昨年、沖縄本島と阿嘉島に行きました。

 

ということで、昨年書いた記事を……

 

なぜ、今になって投稿しているのかという疑問もありますが、写真を掲載しようと思いながら、面倒になり、文字だけでいくとあきらめたからです口笛

 

沖縄本島と周辺の離島に、数えきれないほど行っている私は、旅行の予定を立てるときは、面倒だから沖縄にしようよというくらい。東京で生まれ育ち、ずーっと東京に在住している私にとっての第二のふるさとのように落ち着ける場所です。

 

いつもは海や山に出掛けてしまい、たまにお城の跡地や古民家を訪れるくらいで、沖縄の闇の部分には触れずにいました。けれど今回は、なぜだかすごく気になって、沖縄本島にある旧海軍司令部壕に行きました。

 

旧海軍司令部壕の中は、クワを使った手作業で掘ったとは思えない広さで、各部屋が迷路のようにつながっていました。電気で明るくなっていましたが、意外と落ち着く場所だなというのが私の感想です。夢の中で、たまに、要塞で地図を見ながら会議をしている自分がいるのですが、「ああ、こんな感じだよね」と思ってしまいました。過去世が影響しているのかは謎ですが。

 

数々の部屋の1つには、壁に手榴弾の飛び散った痕が残されており、そこは、海軍の隊員たちが、手榴弾で自害した場所だそうです。実際に部屋に入り、まじまじと手榴弾の痕跡を見つめながら、爆発直後の情景を想像してみました。今は、血肉のあとかたもない壁ですが、当時は、凄まじい状態で、焼け焦げた肉の臭い等が立ち込めていたのでしょう。兵士が身体を休めていた場所にも驚きました。なんと、廊下なのです! 情報が途絶え、物資も隠れ場所も失い、ただ信じて戦い、疲れ果てていた情景が思い浮かびます。

 

ひめゆりの塔は、心霊スポットとして有名で、霊感占い師の人たちからも、あそこは行かないほうがいい。すごい場所だと聞かされていました。けれど今回は、旧海軍司令部壕から近いこともあり、同じ時代の痛ましい歴史の跡地ということで行ってきました。

 

旧海軍司令部壕よりもメジャーな感じのエントランスで、門を入ったところの受付で献花が販売されていました。入ってすぐ横にあるひめゆりの塔で献花をし、挨拶をしました。「ここが噂の場所?」と思うくらいに静かで、特別な嫌悪感を抱くような雰囲気は感じられませんでした。

 

続いて、奥にある資料館に入りました。資料館はかなり充実していて、パネルでの解説や映像、当時の人々が愛用していた品々、当時を物語る手記の数々も展示されています。読める限り読んでいこうと思い、片っ端から読んで周りました。手記を残した方々の個々のお人柄が表れていて、こんなにひどい状況の中で、この人はなんて大らかなのだろうと感心したり、ほっこりするものあります。もちろん、大半は辛いものなのですが、生きる力の逞しさを実感させられるものでした。

 

印象深かったエピソードをご紹介します。

 

<夜はみんなで杖をついて移動する>

爆撃や奇襲の恐れがあるからなのか、夜中に、灯りをともさず歩いて移動されていたようです。そのとき、みんながみんな、杖をついていたのだとか。その理由は、転がる死体を踏んだり、死体に躓かないためだそうです。

 

<敗戦を知り、みんなで自害をしようとする中で>

ずーっと勝つと言われ続け、「欲しがりません。勝つまでは!」をスローガンに、どんなに貧しくても、理不尽な生活を強いられても、みんなで歯を食いしばって耐え抜いてきたひめゆりの女学生たちに敗戦の知らせが届きます。こんなに頑張ったのに負けたんだ。死んだ友人や家族がいるというのにやるせない……そんなことを思った人もいるかもしれませんね。

「負け=捕虜になる」ことであり、「捕虜=男は殺される=女は辱めを受ける」という認識が一般化されていた当時です。そんな目に遭うくらいなら自害しようという風潮があり、道ですれ違う兵隊さんが、女学生に自害のための手榴弾を手渡すこともあったようです。

そんな中、引率の先生が、「米軍が来る前に、海に入ってみんなで死のう」と言います。そこで1人の女学生が「今はまだ米軍が来ていないから、死ぬのはもっとあとでいいと思います」と。先生は「今を逃したら死ねなくなるから今じゃないとダメだ」と言い、女学生は「みんな最後は死んでしまうから、死ねなくはならないですよね」という問答の末、結局、そのグループは死ぬことをやめて、捕虜になって生き延びたそうです。

この女学生の賢さと勇気に感銘しました。物事の本質を見ているし、先生、ダメじゃないの? 女学生こそ先生だよねと思ってしまいました。

ちなみに、引率の先生によって、自害してしまったグループもあれば、生徒だけは助けるべきだと頑張る先生もいて、いつの時代も、引率者の責任は重大だなと痛感させられました。生徒を疎開に出す出さないでも、先生同士が揉めた事実もあるようです。現代において、この問題を考えると、疎開させることも、自害しないことも普通のことに思えるかもしれませんが、当時は、お国のために役に立たないといけない時代で、生徒であろうと1人の国民としての働きをしなければならないという風潮があったのです。

 

<重体の歩兵よりも、軽傷の士官に2人の看護がつく>

ひめゆりの学生さんたちは、兵士の看護を請け負っていました。日を追うごとに、運び込まれる兵隊が増え、女学生たちは寝る間もなく働き続けたそうです。十分な物資もなく、劣悪な環境の下、通気口のない洞窟が病棟になり、そこに運ばれた兵士たちはうめき声をあげ、ときに女学生を馬頭し、腐った傷にウジがわき、洞窟の中は、老廃物と膿、腐った死体の臭いが充満していたそうです。

必死で看護しても助からない人もいて、今助ければ何とかなるはずの人に手が回らない事態もあったでしょう。そんな状況の中、手足を失って大量出血をしている歩兵を放置させて、軽傷の士官に2名の看護をつけていたそうです! そんな事実があったなんてと、ありがちなことと頭では理解しながらも、大きなショックを受けました。上に立つ人には、人格者を求めたいですね。

靖国に眠る英雄と戦犯も、「今更なこと」として終わらせず、しっかり分けたほうがいいし、近代史の教育に注力すべきだと思いました。

 

学徒勤労動員については、以前に書籍を読んだことがありましたが、本当に配属される場所によって、請け負う作業の種類と危険度、物資(食料)の供給事情が異なり、天と地の差があることを、改めて実感しました。

 

旅行初日にめぐった2つのポイントでしたが、翌日の阿嘉島で、思わぬシンクロニシティに遭うのでした。

 

阿嘉島にある、日本に初めて米軍が上陸した地です。自転車で、阿嘉島から阿嘉大橋を渡って慶良間島へ、続いて、慶良間島から慶良間橋を渡って外地島に行くと、世界平和記念碑があります。この記念碑が、米軍が日本に初上陸した地なのです。サイクリング中に偶然に見つけた記念碑でしたが、前日の旧海軍司令部壕とひめゆりの塔に導かれたのではと思いました。

 

今回は、現代の世界情勢と日本の立場、戦争と平和への向き合い方について考える感慨深い旅になりました。

 

戦争にしたい人はいても(お金儲けのために)、戦争をしたい人(自らが戦地に赴いて参加したい人)はいないと思います。そんなことは当り前で考えるまでもありません。

 

シビリアンコントロールを確実に利かせるには、各国の国民1人ひとりが政治を見張り、メディアに流されない頭を持つことです。それが、大戦での経験を活かすことになるのではと思います。大戦時は、絶対に勝つと信じ込むような報道しかされていなかったのですよ!

 

ミサイルが飛ぶ昨今ですが、ミサイルが飛んだときこそ、「戦争反対デモ」が起きてもいいのではないかと思うのは私だけなのでしょうか? 防衛が話題になると戦争反対で、攻撃されるかもしれないときはOK? 何かが違いますよね……