お伊勢参りの真相 | 日本が良くなりますように

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アメンバー記事は完全な個人的メモとして使おうと思います。メモなので面白くないと思いますが、保守思想でスピリチュアルに抵抗のない方限定で見てもらってもいいです。コメントはお返事等できない場合もあります。

 

お伊勢参りの真相

 

 

※こちらの動画を底本にして過去記事などの引用を交えながら話をすすめます。動画主さん、ありがとうございました。

 
 
お伊勢参りの起源
時代は15世紀にさかのぼります

 

  15世紀 キリスト教は強奪・奴隷という手法で世界を開拓

 
 
西山俊彦氏 「近代資本主義の成立と奴隷貿易」より

 

1454年の教皇ニコラウス御世が出した教書

「キリストに敵対するいかなるものをも襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼らの王国公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わずあらゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した

 

つまり、キリスト教徒に敵対するものは攻撃し、強奪し、奴隷化しても良い、と教皇が許可を与えたのです。

 

 

 

 

トルデシリャス条約 1494年

 

 

世界をスペイン・ポルトガルで分割して支配して良いというもの。

教皇のお墨付きをもらった。

ここから全てが始まったと言っても良い。

 

 

キリスト教徒は問答無用で異教徒を人間とは見なさず黄金や香辛料を求めて被武装の原住民を赤子の手をひねるように殺戮を繰り返していきました。

 

 

スペインとポルトガルがちょうど地球の半分のところでぶつかりますので

そこのところでサラゴサ条約が結ばれました。(1529年)

 

 

  日本を征服する権利をポルトガルに与えた

 

 

教皇は日本を征服する権利をポルトガルに与えました。

 

1543年東回りのポルトガルにより鉄砲が伝来

1549年ザビエルがキリスト教を伝えた

1584年西回りのスペインが初めて日本に

 

 

この2カ国による地球の2分割はいずれもキリスト教の神父が先兵となって侵略していくやり方です。

 

1543年に種ヶ島に鉄砲が伝わると翌年から堺などで鉄砲が量産されますそして瞬く間に日本中に鉄砲が溢れ世界一の鉄砲保有国になりました。

 

 

彼らは日本の鉄砲を脅威に感じ、侵略の方法を変えた

 

日本の鉄砲を脅威に感じたため、

イエズス会の教師による日本侵略は武力でなく大名をキリシタンに改宗支配する方法に変わっていきます。

 

1563年に長崎の大村純忠を始め九州の多くの大名がキリシタンになっていきました。

 

 

キリシタン大名の領地では激しい廃仏毀釈も行われました

 

キリシタンのしたこと 

 

1)住民の面前で仏像に唾を吐きかけて冒涜し最後に皆、薪にした。

2)大友宗麟(キリシタン大名)が日向国に侵攻。占領地の日本の神仏の社殿や堂宇を破壊。

3)「日向国にキリシタンの教えを植え付け、キリシタン並びにポルトガルの法律によって統治する」大友宗麟            

4)「デウスの恩恵に報いる奉仕として、殿の領内からあらゆる偶像崇拝を根絶するに優るものはない」宣教師 ガスパル・コエリョ

5)キリシタンにならない村民の家に火をかける

6)寺社を焼き払う

7)僧侶や神官の殺害

8)代官、他宗の出家、キリシタンにならない者を残らず斬り殺した

9)行きがかりの旅人まで殺した

 

 

 

  1587年  秀吉のバテレン追報令

 

 1587年キリスト教の日本侵略の意図を見抜いた秀吉はバテレン追報令を出します

 

戦前の豊臣秀吉像

 

 

加藤武雄著 「豊臣秀吉」 昭和19年

(昭和19年に少年少女向けに出版。戦後GHQによって処分)

「島津や龍造寺を除けば九州の大名は大抵皆キリシタンでその中でも大友宗麟、大村純忠、有馬春信の3人は最も有力なキリシタン大名であった。

 

もちろんそれは純粋な信仰からというよりもそれによって外国との貿易の便宜を得、貿易で富を得ようとの下心からであった。そして大村は名うてのキリシタン大名で長崎はキリシタンの本元のようなところになっていた。

 

大村が隣の龍造寺と戦い、戦争の費用に困った時、外国人のキリシタンから金を借り、その抵当として長崎を外国人にやってしまった。

 

ポルトガル人やイスパニアは日本の民百姓が生活に困っているにつけ込んで1人いくらという安い金で買い取り牛馬のようにコキ使ったり、また遠い国へ連れて行って奴隷に売ったりしている。」

 

 

 

 

  1588年 アウグスチノ修道会宣教師の書簡

 

アウグスチノ修道会の宣教師がスペイン国王に送った書簡

 

「もしも陛下が戦争によって支那に攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう日本においてキリシタン大名に働きかけるべきである」

 

バテレンたちはスペイン国王に支那を征服するために日本のキリシタン大名を利用するよう進言していた。

 

 

つまり

 

秀吉は先手を打ってインドのゴアまで征服してアジアからバテレンを追放しようとしたということです。

 

 

 

  フランシスコ会が布教活動を始める

 

 

その後バテレン追報令が出ているにも関わらずフランシスコ会は各地で教会を立てて堂々と不興活動を始めた。

 

 

  1596年 サンフェリペ号事件

 

 

慶長元(1596)年
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、土佐の浦戸に漂着。

水先案内人が、取り調べの増田長盛に世界地図を見せて発言した証言。


「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

 

 報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕

そして彼らを長崎に送りました。キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。日本に残りたいなら、改宗しろ。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。


注) 秀吉ではなくイエズス会がこのキリシタンの殉教を望んだのです

イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。

 

 

実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。

 

イエズス会とフランシスコ会の激しい対立によってフランシスコ会の教師6人を含む26人が処刑されました。

 

 

 

  1599年 ペドロ・デ・ラ・クルスの書簡

 

(島原の乱の38年前)

 

1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰の内容を紹介したことがある。そこには、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであり、そのためにはどのような方法を取るべきかが詳細に記されている

 

「このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

 

 

この天草は当時キリシタン大名の小西行長の領地だったのです。彼らの侵略方法は軍隊を送るのではなく手練手管を駆使して相手の仲間割れを図るやり方です。

 

 

  1600年 関ヶ原の戦い

 

山本 秀煌「日本基督教史 上巻」大正14年

 

1600年の関ヶ原の戦いはこのようにキリシタン大名が西軍東軍中立と見事に割り振られています。

 

 

戦いの結果がどうなってもいいように両建て主義が取られたと見ることができます。

 

 

  1612年 岡本大八事件

 

 

有馬春信の朱印船がマカオで事件に巻き込まれそれが幕府の役人であった岡本大八との贈収賄事件に発展したもの(2人ともキリシタン)これをうけ

 

1613年 禁教令

1614年 禁教令が強化

高山右近もマニラに追放

 

 

ウィリアム・アダムス(プロテスタントのイギリス人、カトリックのスペインと戦争中)はカトリックの世界侵略の方法を家康に説明、幕府に貢献しました。

 

その後も禁教令があるにもかかわらず様々な手段を使って次々とスペインの宣教師が日本に潜入

 

 

すでに彼らはメキシコを征服しフィリピンを植民地にしていました。

宣教師自身はそれが神の教えであると信じて疑わなかったわけですから多くの日本人が恐怖を覚えたのは想像に固くありません。

 

 

  秀忠・家光の時代 

 

 

二代目将軍秀忠 

 

キリスト教への対策強化

不法宣教師は斬首

日本人キリスト教徒は強制的に棄教・拒む物は火刑

 

 

三代目将軍家光  

 

禁教令 強化

1624年 スペイン船の来行禁止

朱印船に制限をかける

 

これらのようにキリスト教へ対抗できたのは彼らに対する武力を日本が有していたからであり、民衆もそれを強く望んでいた。

 

 

  天皇の果たした役割

 

村井早苗氏の論文 (1980年)日本女子大学名誉教授 日本史学者

 

1565年 大うすはらひ

 

永禄8年(1565年)正親町天皇の綸旨によって「大うすはらひ」が行われた。

将軍によって許可された京都でのキリスト教布教が天皇によって排除されたのである。

 

綸旨とは天皇の命令書であり「大うすはらひ」とはバテレン追放の意味です。

 

豊臣秀吉のバテレン追放令の22年前に正親町天皇はキリスト教が日本人にとって危険な邪教であるとして京都からバテレンを追放したのです。

 

 

  1614年-1615年 伊勢踊り

 

 

そして禁教令の後、慶長19年(1614年)8月より翌元和元年(1615年)にかけて伊勢踊りが伊勢・京都・安房・土佐・名古屋・駿府に大流行しました。

 

その時に歌われた歌詞

 

「異国の野蛮人が日本を奪いに来た。しかし神の国であるからそれはできないだろう。立ち去れ立ち去れ。」

 

これは人々が伊勢踊りで日本を守ったアマテラス大御神に感謝の踊りを捧げたのです。

 

 

「御伊勢山田の神祭り

むくり・こくりを平らげて

神代・君代の国々の

千里の末まで豊かにて

老若男女

貴賎(きせん)都鄙(とい)

栄え栄えうる目出たさよ」


”むくり”は蒙古

”こくり”は高麗

”貴賤(きせん)”は地位や身分が高いことと低いこと

”都鄙(とい)”は都会と田舎

 

民衆にとってキリスト教の恐怖は元寇以来だったことがわかります。

 

 

  1637年 島原の乱

 

 

そして島原の乱 (リンク張っておきますので詳しくはこちら)

 

1637年の10月下旬

 

「キリシタンに改宗しない者はデウスから地獄に落とされる」とされ広まった当時のキリスト教

 

島原天草の乱の26年前に追放されたイエズス会のマルコス神父が日本を離れるに残した予言が乱を煽ったようです。

 

26年後(すなわち乱の起こった年)に必ず「善人」が生まれ、その者は習わないで字が読めるものである。天にもしるしが現れ、人々の頭に「くるす」(十字架)が立ち、雲が焼け、木に饅頭がなり、人々の住居をはじめ野も山も木も皆焼けるだろう、というものであった(『山田右衛門作口書写』)

人々はこの予言にあたる「善人」とは天草四郎すなわち益田四郎であり、彼は「天の使」に違いないと信じたという(同上)

一揆勢が日本人風の感覚にはない、むしろユダヤ教やキリスト教を思わせるような強い終末観に囚われていたことが知られる。P183

 

 

明らかに宗教がらみの反乱

 

1637年の10月下旬から江戸時代の乱である島原天草一が起こります天草四郎を総大将とするキリスト教徒の大反乱。

 

反乱軍3万7千人

幕府軍は12万5000人

 

鎮圧に4ヶ月かかったのは反乱軍が大量の鉄砲と弾薬を得ていたから。。。(外国から)

 

鎮圧後、幕府は1639年にポルトガルとの国交を断絶

1641年 キリスト教の布教を禁ず。出島へオランダ商館を強制的に移す。

 

  1638年 鎮圧 お伊勢参りへ

 

 

<18:36~>

 

1638年島原天草一揆を鎮圧すると大規模なお伊勢参りが起こりました。

キリシタンを退治したことで皇室の親神であるアマテラス大御神に感謝する人々が全国から参拝にやってきたのです。

 

江戸幕府はその後寺請制度を作り宗門人別改帳でキリスト教徒を徹底的に排除します。

また江戸時代になるとが式年遷宮を財政支援していきました。

式年遷宮は天武天皇が発案され1690年に第1回が行われてから1300年続く日本の伝統です。

 

長い日本の歴史の中で式年遷宮が中断する暗黒の時代がありました。

それが室町時代です。1563年に慶光院清順という尼僧が豊受大神をお祭りする外宮の遷宮を129年ぶりに復活させます。

アマテラス大御神をお祭りする内宮の遷宮も信長が財政支援して129年ぶりに1585年に復活しました。

 

1613年の禁教令を起草した金地院数伝はこの慶光院清順と同じ臨済宗の僧侶です。

1565年に正親町天皇にバテレン追放を進言た麻山日乗は法華宗の僧侶です。

 

これが神仏習合を体現した神国日本の姿です。

 

1649年に式年遷宮が行われると翌年に日本中から多くの人がお伊勢参りに訪れました。

これがおかげ参りの始まりです。

 

幕府が徹底的に貿易を管理したことでキリスト教の脅威が去り、世界で類を見ない安心して暮らせる平和な日本が200年以上続きます。

 

寺請制度のもとで申請すれば、ほぼ全員に往来手形が出され五街道なども整備されていきました。

 

幕府の無闇に物見遊山はいけないが、お寺やお宮に参拝ならよろしいということで江戸時代を通じて庶民の間でおい参りがブームとなります。式年神宮の翌年はおかげ年と言われて特に多く、また約60年ごとにピークの年には日本中から200万人以上の参拝者でした。

 

江戸後期にはは「伊勢神宮大神宮へもちょっとより」という千柳もできて、参拝と供に各地の名所旧跡を訪ねる大旅行ブームとなりました。

 

 

お伊勢お参りが最も多かったのは外国戦打払令の5年後の1830年のおかげ年でした。

半年弱で460万人と言われ、この年日本人の6人に1人が参拝したことになります。

伊勢に入る宮川の渡しでは1日に20万人を超えた日もあったと言います。

 

一生に1度はお伊勢参りと言われ、体が弱いなどの事情があれば主人の代わりに犬が代参しました。そのおかげ犬には道中でかかるお金やお参りをする旨を描いたものをしめ縄でつけていました。

 

*-*-

 

日本は鎖国をしてユートピアのような時代を築きます。

 

 

しかし、明治維新によって寺請制度も御師(旅行インストラクター)も廃止されおかげ参りも旅行ブームも消滅。

 

廃仏毀釈で仏閣は壊され、特に鹿児島県では全の寺が破壊された様子が鹿児島県史第3巻に次のように書かれています。

 

鹿児島藩は廃仏を断行し数年間藩内に1つの寺院仏閣なく1人の僧人を見ざるに立ちいたったのである。幕末明治において薩摩藩が果たした役割は戦国時代のキリシタン大名と同じだったわけです。

 

 

 

 

  要約

 

 

お伊勢参りの真相…

 

日本は大航海時代のキリスト教の世界侵略の魔の手から守られた

元寇、高麗の襲撃と同様にキリシタンが恐ろしかった。

キリシタンを追い返した。

日本は守られた。

お伊勢さん、すなわち天照大神様 ありがとうございます!

アマテル様のお陰で日本は護られました。

ありがとうございました、という感謝の参拝。

 

 

ということですね

 

 

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