【開拓史125 八幡神社 開拓之碑 伊達邦直主従北海道移住の地】 | 桜東行のブログ

桜東行のブログ

開拓史に特化したブログです。
幕末は高杉晋作さんが好きで、こちらは小説系にしたいと思案中。

札幌近郊の開拓史史跡及び歴史について書いてます。
宜しくお願いします(*´∀`)

開拓史史跡

八幡神社
住所 石狩市弁天町1番地

【御祭神】
誉田別命
倉稲魂命

【正面】
入り口にある説明文を引用します

石狩市八幡神社

 石狩市八幡神社は安政5年(1858)に箱館総社八幡宮の末社として、当時の箱館奉行所に設立を願い出て認められました。
蝦夷地総鎮守として石狩川岸(現八幡町)に建立されましたが、町の中心が本町地域に移ったため明治7年に現在地に遷座されました。

 祭神の誉田別命のほかに、幕府石狩詰役所在勤の荒井金助が勧請した稲荷大神も祀られています。
境内には、木戸孝允が兵部省石狩役所を主宰していた井上弥吉に依頼されて書いた書
『文武一徳』
『肇域四方』
を刻んだ御神燈軸石も残されています。
9月14・15日の例大祭には、神輿渡御が行われ賑わいをみせています。

いやぁ、ウッカリしてましたね。
この説明文をみて安政5年建立で満足し、そのまま境内に入ってしまいました(これだから撮り忘れがあるアセアセ反省
木戸孝允さんが書いた書を石碑として遺していたとは驚き(゚-゚)
※石碑は後に掲載します。

それと石の鳥居は文化十年(1813)のもの。八幡宮遷座する前は弁天社がありました。この鳥居は弁天社に奉納されたものです。
200年弱経ってるんですね~(〃'▽'〃)
では、境内にある石碑などをみてみましょう

【不明記念碑】
後ろも風化して文字が読めずアセアセ
何の30年記念なのか苔と風化で文字が見えないので分かり次第追記しときます
(๑´ڡ`๑)

【御大豊記念碑】
昭和5年9月15日と裏に刻まれている事から昭和天皇即位の記念碑なんでしょうか。
正面には名前が刻まれており、建立に関わった方々なのかちょっと分かりません( >_<)

【文武一徳 肇域四方の碑】
木戸孝允さんの書が刻まれている石碑。
しかしかなり劣化しているのか全く分からないですね…
下には文字が刻まれていますが解読不能バツブルー
残念です。:゚(;´∩`;)゚:。

【狛犬】

【社殿】
狛犬はかなりの年代物ですね。
社殿は遷座の際、石狩弁天社の社殿を利用しており今の社殿は明治21年に建てられたものが基礎となってます。

箱館奉行所が設置される、すなわちロシアの動きが活発になったという事です。肇域四方とは四方の国境画定、北方の国境画定とはすなわちロシアを指すのでしょう。

蝦夷地総鎮守として建立されてから北海道を守り続けてる由緒ある神社でした(๑´ڡ`๑)

開拓之碑
住所 石狩市厚田区聚富オロロンライン

【開拓之碑】
下にあります碑文を引用します

本聚富の開拓は明治初期にその第一歩が記されたが海浜の砂地農法の困難から挫折第二次大戦後の農地改革制度の進行に伴い地区開拓計画樹立の基本要領にのっとり昭和26年地元農民の強い要望で地区計画が樹立併せ買収が行われ再び開拓の鍬が振られた

昭和28年2月20人の入殖者で聚富開拓農業協同組合を設立開拓地に力を入れ排水灌漑施設土農道等の建設工事が進められ開墾工事等の補助事業も短期間に完了昭和33年9月には諸工事の落成記念式を挙げた
この事は行政諸官庁の適切な指導と本地区の特殊事情を深く理解された賜である事を特記する

組合設立以来20年組合員は終始谷口利行組合長を中心に営農基盤の早期確立と水田酪農の混同経営による農家経済の安定更に組合の円滑運営に限りない努力と多くの苦闘に耐え今日の美しく豊かな郷土を築いた

そして第三期北海道総合開発計画はこの地に新しいスポットを当て飛躍的発展の可能性を示している
昭和47年10月20日 開拓之碑改築記念に記す

昭和35年9月24日建立
この碑文から伊達邦直公が新天地として当別を選んだ理由が分かりますね。
本格的な開拓は昭和に入ってからだとは驚きであります(;^_^A

【5柱の神々の碑】
開拓之碑の横には5柱の神々の碑があり

天照皇大神・大己貴命・埴安媛命・少彦名命・倉稲魂命

昭和30年9月建立とあります。

【馬頭観音】
開拓初期は昭和とはいえ馬を使い開拓に勤しんだ事でしょう。

伊達邦直主従北海道移住の地

開拓之碑から800mほど奥に行った所に伊達邦直公をはじめとする仙台藩岩出山の方々が入殖した記念碑が建立されてます。
彼らは不毛の大地と格闘しましたが、新天地を求めこの地を離れる事になります。
この碑は平成8年10月に建立されました
最後に碑文を引用して終わりたいと思います。

シップ開拓場の記

明治4年(1871)旧暦4月
仙台藩岩出山の伊達邦直公主従51戸・180名はこの地厚田郡シップに入殖した
 元来奥地の空知郡奈井江開拓のための前進地で海と石狩のマチが近く移民が一時滞留したり輸送に便利なところとして貸し与えられた土地である
 同年トウベツが開拓に適していることを聞き実地調査の結果をもって開拓使に歎願しトウベツ再移住が決まっていった
 シップでの越冬はきびしかったがこの間に八人の新生児が誕生し将来に明るい光をみることができた 本庄陸男の歴史小説『石狩川』の舞台もここシップであった 
 こうして当別開拓の方向に定まった歴史的位置を後世につたえるため父祖らの功績を称え当別岩出山両町民のあつい敬愛の思いをこめて本碑を建立する

伊達邦直公が当別を開拓する前の地である事は知ってましたが、その後も開拓するのが困難だった聚富。
大戦後に開拓の鍬が入れられ現在の姿になっていったのを知ったのは開拓之碑の碑文を読んでからでした。
碑文を読む前と読んだ後では全く見る目が変わります。
そんな聚富の街並みを一度ご覧になってはいかがでしょうかニコニコ