ラッキースターボクシングクラブ               「明日もラッキースター」 -2ページ目

ラッキースターボクシングクラブ               「明日もラッキースター」

大阪のボクシングジム「ラッキースター」の日々是好日な毎日。メインサイトはこっちだよ。 http://luckystar.vivian.jp/

5月22日、大阪城・西の丸庭園で開催された

「子どもの習い事体験フェスタin大阪 2016」に参加、出展した。


出展の招待を頂き、承諾してから、どのような内容にするかを考えた。

ブースのスペースは4メートル四方(後に4メートル×8メートルに変更)

物販など金銭のやりとりがある商業行為は禁止、という条件があり、

ボクシングのブースなので、

当然ボクシングの体験ができる内容が必要である。


そして、多数のブースが並び、

来場された子供たちはあちこちのブースをまわって、

さまざまな習い事を体験してまわることになるため、

1人あたりの持ち時間はどうしても短くせざるをえない。

いつもジムでやっている体験入会と同じ内容はとてもできない。

ジムの体験入会をフルコースとするなら、

このイベントでの体験は「つまみ食い」程度にとどめなければならない。

いろいろ考えて、

最初に簡単にかまえかたを説明し、その後にミットを打たせることにした。

かまえかたに1ラウンド、ミットに2ラウンド、1人10分くらいでいいかと考えた。


当初はそのような計画をたてたが、

いや、やはりボクシングといえばサンドバッグだろう、と思うようになり、

ジムのスタンドバッグを持っていき、打たせることにした。

となると、それを運ぶための車が必要になる。

レンタカーで軽トラを借りようとしたら、料金が普通車の倍くらいかかる。

ライトバンも同じような料金だ。

ではしかたがないと、安く借りられる普通車で、

そこそこの荷物が運べそうな車種を探して予約した。


しかし、「やっぱりミットだけでよくないか」との思いも強く残り、

開催日の数日前までどうするかを迷っていた。

おおげさではないかとの思いもあり、

「ミットだけなら電車で行けるのに、スタンドバッグを運ぶのもたいへんなのに」

と最後まで迷ったが、結局はスタンドバッグを持っていくことにした。


そして、イベント当日の朝になった。


(つづく)



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2016年度の年間試合スケジュールが発表されてます。
ボクシング専門誌にも掲載されたし、
公の場で書いてもいいものと判断して書きます。

今年の全日本社会人選手権と全日本女子選手権は
愛媛県での開催です。
ただし、愛媛県といっても四国本土ではなく、大三島です。
瀬戸内海の島です。
距離的には広島のほうが近いのですが、愛媛県の島です。
今治市の管轄なのかな。
以前は越智郡大三島町だったと思うのですが、
市町村合併で越智郡は今治市に統合されたようですね。
私の出身の西条市は隣接する東予市と周桑郡を統合して
面積が広くなったようです。
どうでもいいですけどね。
けど、「西条市小松町」とか「西条市壬生川」と聞くと
違和感が強いですね。
まあどうでもいいですけどね。
その大三島ですが、40年くらい前かな、
小学生の頃一度行ったことがあったと思うのですが
ほとんど記憶も印象もないんですよ。
当時はまだ橋も架かってなくて、船で行ったはずです。
今は島と島を橋でつないで、広島と愛媛を陸続きにしている
しまなみ海道ってのがあります。
自転車で横断する方もいるそうなんですが、
何時間かかるんだろう。
瀬戸内海を横断するんですよ。
そしてその大三島ですが、大阪・兵庫から行くとなれば、
尾道まで新幹線、そこからバスで移動するルートになりますね。
愛媛県なのに愛媛本土に渡ることはないでしょうね。
愛媛出身の私としてはなんか複雑な気分です。
気になるのが、宿泊は島内になるのか、
収容できるだけの宿泊施設はあるのだろうか、
食事は大丈夫か、
宿舎から最寄りのコンビニまで徒歩15分かかるということはないか、
宿舎にLAN環境はあるか、といったところですね。
愛媛県連盟は今年11月に全日本選手権を開催しますし、
その翌月すぐにまた全国大会の開催で、
役員の皆さんのご苦労をお察しします。
たいへんだと存じますが、どうぞご自愛ください。

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全日本社会人選手権という大会があります。

年に1回開催される全国大会で、社会人のみが参加できます。

出場できる階級はライトフライからスーパーヘビーまでの全階級で、

ヘビー級とスーパーヘビー級で参加できる全国大会はこの大会だけです。


都道府県の予選や代表選考会で代表権を獲得すれば

地方予選なしでそのまま全国大会に出場できます。

ただ、この大会に参加しない県も多く、

インターハイのようにひとつの階級に何十人も出場することはありません。


うちのジムには全日本選手権や国体に挑戦し、

出場を果たした練習生もいますが、

まずは敷居の低い全日本社会人選手権への出場を目指すべきかと思います。

そこで勝ち上がって上位入賞にする力をつけたなら、

国体や全日本選手権の出場も視野に入れられるでしょぅ。


うちのジムからは、この全日本社会人選手権に毎年数名が出場してます。

一昨年は4名が出場して、1名が優勝、1名が第3位に入賞しました。

また、何年か連続で出場している練習生もいます。

まだ入賞はありません。

あともう一歩で入賞を逃しています。


その練習生にはなんとしてもこの全日本社会人選手権の、

全国大会のメダルを獲らせたく思っています。

その彼も努力型で、もともとの才能も、パワーも何もないところから

地道な練習を続けて力をつけてきました。

こういう方には、ぜひとも全国大会でひと花咲かせて、

一生の心の財産になるであろう

全国のメダルを手にさせてやりたいと思うのです。


私の悲願です。



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私と大学で同期だったもう1人の問題児は、大学3回生の年末に退部し、

大学を休学してハワイに渡り、現地でボクシングを続け、

その後大学を退学、ハワイの大学に入学し、

最終的には60戦ほどの戦績と、

全米ベスト30ランキングに名を連ねる実績を残して帰国しました。


私が大学を卒業した頃から長らく消息不明だったのですが、

15年ほど前に連絡をとることができ、その後また交流が続いています。

連絡がとれるまでは彼の情報を集めたり、探したり、けっこう動きました。

退学はしていますが、在籍時の情報を得られないかと大学で聞いてみたり、

興信所に相談したりもしました。

大学では情報は得られず、

興信所は費用が高すぎて手が出せず断念しました。

最後は「探偵!ナイトスクープ」に依頼を出すかと本気で考えてました。

何かネタに結びつけて採用される確率を高めて、などと考えてましたが、

実行する前に彼のハワイの知人から私に連絡があり、

それがきっかけで連絡をとることができました。


彼も私がジムを作った1年ほど後に、高知でジムを作り活動しています。

いい仲間が集まっており、彼とジムを支えているようです。

彼はもともとは自営で海外交易の仕事をしており、

その仕事もジム運営と併行して続けてます。


私もまた似たようなもので、広告制作事務所とジムを併行して運営してます。

31歳まで会社員をやってたのですが、

独立して自営で広告代理店を始めました。

自分であちこち営業にまわり、仕事をもらって自分で原稿を書いて、

ずっと1人で動いてました。

ジムを作った後は、営業の業務が主になる代理店を続けるのは厳しいと感じ、

内勤が主となる広告制作事務所に業態変更して、

以降はコピーライターとして制作専門の仕事をしてます。

ここ数年はそれに加えてライターとしての仕事もやってるのですが、

このところ広告の仕事よりもそっちの仕事の割合が高くなってきました。


大学の同期で、ライバル視していた同じ階級だった男は、

6年前に他界しました。

45歳、若すぎる逝去でした。


彼は大学卒業後、少年刑務所の教官となり、

最期までその職務を続けておりました。

大学卒業後はボクシングから離れており、戦績は不戦勝を除いて6戦6敗、

早くから大きな期待を受けながら、勝つ喜びを知らないまま引退しました。


卒業後も時々連絡をとり、親交は続いていましたが、

「〇〇(もう1人の問題児)と3人で飲みに行こう」との約束は

果たせないままになってしまいました。


闘病中の見舞いにも、葬儀にも行けずじまいです。

せめて、一度機会を作り、墓参りにと思ってます。



私は、全日本選手権の出場を決めながら、

経済的な事情でその年の出場を断念し、

「また来年」と繰り返しながらも、

2度目の出場チャンスを手にすることなく引退しました。


ライバル視していた男と、もう1人の問題児と3人で飲みに行く約束も、

そのうち3人の都合が合えば、と軽く考えているうちに

その男とはもう2度と会えないことになってしまいました。


詰めの甘いことばかりやってるなと感じます。

ボクシングに関してだけではないです。


私の話はいいとして、

うちのジムの練習生の皆さん、

これから試合に出ようと思っておられる方は、

「いつか出られる力がついたら出よう」なんて思わないことです。

「今年の秋に出る」とか「何月の試合に出る」とか、

決め打ちをしてからそれに向けて練習すべきです。


そして、大きなチャンスを得たなら、

なりふりかまわずつかみに動いてください。


もうひとつ、「自分には才能がない」なんて思わないでください。

才能がないなら、努力してそれを埋めればいいです。

やみくもに動くばかりではなく、

自分に何ができるか、自分の特性は何かを考えて、

そこを伸ばすべく集中して練習するんです。

一流を目指すには道が遠いと思うなら、

二流の上を目指しましょう。

二流の上は一流の下を凌駕します。

そこまで届いたなら、そこからまた上を目指せばいいです。


すべての方に可能性があるはずです。

自分の可能性を信じるとともに、自分の特性を探して、伸ばして、

ひとつでも多くの勝利を、そしてひとつでも多くの栄光を手にしてください。

力をふりしぼって手にしたそれらは、一生の財産になります。


長々とだらだらと続けたこのシリーズも今回で終わります。

くだらない、つまらない話におつきあいを頂いた皆さまには感謝感謝です。


(終わり)



※あ、ブログ更新はまだ続けます。


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27歳で選手を引退した後、大学の監督を続けるとともに

アマチュア連盟に役員登録をして審判員資格を取り、その活動を始めました。

その後、ジムを作ったのは39歳の時です。


ジムを作った当初の目的は、大学の部員たちに、

設備も指導体制も整ったより良い練習環境を提供することでした。

しかし、大学の内部でいろいろとつまらない妨害が起こり、

ばかばかしくなってその目的にこだわることをやめました。

詳細は書きませんが、より多くの試合に出て、より上のレベル、

より上のステージをを目指すことを理念としていた私の方針を、

私が見ていないところで崩し続けていたものがいたということです。


その理念は私が掲げたというより、体育会本来の意義や目的だと思います。

それを追求する私のその裏で、

「全国なんか目指さなくていい」

「よその県まで行って試合することなんかない」と

妨害をするものがおり、トラブルとなりました。


その後、最終的には私は大学の監督を完全にやめることにしました。

ボクシング部は今や体育会のクラブとはいえない

ただのフィットネスサークルとなっているようです。

強くなって、多くの試合に出て、いつかは全国大会にと、

志を持って入部してきた者にとっては屁のような環境ですね。


大阪芸大ボクシング部の現役部員、そしてOBの皆さん、

私は監督をやめましたが、OBであることには変わりありません。

現役部員及び部のOBは、うちのジムを費用無料で利用できます。

面識がなくてもかまわないので、遠慮なくお越しください。



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このシリーズでかなり以前に書いた「TV」の記事内容と少し重複します。

30数年前に「青が散る」というテレビドラマが放映されました。

宮本輝さんの小説がドラマ化されたものです。

ストーリーは、新設された大学にできたテニス部が舞台となっているのですが、

登場人物の1人に貝谷という男子部員がいます。

テニスはおせじにもうまいとは言えないのですが、

試合ではなかなか負けないのです。

クセのある変則のフォームで打つボールは、変なバウンドをするため

相手を手こずらせます。

貝谷いわく

「才能のない者が限られた時間で努力しても一流にはなれない」

「ならば一流に続く王道は捨てて、二流を超えることができない邪道を目指す」

「二流の上は一流の下を凌駕する」

それらのセリフにしびれました。

私もそれしかないと考えました。


最初に書いたように、私は運動センスがまったくなく、

ボクシングを始めた時点ではゼロからのスタートではなく、

マイナスからのスタートでした。

どうしようもなく下手で、早いうちから戦力外と判断され、

練習中はほとんど指導などしてもらえず、

新入生の合同指導でワンツーまで教わった後は、

誰にも何も教えてもらうことなく、見よう見まねで動きを覚えました。

下手でセンスがないとはわかってましたが、

強くなりたい、試合に出て勝ちたいとの思いは強くありました。

ではどうすればいいかと悩んでいたところで、

スパーリング中に苦しまぎれにやった

「腕をいっぱいに伸ばして相手の動きを妨害する」が

見ていた2つ上の先輩に「今のよかったぞ、使え」とほめられ、

これでいこう、と決めました。


セオリーどおりの王道のボクシングを目指しても、行き着く先は知れてます。

大学入学後からのスタート、運動センスのなさ、指導者の不在、指導との無縁、

それらを考えるとたぶん4年間練習を続けても

1度も勝つことなどできずに終わるだろうと考えてました。


それなら王道を目指すことを捨てて、邪道を進もう、

一流になれなくてもいいから、二流の上を目指そうと思いました。

「きれいなボクシング」でも、「力強いボクシング」でもない、

「変なボクシング」を目指すことにしました。


結果、19歳から25歳の間に不戦勝を除いて10戦に出場して7勝3敗、

全日本選手権代表選考会優勝の戦績と実績が残りました。


王道のボクシングを目指していたら、

たぶん1度も勝つことなく終わっていたと思います。


( つ づ く )








今から23年か24年前になりますが、

アマチュアボクシングの競技ルールにひとつの項目が追加されました。

反則行為の追加で、

「腕を伸ばして相手の顔前に向け、視界を妨げる行為を禁ずる」

といったものだったかと思います。

わかりやすく言えば、

「相手に向けて腕を伸ばしっぱなしにしてはいかんよ」ですね。


奈落の底に突き落とされた気分でしたよ。

ほとんどの選手にはそのルールの追加はなんでもないことでしょうけど、

私にとっては自分のボクシングスタイルが全否定されたことになりました。


私のスタイルは、

1.相手に向けて左腕をめいっぱい伸ばし、前進を妨害して、接近させない

2.伸ばしたグラブを相手の顔の前で振ったり回したりして視界をさえぎる

3.伸ばした腕を小刻みに動かし相手をてつつきまわす

4.左腕を伸ばした状態のまま、右ストレートや右フックを打つ

5.その伸ばした腕をかいくぐって接近されれば、

  すかさず自分も前に出て距離をつぶしてクリンチで逃げる

6.あるいは接近の気配がみえたところですぐに離れる


など、ほんとうに姑息でせせこましくろくでもない戦法ばかりやってました。

そのスタイルを自分のスタイルとして確立させ、

「自分の進む道はこれしかない」と、

その姑息スタイルをより強化することばかり考えてました。

フェザー級(後にライト級に上げた)まで減量していたのも、

そのスタイルを使うためです。

自分より身長の低い相手でないと通用しないためですね。


しかし、そのルール改定ですべてを失うことになり、引退を決意しました。

そうなると、慢心しきって相手をなめた挙句にばかな負けかたをした

神戸大会が最後の試合となってしまうのかとのとまどいもあったのですが、

姑息な道を歩み続けた自分にはそれもふさわしいと変な納得をして

以降の試合出場を断念、選手を引退することにしました。


( つ づ く )


神戸市民大会は、私にとって不戦勝を除いて10戦目の試合でした。

負けは3回目、3敗目となります。

それまでの敗戦後と、この時とは何か感覚が違うと感じてました。

それ以前の敗戦後は、悔しさにさいなまれてのたうちまわるような

とてつもないつらい感情に悩まされていたのですが、

その時はあっさりとした気持ちで負けたことを受け入れる自分がいました。

過去2回の敗戦は、練習に練習を重ねて、

厳しい減量を課したうえで臨んだ試合であり、

それだけに負けた悔しさもすさまじいものがありました。

しかし、この時は練習らしい練習もできておらず、

自分はもっと上のレベルで戦う人間だとつまらない勘違いと思い上がりを持ち、

減量もほとんどせず、これでは勝てるはずなどありません。

負けて当然、自分のばかさ加減を思い知らされ、

悔しさを感じることはありませんでした。


その年の7月に予定していた全日本選手権の予選出場は

とりやめにしました。

その神戸大会で心を入れ替えて練習に励み、とも思ったのですが、

この状態から2か月ばかり練習したくらいでは無理だとの思いもありました。


その後はそのジムで週1回の練習を続けるとともに、

深夜にロードワークをしたり、公園で自主練習をするなどして、

できるだけ体をなまらせないようにしてました。


その頃、大学の監督を引き受けることになりました。

その当時に監督をしていた後輩より

「もう監督をやめたいので、後を引き受けてくれないか」と声がかかり、

育ててもらった大学への恩返しと、

大学ボクシング部に対して思うところがあったため、

自分の手で改革をしてやろうと考え、引き受けることにしました。

当初は数年だけ監督をやって、

道筋をつけたらまた別のOBに任せようと思ってたのですが、

その後およそ20年くらい監督を続けることになりました。

ただ、後半の10年ほどは名前だけを残し、

「もう好きなようにしてくれ、必要な時だけ声かけてくれ」と

大学の指導からは手を引いた状態となりました。


監督を受けてから、できるだけ大学に顔を出すようにしました。

といっても多い時で週に1回のペースでしたが。

部員とスパーリングをしたり、少し早い時間に大学に行き、

部の練習が始まる前にサンドバッグを打ったり、

こまごまと自分の練習もしてました。


ピーク時に比べると体力も、動きのスピードも、瞬発力も、

すべてが落ちてきていることがわかります。

ほんの数年でこれほどまでに劣化するものかと信じられない気持ちでした。

年齢を重ねていることもありますが、

練習量が格段に少なくなっていることもその原因かと思います。


それでも、一度でいいから全日本選手権のリングに立ちたい、

そこにたどりつき、手中にしながら、

金銭的事情で泣く泣くあきらめたその出場を果たしたいと

それだけをモチベーションにして可能なかぎりの練習をつつけていましたが、

あることがきっかけでそれをあきらめることになり、

引退を決意することにしました。


( つ づ く )



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神戸市民大会では敗戦を喫しました。

1ラウンド、棄権負けです。

ゴングが鳴った後、ゆっくりとリング中央に向かい、

ハイペースで接近してくる相手選手の顔面に向けて左腕を長く伸ばしきり、

接近を阻んだところでそのまま右ストレートを重ねるように打ち、

さらにもうひとつ左フックをかぶせるように打ちます。

得意としていたパターンがうまく当たり、

また距離をとって左腕を伸ばして相手の突進を阻みます。

相手は明らかにとまどっており、これはいけるなと実感しました。


気がかりなのは体力面で、3ラウンド戦い抜けるかどうか心配でした。

たぶん第3ラウンドはへろへろになっているだろうし、

できるだけ1、2ラウンドでポイントをかせいでおこうと

試合前から考えてました。


それまでの私の戦績は不戦勝を除いて7勝2敗。

7勝はすべてポイント勝ちです。

第1ラウンドは劣勢、第2、3ラウンドでペースをつかんで

トータルのポイントで上回るパターンばかりでした。

しかしそれは練習量の多さで得たスタミナがあったからこそのことで

そこに不安がある今回は早いうちからペースをとって

優勢に試合を進めたいとの思いがありました。


その日もいつものパターン、

左腕をいっぱいに伸ばして相手の進攻を妨げ、

すきをみて軽く速いパンチを当てる実にせせこましい戦法が

うまくはまっておりました。

相手が腹を狙ってきた時はバックステップですかさず距離をとり、

接近戦を阻みます。

ガードを高く上げて体ごと突進してくれば、

横にまわっていなすか、体を沈めてガードがあいている相手の腹に

右ストレートを打ちこむかで対応します。

その日もほとんど被弾することなく時間が過ぎていき、

頭の中で「これはいけるわ、楽勝や」との思いがよぎり始めます。


しかし、そこに落とし穴があり、

相手の腹に右ストレートを打ちこんで体を起こす際、

相手の打ったフックが、ガードが甘くなっていた私の顔面、鼻を直撃し、

しりもちをつくダウンを喫してしまいました。

鼻血がしたたり落ち、また鼻か、と思ったことを覚えています。

すぐに立ち上がったのですが、出血の多さを見たセコンドがタオルを投入し、

棄権負けとなりました。

試合後に「なんでタオル投げたんですか」と文句を言いましたが、

「鼻血がひどいのでやばいと思った」と返されました。


鼻の痛みが激しいため、念のため病院で診てもらったところ、

折れてはいないので大丈夫だか、しばらくは腫れと痛みがあるよと

鎮痛剤を出されました。

数日後には痛みも落ちつき、腫れもひき、

鏡をよく見ると、5年前に折られた際に少し曲がりぎみになっていた鼻筋が

もとに近い状態に戻っておりました。

5年前に右フックで折られて曲がったままだった鼻が、

左フックでもとに戻された形になったわけです。


( つ づ く )



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全日本選手権の出場を辞退した後、しばらくボクシングから離れました。

新しい職場に入社したことで、仕事に集中したこともありますが、

なんとなくジムに行かなくなり、練習をしないまま月日が流れました。


1年ほど後に久しぶりにジムに行ったところ、

なまった体は全然動かず、動けばすぐに息がきれ、

それでも1か月ほど練習したのですが

こんな状態ではとても全国どころではないと

2か月後に予定されている全日本選手権の予選出場をあきらめました。

ジムには時々顔を出す程度で、つめつめの練習をすることもなく、

だらだらと時間ばかりが過ぎていきました。


それからまた1年後、25歳になった年、

今年こそは出場をと心を決めて、正月が明けた頃から

クレイジムとは別の神戸のジムに通い始めました。

ただ、仕事が終わるのは夜10時や11時で、

平日に練習に行くことができなかったため、

土曜日の夜にのみ練習に行くようにしました。

それ以外の日は夜中にロードワークをするなどして体力を戻し、

7月の全日本選手権予選に照準を合わせてました。


春になり、試合出場を勧められるようになりました。

4月の西宮大会には出られませんでしたが、

5月の神戸市民大会には出場することにいたしました。

当時は5月に神戸市民大会、11月に神戸新人大会、と

神戸市アマチュアボクシング協会の主催大会は2つありました。

現在は1つに統合され、

11月か12月頃に神戸市民大会が開催されています。


神戸大会の出場を決めたりは、

7月の試合に向けて試合勘を戻しておくのもいいなと考えてのことです。

ただ、私の心の中に慢心があり、その大会をなめきっていました。

「市民大会だし、それほど強い選手も出てこないだろう」

「自分は全国大会に出るようなレベルだし、楽勝だろう」などと

今思えば顔から火が出るような恥ずかしい思い上がりをしてました。

練習は週1回のペース、スパーリングも月に数回程度、

さらには減量がめんどくさいと、試合前日の1日だけ食事を抜くことで

当時のライトウェルター級のリミット63.5キロに合わせて、

初めてその未知の階級で試合に出場いたしました。


本当に今思えばなめきったばかなことをしたなと思います。

自分自身の基本を見失ってしまってました。

ろくなものではないです。



( つ づ く )


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