【開拓史 81 対雁アイヌの人々のお墓・榎本公園】 | 桜東行のブログ

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開拓史に特化したブログです。
幕末は高杉晋作さんが好きで、こちらは小説系にしたいと思案中。

札幌近郊の開拓史史跡及び歴史について書いてます。
宜しくお願いします(*´∀`)

開拓史史跡

対雁アイヌの人々のお墓&榎本公園・対雁番屋・駅逓所(江別発祥の地)

【対雁アイヌの人々】

明治8年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結した。それにより樺太の一部に住んでいたアイヌの人々854人が現・稚内に移住させられる。
樺太事情については前ブログを参照下さい。

一旦は稚内に落ち着いたが、開拓使は対雁(現・江別市)に移住を命令する。
アイヌの人々は移住を拒み、当時の開拓使大判官であった松本十郎氏も反対した。
これにより黒田清隆氏と激しく衝突、アイヌの人々を保護する案を提出した。
しかし松本十郎氏の献策を半ば無視するが如く、強制移住という形をとる。
それに憤慨した松本十郎氏は開拓使を辞職した。

対雁に移住したアイヌの人々はそこで暮らす事になる。
しかし、慣れない環境・居住の整備が不十分など苦しい日々もあったようだ。ここでは学校を設立、アイヌの人々の子供に和人教育をしていった。

ここには製鋼所や炭鉱が近くにあり、一説によればここで労働させるつもりだったようだ。実際、労働していた話も見る。
ここの時期については詳しく調べていないので後のブログにまわしたい。

明治19・20年に対雁でコレラが発生、多数の死者が出てしまい、アイヌの人々も沢山の方が亡くなった。
お墓は2つある。
片方には明治23年とあるからコレラが発生から2・3年後になるのだろう。
亡くなったアイヌの方々には謹んでご冥福をお祈りします。

住所 北海道江別市対雁115-80
江別市営やすらぎ苑内



【アイヌの人々の慰霊具 イナウ】

【マップアプリより大まかな位置】

市営墓地であり沢山のお墓があるのでお参りの際には細心の注意を払いましょう。
また、中途半端なお参りは止めておきましょう。

【榎本公園】

住所 江別市工栄町10-6付近 ホクトヤンマ一本社向かい

榎本武揚氏の対雁発展尽力を顕彰する公園であります。
しかし場所は分かりづらくさらに公園としては整備されてません。
【入口から見る公園内】

【中から見る公園内】


公園入口には榎本公園の石碑に対雁番屋&駅逓所についての案内版があります。



案内版の引用をしてみます。

史跡 津石狩(対雁)番屋

今から270年ほど前(享保年間)世田豊平川河口に石狩十三場所のーつとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と内陸水路の要点として発展した。

1868年(慶応4年)に立花由松が江別最初の和人として定住した。
明治4年には宮城県から76人が入殖し、9年には樺太(サハリン)に住む854人のアイヌが移住させられた。
これにより学校や製鋼所が作られるなど対雁はにぎわい、12年に駅逓所、13年に対雁・江別両村戸長役場がおかれた。
しかし15年の鉄道事業により人の流れが江別・野幌に移り19・20年にはコレラの流行により300人以上の病死者を出す大惨事にみまわれ、対雁は衰退をはじめた。

駅逓所は18年に廃止となり、19年には戸長役場と郵便局が江別に移転した。
駅逓の入り口に植えられた赤松は駅逓の松として親しまれ現在は石狩川の河川敷地になった旧対雁市街の繁栄をしのばせていたが、老枯して今はない。

平成2年 江別市教育委員会

ここにある駅逓所とは開拓使が設置した施設であり、早馬の乗り継ぎ・旅行者の休憩・宿泊に加えて郵便局も兼ねていた。
この史跡には関係ないが、通行屋という郵便業務をしていない施設もあった。

ここに書かれている駅逓の松は江別市郷土資料館に切り株が展示されています。
充実した資料館なので見学する事をおすすめ致します(o´∀`)b

【對雁百年碑】


碑文を読むと対雁百年の歴史かと思いましたが、対雁神社の由来とその歴史についてのようです。
対雁神社は碑文の通り解体されて今はない。

【榎本武揚顕彰碑】


碑文を引用してみます。

対雁は黎明日本の明治政府における要職を歴任した『榎本武揚』が北海道開拓の雄志を託し農場を開いたゆかりの地であり、江別市発祥の地である。
これらの史実を永く後世の人々に伝える記念とするため対雁住民の総意をこめて榎本武揚顕彰碑を建立する。

昭和45年6月建立
題字 北海道知事 町村金五
制作 彫刻家 佐藤忠良

最後に公園内にある大正天皇即位記念の石碑を紹介します。榎本武揚顕彰碑を正面にすると左側にあります。