時空の不思議話を書きましたが、人の記憶の不確かさも、ここに通じることなのではないかと気付きました。
懐かしの同級生や兄弟姉妹と幼少時代の話をすると、自分と記憶が入違っていることがありませんか?
ぜったいにそんなことはないよねという記憶の書き違えがおきていて、発言者が入れ替わっていたり、時系列が変わっていたりするのです。
ただの思い違いでよくある話なのかもしれませんし、今更真偽を問う必要もなく、そのすべもありません。
しかし、思い違いでないケースがあるとしたら、それは、似たような時空の中で、別バージョンの時間を過ごしていただけで、実は誰も間違ってはいなかったということ。
認知症の親戚の摩訶不思議な発言がエスカレートしていて、もしかしたらとひらめいた可能性でした。
人は誰もがいろいろな時空を知らずのうちに旅していると仮定するとしましょう。
身体の自由が利かなくなってきた際の心の逃げ道を、時空の旅に求めた結果、自分にとって好ましい時空を探して、無意識的な旅の回数を増やしていくのでは?
それが、認知症とされてしまう現象を生んでいるのでは?
という、SF風の想像を思い浮かべたのです。
この仮説でいくと、「消えた肉が時空を超えて出現!?」に書いたようだに、物が消えた場合も、物が消えたのではなく、自分が物のない時空にスキップしただけという話も生まれてきます。
脳の世界、記憶の世界は謎が多いですし、記憶は、当人の主観によって吉凶が歪めらていくものでしょう。
だとしたら、これが正しいという話は、いつに手術をした。受験に受かった。生まれた。死んだという、物理的なことしかわからないといっても過言ではないのでは?
考えれば考えるほどにわけがわからなくなり、ドグラマグラ的な世界観に羽ばたいていきそうな気がしてきますね。
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