ラッキースターボクシングクラブ               「明日もラッキースター」 -3ページ目

ラッキースターボクシングクラブ               「明日もラッキースター」

大阪のボクシングジム「ラッキースター」の日々是好日な毎日。メインサイトはこっちだよ。 http://luckystar.vivian.jp/

全国大会に出場する場合、その旅費はすべて選手の自己負担となります。

ただし、国体は所属する都道府県が旅費を出してくれますが、

全日本選手権、全日本社会人選手権、全日本女子選手権は

すべて選手の自己負担です。

交通費も宿泊費もすべてです。


ただ、選手が属する団体によっては、

○強豪と称される大学は、大学が旅費を出してくれる。

○大学のボクシング部OB会が寄付を集めてくれる。

○実業団チームを持つ企業の場合、企業が旅費を出してくれる。

○勤務先の会社が宣伝効果があると考えて旅費を出してくれる。

など、バックアップがなされることもあるのですが、

私の場合、

×大学はスポーツにまったく力を入れていない。

×それ以前に既に卒業しているため大学に籍がない。

×OB会は組織されていない。

×会社は退職してしまった。

と何もありませんでした。


全国大会が終わるまでは就職もできないと考えて、

アルバイトでつないでいたのですが、

その給料は当座の家賃その他の生活費をまかなうだけでせいいっぱい、

とても岩手までの旅費を捻出できる余裕はありません。

いろいろと手を考え、消費者金融で借りようかとも考えたのですが、

「サラ金はこわい」とのイメージがあり、どうしても抵抗があり、

銀行等のカードローン等もその当時は全然なく、

クレジットカードも持っておらず、

開催日程がせまったぎりぎりになっても旅費を作れず、

「また来年あらためて挑めばいいんだ」と自分に言い聞かせて

その年の全日本選手権出場をあきらめました。


その時は、その判断は正しいものと思っていました。

その後、あきらめたことを一生涯悔やみ続けることになるとは

その時は夢にも思ってはいませんでした。


( つ づ く )


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4月、全日本選手権の愛媛県代表選考会に出場、

ライト級で優勝いたしました。

ライト級での試合は初めてだったのですが、

特に違和感もなく、フェザー級と同じ感覚で動くことができました。


メンタルの病気も回復に向かっているようで、

夜中に誰かが部屋の中でぼそぼそと話している、誰だ、誰がいるんだ、と

耳をすませて確かめると、

それは自分自身が無意識にぶつぶつつぶやいている声だと気づくとか、

普通に前を向いて歩いていたはずなのに、

気づくと電柱がすぐ目の前にあったとか、

下っているエスカレーターに乗ろうとしてなかなか乗れず、

あれ、おかしいなと思いつつそれでも乗ろうとしていると

目の前に下ってきた方が近づいてきたことで初めて気づいたとか

そんなこわれた状態から少しずつ復調してきました。


休職していた会社にも戻りました。

しかし、会社にはもう私の居場所はなくなっており、

それでもまたあらためて一からやり直せばいいやと開き直ったのですが、

ちょっとした事件が起こり、また精神の変調が起こり、退職しました。

4月の下旬だったと思います。


退職したことで収入がなくなりました。

もともと貯金などないうえ、

年明けからの長期休職で給料は通常の半分ほどしか出ておらず、

さらに4月の愛媛往復でなけなしの金を使い果たしてました。


その年の全日本選手権は前回か前々回に書いたとおり、5月の開催です。

例年は11月開催ですが、その年は5月開催でした。

本大会の開催地は岩手県釜石市、大阪からの往復旅費はおよそ5万円です。

愛媛県連盟に相談したところ、

「宿泊費はなんとかしてやるが、旅費は自己負担だ」との返事で、

どうすべきか困り果てました。


( つ づ く )


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全日本社会人選手権 ライト級決勝。
当日の朝、検診と計量が終わった後、本人と話した際、
「今日は負けてもかまわない」との言葉を
「あかん、勝ちにいけ」と否定して、
「ポイント勝ちは無理」
(相手はベテランで試合巧者なので、
 接戦になっても効率よくポイントをとる術を持っている)
「倒して勝つしかないが、いつもと同じ動きでは勝てない」
「いつものアウトボクシングでは勝てない、接近戦に徹しよう」
「強く踏み込んで一瞬で距離をつめ、同時に左を当てること」
と話しました。
結果は接戦の末のポイント負けとなりました。
スコアはジャッジ3名とも30-27のフルマークで、
第3ラウンドに減点(頭を前に出す)をとられました。
結果は負けですが、キャリアで天と地ほどの差がある相手に
腰を引く
ことなく力を尽くして立ち向かい、
最後まで勝つことに執着したその試合は、
彼を大きく成長させたものと思います。
この試合、彼にとっていくつかの追い風がありました。
決勝戦は祝日に行なわれたため、
彼の「弟分」にあたる西宮香風高校の部員たちも応援にかけつけ、
相手側の近畿大学の
部員をはじめとする
地元の声援に負けないくらいの声援を受けたこと、
セコンドには競技役員として毎日試合会場に入っていた
西宮香風高校の先生がついてくださったこと、
(彼は「西宮ボクシング協会」で練習をしており、
 その先生方に指導を受けている)
が彼の精神的な支えとなったようです
また、その先生も接近戦を指示されていたようで、
戦い方の指示が統一され、
自分が何をすべきかが明確になり、
集中力を増すことができたものと思います。
今年は大阪での開催、関西連盟の主催であったため、
それが可能となりました。
試合は、先日も書いたように、
見ている方々
を深く感動させる力を持つ試合になりました。
後日彼から連絡をもらった際に聞いたのですが、
観戦していた面識のない方々から
「感動したよ」「いい試合だった、ありがとう」などと
声をかけられたそうです。
今年のこの
大会はずいぶんと長かったように感じます。
1回戦の試合からまだ1週間しかたっていないのに、
数か月前のことのように感じられます。
試合の4日間は出場
選手のセコンドとしてリングの下から、
彼の試合の際はタイムキーパー&応援として試合エリア外から声を出し続け、
3日目以降はがらがらのにごった声になってました。
今もまだにごりが残っており、
ずっと前の気はしても、つい数日前のことだったんだなと思います。
来年のこの大会はどこで開催されるのかまだわかりません。
兵庫県代表選考会に出場する顔ぶれも
どのようなチーム構成になるのかも
まったく予想がで
きません。
ただ、昨年も今年もそのチームはエリートのいない
野武士集団のような様相がありました。
来年もそうなればおもしろいなと、
そして、私も来年もまたそのチームの監督として
全国大会をともに戦いたく思います。



※ジムのフェイスページには、試合の映像のリンクをはってあります。
https://www.facebook.com/luckystarboxingclub/


クレイジムでは自由に練習させてもらってました。

自由に動いて、時々スパーリングやマスボクシングを組んでもらって、と

いった練習でした。

ミット打ちは数えるくらいしかしたことがないです。

大学ではミット打ちをしたことがなく、

卒業後に練習したジムでも数えるくらいしかミットを打ったことがなく、

たぶんこれまでで私がミットを打ったのは10回にみたないと思います。


当時のクレイジムは会長自らが建てた丸太小屋のジムで、

今と同じ場所にありました。

リングは建物の中と外と2か所にありました。

ほぼ毎日練習に行き、休職中の毎日の生活の中で、

ジムに行くことだけが支えになっていました。


練習を再開して数か月、たしか3月だったと思うのですが、

愛媛県連盟より全日本選手権代表選考会の案内が送られてきました。

「えっ、もう? まだ3月だよ」と内容を見ると、

4月に代表選考会、5月に本大会が開催されることとなってました。

例年であれば7月に選考会、11月に本大会が開催されるはずです。

なんで今年はまた? と開催要項をよく読むうちに

ああ、なるほど、そういうことかと納得しました。

その年、1988年はスポーツ界にとっていわゆる「特別な年」で、

そのために全日本選手権の開催時期が繰り上げられたようです。


練習してるし、せっかくお誘いを頂いたのだし出てみるかと

出場の申込をいたしました。


体重は学生の頃とさほど変わってはいないのですが、

体重がなかなか落ちなくなっていたので、

学生の頃ずっと出場していたフェザー級をあきらめて、

ひとつ上のライト級で申込をしました。


( つづく )



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大学を卒業後、広告代理店に就職しました。

仕事は営業職です。

もともとの希望は製作職だったのですが、

その会社は当時新卒採用は営業職のみの募集をしており、

しかたなく営業職で就職しました。

大学4回生の8月に採用内定を頂き、

9月からは半ば強制的にアルバイト待遇で出社させられ、仕事を習いました。

仕事は激務で、朝8時に出社、夜は早い日で9時、

遅い日は終電まで会社にいました。

「ブラック企業か」と思われるかもしれませんが、

広告関連の会社ってのはそれが常識ですよ。


そんな毎日でしたが仕事はおもしろく、夢中になってとりくんでいました。

ボクシングに未練はありましたが、「時間がないから」とあきらめてました。


仕事は小さな波はありましたが、水準以上の成績を上げ続け、

最初のうちは広告を出す会社を探して契約をとる

完全な営業の仕事をしてたのですが、

慣れてくるにつれて独自に原稿企画の勉強をして、

「このような原稿を作れば高い効果が見込めますよ」と

その場でいきなり具体的な広告企画の提案をするスタイルに変えてからは

成績がいっきに伸び、ますます仕事がおもしろくなり、

目がさめてから眠るまで仕事のことばかりを考えるようになってました。


思えばそれが悪かったのですが、

あることがきっかけで精神に変調をきたし、しばらく休職することとなりました。

23歳になったばかりの頃です。

通院中、医師より

「あなたの病気は仕事と会社が原因だから、会社から離れるのはもちろん

仕事や会社を忘れて夢中になれることをしなさい」との指示され、

「ではボクシングをやります」と即答しました。


クレイジムに入会したのはその頃です。

私は当時東三国に住んでおりまして、

その1年ほど前に新大阪にできたクレイジムはちょうど近くであったため

通いやすいと思い、入会を決めました。



( つづく )


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その年の近畿学生新人戦と個人トーナメント戦が終了し、

その年度の試合予定はすべて終わりました。

といっても、うちの大学の試合機会は春の大学リーグ戦と

その秋の近畿学生新人戦&個人トーナメント戦のみです。


うちの大学の選手でその秋の大会で入賞したのは

新人戦バンタム級での準優勝が1名、

あとは全員が1回戦か2回戦で敗退しました。


問題児2号はその大会を最後にボクシング部を退部、

ハワイに渡り、地元のジムで練習を始めました。

私は翌年のリーグ戦に向けて、ロードワークと部室でのサンドバッグ打ちとの

自主トレーニングを始めました。


その「近畿学生新人戦&個人戦」はその年をもって終了し、

翌年からは大阪府下の大学が参加する

「大阪学生選手権」が開催されることになりました。

その最後の大会では、個人戦は1階級を除いて近畿大の選手が優勝、

新人戦の優勝者の所属大学はさまざまでしたが、

その新人戦では何人か目立った選手がいました。

1回戦や2回戦の段階で目をみはる強さを見せつけ、

「この選手は勝ちあがるだろうな」と思った選手がやはり順当に勝ち、

優勝を決めていきました。

その中に自分と同じフェザー級以外で印象深く覚えている選手がおり、

スピーディな動きとシャープな切れ味のパンチを武器に

圧倒的な強さで勝ち進むその選手について

「この選手が優勝して最優秀新人賞だろうな」と思ってました。

しかし、優勝はされたものの、最優秀は別の選手でした。

そのスピーディでシャープなフライ級の選手が、

今うちのジムでトレーナーをしてくださっている金光さんです。

当時は龍谷大学の1回生で、同じ龍谷大のひとつ上に

前年度の新人戦ライト級で優勝、

最優秀新人賞を獲得した芳澤さんがいらっしゃいます。

今そのお二人がうちのジムでトレーナーをしてくださっているのですが

うちなんぞにもったいない、ありがたき幸せだと思ってます。


問題児2号は翌年の春に一度帰国しましたが、

またすぐハワイに戻っていきました。

その後、現地の大学に入学して試合出場を続け、

数々のタイトルを手にして最終的には全米ベスト30に名を連ねて

大学を卒業した後に帰国しました。


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試合が終わった後、緊張感がなくなったと同時に、

鼻の痛みがぶり返してきました。

試合中はアドレナリンが出まくっていたのでしょう、

痛みを感じることはなかったのですが、

終わって気が抜けると同時に激しい痛みに襲われました。


鼻だけではなく、頭がやたらに痛く、

鼻の痛みが頭にまで及んでいるのだろうと思い、

その場はどうにかがまんして、

帰ってから病院でもらった痛み止めをのみ、そのまま寝ました。

また、負けた悔しさで頭がいっぱいで、

それが痛みをまだ幾分かやわらげることになっていたようです。


翌朝、目が覚めると、鼻よりも頭が痛く、尋常ではない痛みがありました。

これはちょっとやばいような気がする、と

鼻の診察がてら病院に行き、試合の内容を報告しました。

第一ラウンドで鼻を打たれてダウンした後、

ねばりにねばって3分3ラウンドをフルに戦い、

その分打たれた回数も多いはずだと説明し、

今は鼻よりも頭が痛くてたまらないですと伝えると、

では念のためCTを撮っとくかと、初めてCT検査を受けました。
撮影された写真を見た医師は、

「ちょっと出血してるね、今から点滴するね」と深刻な口調で話し、

私はそのままおよそ半日ベッドで数本の点滴を投与され、

「1週間後にもう一度検査をして、場合によっては開頭手術だよ」と言われ、

「それまでにもひどい頭痛が起きたらすぐに来なさい」

と言われ、1日3回服用するようにと薬を渡され、

頭の中で走馬灯が走り続ける、青ざめた状態で帰宅しました。


それから1週間は練習を休み、授業にもほとんど出ず、

恐怖心にさいなまれた夢遊病者のような日々を過ごし、

指定された日に病院に行き、再度のCT検査を受けたところ、

「まあ大丈夫みたいだね」との診断で、

その日もまた数本の点滴を受けたのですが、

手術や入院の必要はないということで帰宅しました。


ただ、鼻の骨がくっつくまでにはしばらくかかる、

また、半年くらいは飲酒と熱い風呂は控えるようにと指示されました。


強行出場の代償は小さいものではありませんでした。


( つ づ く )



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個人トーナメントの2回戦、1年ぶりとなる試合でした。

試合に出たくて出たくてしかたがなかった、その不満をやっと解消できる、

その思いは鼻骨折の不安をかき消し、私を発奮させました。

もし、春の大学リーグ戦に出場していたなら、

あるいは夏の国体予選で試合ができていたなら、

この個人トーナメント戦は大事をとって出場を辞退していたと思います。

しかし、ここで試合ができなかったら次の試合機会は半年後になってしまう、

そう考えると今回無理をしてでも出場すべきだと考えました。


そうしてまで出場したのですが、その2回戦で敗退しました。


第1ラウンド、ゴングが鳴ってから10秒くらいだったかと思いますが、

後ろにすっとんでしりもちをつくダウンを喫しました。

相手の打った左ジャブを直撃されたのか、

顔面をカバーしたグラブ越しだったのかは覚えてないのですが、

鼻へのダメージでダウンしました。

それから後は試合が終わるまでとぎれとぎれの記憶しかありません。

インターバルの際、セコンドについてくれているライバル視男に

「絶対にタオル投げんなよ」としつこいくらい繰り返したこと、

試合中、鼻血で鼻がつまって苦しいので、

時々自分の肩に鼻を押し当てて「ふんっ」と鼻をかむと、

肩が血で真っ赤に染まったこと、

第3ラウンドに連打での攻撃をしかけている時、

打ちまくっている自分を別の自分が背後から眺めている感覚になったこと、

覚えているのはそのくらいです。


その浮遊の現象ですが、実に不思議な感覚でした。

それまでにも体が勝手に先に先にと動いて、意識が後からついていく、

そんな感覚はしょっちゅう体感していましたが、

自分が自分の体から抜け出して、動いている自分を眺める、

そんな感覚は初めてでした。

相手を攻め続ける自分の後頭部とか背中を見たような記憶があります。

それって幽体離脱なのかとも思いますが、定かではありません。

ただ、それからかなり後に、

プロボクシングの世界チャンピオンになった方が、

「試合中に幽体離脱状態になったことがある」と語られていたのを目にして

そういうことって実際にあるんだと納得しました。


その試合は私のポイント負けとなりました。

第1ラウンドはとられて、第3ラウンドはとった実感がありました。

となると、第2ラウンドはとられてたんだろうなと思います。


( つづく )



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問題児2号は初戦で敗退した後、ものすごく悔しがっていました。

全力を尽くして負けたのであれば納得もできるのでしょうけど、

相手選手の変則の動きにとまどい、自分の力を出しきることができず、

不完全燃焼でのポイント負けであったため、

悔しさと相手選手への腹立ちはすさまじいものがあったのでしょう。


その相手選手は2回戦を不戦勝で通過、準々決勝に進みました。

そこで対戦することになった相手は、

問題児2号が前年の新人戦で対戦して勝っている相手でした。

その2人の実力を考えても、2号に勝った相手選手が上であり、

圧倒的勝利で準決勝に進むものと思われたのですが、

試合は思わぬ展開となり、

相手選手は試合中の負傷によってRSC(現TKO)負けを

喫することとなりました。


その試合を見ていた2号は、

「何しとんねんあいつ、まぬけな負けかたしやがって、俺の顔が丸つぶれじゃ」

と鬼の形相で怒り心頭、ぶつける先のない感情をもてあますような

そんな様子がうかがえました。


その翌週の準決勝、

問題児2号に勝った相手選手に勝って準決勝に進んだその選手は、

強豪大学の選手にまったくなすすべなく、1ラウンドRSC負けとなりました。

レフェリーが両手を交差させてRSCを宣告したと同時に、

観戦していた私の2列ほど前の席に座っていた男が

「なんやあいつ、むちゃくちゃ弱いやんけ、

もうちょっとがんばってくれる思てたのに、俺の顔が丸つぶれやんけ」と

騒ぎ出しました。

「へっ?」と思ってみると、問題児2号に勝った相手選手でした。

「うわっ、同じこと言うとる」と、私は歯をくいしばり、

真っ赤になって、こみあげてくる笑いをこらえ、

しばらくその場で苦しみ悶えてました。


その、問題児2号に勝った相手選手ですが、
当時立命館大学の選手で、

その何十年か後にうちのジムにトレーナーとしていらしてくださっていた

大原さんです。



( つづく )



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問題児2号の1回戦の対戦相手は、立命館大学の1回生の選手でした。

高校でボクシングの経験があり、春の大学リーグ戦はもちろんのこと、

国体にも出場しておりました。

しかし、2号も私もそれまで彼の試合を見たことはなく、

どういうスタイルなのか、左か右かさえもわからず、

予備知識なしでの対戦となりました。


試合は一進一退の攻防でしたが、

どうひいき目に見ても相手がリードしているように思えました。

問題児2号は相手の変則的な動きにとまどいがあるのか、

いつもの動きができておらず、かみ合わせが悪く、

後手にまわることが多くなり、なかなか攻められない展開が続きました。


結果は相手選手のポイント勝ち、

2号は初戦での敗退を喫することとなりました。


その相手選手は2回戦はたしか不戦勝で通過、

3回戦(準々決勝)で、試合中の負傷により敗退しました。


この話には続きがありまして、次回またあらためて書きます。


この大会が終わった後、

問題児2号は大学を休学、単身ハワイに渡り、現地の大学に入学しなおし、

多数の試合に出場、いくつものタイトルを獲得し、

最終的には全米ベスト30ランキングに入る実績を残しました。


一方の相手選手は、その後も国体、全日本選手権等の全国大会の常連となり、

後には全日本ランキングにランクされました。


その相手選手と私とはその数十年後に、

お互いが大学の監督という立場で交流を持つようになり、

その問題児2号との試合のことも話題にしたことがあるのですが、

「相手(問題児2号)はうまくて強いと聞いていたので、

 あえて自分の本来のスタイルを崩して、変則戦法で挑んだ」そうです。

その策略が見事にはまり、勝利を得たわけですが、

変則にとまどって、自分の力を出せず負けてしまった2号は

その敗戦をものすごく悔しがり、怒り狂っておりました。


その試合の後日談、そして、その対戦相手の正体については

次回あらためて書きます。



( つづく )




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