島原の乱 異教への撲滅 | 日本が良くなりますように

日本が良くなりますように

日本が大好きな人のブログです。
アメンバー記事は完全な個人的メモとして使おうと思います。メモなので面白くないと思いますが、保守思想でスピリチュアルに抵抗のない方限定で見てもらってもいいです。コメントはお返事等できない場合もあります。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

先日ユネスコに世界文化遺産として登録されました。ここでは

 

「昔の日本人はキリスト教徒に酷いことをした。」

ということを訴えています。

 

原城包囲の図 ウィキより

 

※本日の記事で注意してほしいことですが、キリスト教(特に中世)の教えはイエス・キリストの教えと同じものではないということです。記事中ではキリスト教に対して厳しい表現をしましたが、当時のキリスト教は当初の教えからすでにだいぶ歪められていたと思われます。。  「免罪符」とかイエス・キリストはおっしゃっていないですから。

キリスト教≠イエス・キリストの教え

 

 

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

1637年、禁教が深まる中、圧政をきっかけにキリシタンが蜂起して「原城跡はらじょうあと」に立てこもった「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき

 

上記サイトにもあるように島原の乱の教科書などによる解釈は年貢の取り立てなどによる圧政によるものだというものが主立ったものです。

藩主も

 

しかし、島原の乱は実は(当時飢饉や圧政は確かにありましたが)非常に宗教色の強いものだったというのです。

 

一揆勢は年貢の減免を要求していない

 

原城に籠城する一揆に対して幕府軍総大将の松平信綱が矢文で質問する。

 

「なぜ籠城して幕府軍に反抗するのか」

「将軍への遺恨によるのか?それとも藩主への遺恨によるのか?」

「もしそうなら和談するにやぶさかではない」

 

これに対して城中からの返事

 

「上様へも松倉殿へも遺恨はない。”宗門”のことで籠城しているのであり、宗門を認めて欲しい。」

 

と回答があったという。

原城からの矢文とされるものがいくつかあるらしいですが、どれも「宗門」すなわち信仰を認めて欲しいとの要求で一致しています。

一揆勢は改宗にこだわっていたのです。

 

ここで当時のキリシタンがしたことを羅列してみたいと思います。

 

 

キリシタンが行ったこと

-------------------

住民の面前で仏像に唾を吐きかけて冒涜し最後に皆、薪にした。

大友宗麟(キリシタン大名)が日向国に侵攻、占領地にあった日本の神仏の社殿や堂宇を破壊。

  「日向国にキリシタンの教えを植え付け、キリシタンならびにポルトガルの法律によって統治する」

                                                        大友宗麟

  「デウスの恩恵に報いる奉仕として、殿の領内からあらゆる偶像崇拝を根絶するに優るものはない」

                                         同行した宣教師 ガスパル・コエリョ

キリシタンにならない村民の家に火をかける

寺社を焼き払う

僧侶や神官の殺害

代官、他宗の出家、キリシタンにならない者を残らず斬り殺した

行きがかりの旅人まで殺した

--------------------

 

幕府による”踏み絵”などだけに焦点があてられ、これらキリシタンの行いを全く教えないというのは非常に偏っていると思いませんか?

最初に寺社を放火し僧侶を殺害したのはキリシタンです。

島原の乱の発端はキリシタンのほうにあります。

キリシタンがこれだけのことをしたんです。

当時の法に則って裁くのは当然です。

これ、読んでみると、中世キリスト教ってカルト宗教のようです。

キリシタンにならないと殺されるんですよ。。。実際に僧侶や神官が殺されています。

自分の住んでいる村でそんな事件が起こったら…すごく怖くないですか?

現に当時の村民は命の危険を感じて一揆勢に加わらなくてはならない人達も多くいたそうです。

「踏み絵」をすれば許す…なんてむしろ優しいのでは(・・;)

 

実際、キリシタンへの取り締まりが厳しくなったのは島原の乱の後なんです。

なぜ、取り締まりを厳しくしたのか…こんな攻撃的な宗教、そりゃそうですよね。

聞くまでもないですよね。

 

 

カルト宗教のようなキリスト教

 

1637年の島原の乱が宗教的理由で行われたことは明確です。

きっかけが圧政によるものでないとするなら、何がきっかけで乱が起こったのか。

 

乱の直前に 「じゅわん廻状」なるものが島原地方の村々に伝達された。

 

「じゅわん廻状」とはこの世の終末にイエス・キリストが再臨するというイワユル終末思想のひとつです。

まず「天人」が地上に降り、「ぜんちょ(異教徒)」はすべて唯一神デウスから火の「ぜいちょ(審判)」が下されることになったと述べられ、誰でもキリシタンになったものは馳せ参じよ、特に村々の庄屋や乙名は馳せ参じよ、との要請がなされている。

さらに「天草四郎様」という人は「天人」であること、たとえ異教徒の僧侶であろうとキリシタンに改宗したものはデウスの審判から許されるが、キリシタンに改宗しない者は、デウスから「インフェルノ(地獄)」に堕とされると宣言している。              P182「宗教で読む戦国時代」

 

キリシタンに改宗しない者はデウスから地獄に落とされる( ̄□ ̄;)

 

そこでにわかに立ち帰った(もともと信者だった者が再びキリスト教徒になる)村の主立った者たちが人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、他宗の出家、キリシタンにならない者を残らず斬り殺していった。P180

 

これが乱の発端だといわれています。

 

宣教師達もあおります。

「デウスへの奉仕として”異教”の撲滅に勝るものはない」

 

また、当時のキリスト教徒はキリスト教以外の異教のことを悪魔だと呼んでいました。

   永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

 

また、乱のきっかけになったこととして26年前に追放された宣教師の預言書もあげられています。

26年後(すなわち乱の起こった年)に必ず「善人」が生まれ、その者は習わないで字が読めるものである。天にもしるしが現れ、人々の頭に「くるす」(十字架)が立ち、雲が焼け、木に饅頭がなり、人々の住居をはじめ野も山も木も皆焼けるだろう、というものであった(『山田右衛門作口書写』)

人々はこの予言にあたる「善人」とは天草四郎すなわち益田四郎であり、彼は「天の使」に違いないと信じたという(同上)

一揆勢が日本人風の感覚にはない、むしろユダヤ教やキリスト教を思わせるような強い終末観に囚われていたことが知られる。P183

 

また、

 

キリシタン達は、少しも死ぬことを怖がっていない様子であり、死んでもおっつけ生き返ると言っていたという(『御家中文通之内上書』)

 

これらが真実だとすれば、何故、歴史で習わないのでしょうか。

 

 

島原の乱は外国勢によって起こされた?

 

一揆勢は原城に籠城して三ヶ月も持ちこたえた。

武器と弾薬はどこから来たのか。

 

しばやんさんのサイトにペドロ・デ・ラ・クルスの書簡が紹介されています。

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

少し引用させて頂きます。

 

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

さらにクルスは、どこかの港(薩摩、四国、関東)に、スペインの都市を建設し、スペイン国王が絶対的な支配権を確立することを述べた後、シナを武力征服しない限り、シナを改宗させることは出来ないとし、その武力と武器の調達は、安価でそれが可能な日本で行う以外はあり得ないと書いている。彼等は、キリシタン大名を使ってシナを攻めようと考えていたようである。

 

彼らはまずシナを征服し、大陸で布教を拡げようと考えていたことは確実だが、征服するための武力については「日本から調達する以外にありえない」とクルスは断言している。では、彼らはシナに送り込む日本兵および武器・弾薬をどうやって調達するつもりであったのだろうか

 

もちろん徳川幕府が諸藩に命じてポルトガルとともに中国を攻めることはあり得ないことなので、彼らはキリシタン大名に頼らざるを得ないと思うのだが、もしキリシタン大名がポルトガル支援に前向きであったとしても、幕府の許可なくしては不可能だし、幕府の許可が出るとも思えない。

とすると、ポルトガルは徳川幕府の支配の及ばない地域をわが国の領土の中に確保するしか方法がない。すなわちキリシタン大名が支配する九州の一部をわが国から独立させるか、キリシタン大名の支援を得てポルトガルが支配する地域を九州に作らなければ、堂々と日本兵をシナに派兵できないのである。そのためには、彼らはどこかの時点で幕府と戦わざるを得ないことは誰でもわかる。

 

つまり、当時の覇権国である、ポルトガルとスペインが世界戦略のなか支那を狙っていた。

広大なその土地を押さえるには、日本をまず支配するといい。

そのために、日本の重要な拠点にキリスト教を広める。

キリシタン大名を使って日本国内に幕府の法の及ばない独立国をつくり、

そこから弾薬、武器、兵力を動員して支那を支配する。

その後、植民地となった支那から日本国家を支配することは非常に容易なことである。

 

その他キリスト教が広まった背景、弾薬はどこからきたのかなど

しばやんさんのブログに細かく書かれています。

 

また、島原の乱の鎮圧がもう少し遅れていれば、春になり(当時の船の推進力は風なので冬のあいだは来ることができない)、マカオから長崎に外国勢の支援が呼びよせられ、もっと大規模な戦いになっていたかもしれないと言います。

 

これらはクルスの書簡によって明らかになっていることです。

 

 

全国のキリスト教徒に蜂起を呼びかけていた

 

この乱が全国に広がることがおそれられていました。

 

一揆の指導者の一部が戦列を離れ、商売人等に変装して長崎に行っていた記録や、全国のキリシタンに蜂起を促そうとした記録もあるそうです。

             

これは禁教するしかなかったのでしょう。

 

歴史はちゃんと教えて頂きたいものです。

自分の故郷を愛する自然な自尊心を育てなければ日本の子供達は健全に育ちません。

 

ここでこの乱の原因をもう一度

 

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-387.html

島原の乱は極めて宗教的な動機によるものであることを書いたが、わが国に残されている史料の多くがそのことを裏付けているのである。にもかかわらず、わが国の通史ではこの乱の原因を島原藩、唐津藩のキリシタン弾圧と苛政にあったとしてきたのだが、そのようなスタンスで書かれているのは、ほとんどがキリスト教徒の立場からの書物である。

 

例えば『日本基督教史. 下巻』では
先代の苛税に苦しみつつあった農民らは、この上更に新税を納むるの資力なく、遂に食物に窮し、終に草根、菜蔬を採って辛うじて生命を維ぐに至り、空しく餓えて死せんよりは、一挙領主に反抗して死を速ならしめんことを希い、終に騒乱を爆発するに至った。」
とわが国の通説に近い内容になっているのだが、この書物では一揆勢が大量の鉄砲と銃弾を以て戦った事にはほとんど触れていないのである。

 

通史の内容と一致している文書はキリスト教徒の視点から書かれた本である。

ということです。

 

苛政を行ったとされる島原藩主松倉重政は、前任地の奈良では善政を敷いた殿様として慕われているようです。これもメモしておきたいと思います。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-2ef6.html

 

重政の後を継いだ長男・松倉勝家・・・

もちろん、圧政に恨みを抱いていたものもいたようです。

しかし、乱の鎮圧に派遣された松平信綱の、「勝家を死罪か流罪にしてもいいから…」との柔軟な態度での交渉に対しまったく取り合わなかったとか・・・しかも、その理由が「勝家に恨みはない」とはっきりと述べたとも言われているそうです。

 

 

本日の記事は主に「宗教で読む戦国時代」をもとに書かせて頂きました。

 

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ) 宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)
1,728円
Amazon

 

 

おまけ

キリシタン大名 大谷宗麟