪になりましたが、不審な死を向かえています。
そして、出家したままで、再び天皇になりました。
乱世に苦しんだ天皇は、道鏡とともに仏教を重視した政治を行おうとしていたのです。
その象徴が百万塔陀羅尼で、100万基の木製小塔に「陀羅尼経」を一つ一つ収納したもので、、仏教によって国を守る「鎮護国家」を示しました。
西大寺の造営や「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」の製作など「鎮護国家」思想を象徴する施策を行います。
また、女性の地位向上を目指し、実績のある有力な女性に位階,勲章などを与えたことでも知られます。
道鏡をめぐっては「宇佐八幡宮事件」など皇位継承を巡るトラブルも発生しますが、結局皇太子を定めないまま770年(神護景雲4年)に崩御されました。
道鏡はこの時、看護をすることができませんでした。天皇の死後、道鏡は失脚していきます。
次は、和気清麻呂をみていきます。