人はどうして戦争をするのか。
人が増えることで、物資や土地などをめぐる争いが生まれるのは、人という動物の性なのかもしれない。
財産相続などで、骨肉の争いに発展することも、ごく一般的な話となり、知人や友人、親戚関係からも耳に入る日常のことと言えるだろう。
利己を追求するものの単位が、国益をめぐる話に膨らんでいくと、戦争に進もうとするのではないだろうか。
と、ここまでは、人口を増やして発展を目指すことには限界があるという、個人的な結論に結びつく考察だ。
20世紀に現れた3人の独裁者(ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン)の特番をみた。
自らの権力をかざして、恐怖で人々を支配し、負けることが目に見えた状況の中、戦地から撤退しようとする兵士を戦地に向かわせるために、逃げ帰る味方の兵士を打ち殺し、戦うしかない状態に追い込むシーンもあり、勝つための手段を選ばない独裁者は、自身の身の安全さえ確保できれば、それでいいのだろう。
捕虜にとられた息子を見捨てたスターリンの娘は、アメリカに亡命したそうだ。
自らが追い込まれたヒトラーは、愛犬を毒殺し、愛人とともに自害した。
逃げる兵士を戦地に送り返し、自らが追い詰められると弱気になるのは、己の誤りに実は気付いていて、それを支配という強硬で追い払っているだけなのかもしれない。
そんなストーリーをみて、どうして戦争をするのかがわかった気がした。
人が増えるだけでは戦争は起こらない。
増えた人々を盾にする独裁者が台頭してきたときに、戦争への歩みがはじまるのではないだろうか。
そんなことを考えた終戦記念日の昨日でした。
2年前の今日のブログ記事「戦争と平和 ~ 旧海軍司令部壕・ひめゆりの塔・世界平和記念碑」をみて、改めて、戦争について考えてみました。
戦争は国単位の大きな戦いですが、その軸にあるのは、個人の生き方や心の持ち方、利他利己の精神の違いなどに刻み込まれているでしょう。
平和を求めるあまりに、人の闇から目を背けてはいけない。
人は自分で考えるほど甘く平和な存在ではなく、ちょっとしたことで残虐性に走る生きものだと認識しながら、平穏な自分を保つ必要があるでしょう。
「愛」という名のまやかしや利己で、己を見失わずにいることが、平和への最低条件なのかもしれません。
こちらもいい本でした。
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