ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回は放浪編、ビーフカツからもその他の食べ物からも離れ、1970年代に海外を旅していた頃のことをテーマにします。今回は、『ソ連/ルーマニア/ブルガリア』の話です。
これまで、6回にわたり中近東・インドの旅についてお話ししてきましたが、今回はイスタンブールまでのアプローチ『ソ連/ルーマニア/ブルガリア』です。
70年代の貧乏旅行者にとって欧州へのゴールデンルートは、シベリア経由。横浜港からソ連の客船『バイカル号』でシベリアのナホトカに向かいます。船中2泊。
ナホトカに入港するのは夕刻。入国手続きを済ませ、そのままハバロフスク行きの夜行列車に乗せられます。自由行動は許されません。
ハバロフスク着は、翌日の早朝。インツーリスト(ソ連国営旅行社)指定のホテルに押し込められた後、観光バスに乗せられ終日観光。記憶に残っているスポットはありません。
ハバロフスクからモスクワまでは2つの選択肢があります。飛行機を利用する方法とシベリア鉄道を利用する方法。
飛行機では7時間、鉄道では7日間。初期費用としては鉄道の方が安かったのですが、食堂車での食事代を勘案するとバックパッカーにとってはべらぼうな金額になります。
当然飛行機を選択しました。搭乗するとCA(・・・当時はスチュワーデス)がビニール袋を配ります。万年筆やボールペンを入れ、きつく閉じろとの説明。当時のイリューシンは気密性が悪く、気圧の変化でインクが漏れることがあったのです・・・怖っ!実際に私のボールペンも袋の中で少しインク漏れしていました。
モスクワでは最低2泊することが義務付けられていました・・・当時のソ連政府は外貨不足だったため私等のような貧乏人からもふんだくっていたのです。ホテルを選ぶ権利は旅行者ではなく旅行社。私に当てがわれたのは、当時世界最大の規模を誇っていた『ロシア・ホテル』。朝食と夕食がついて1泊35ドル。当時のレートで1万円強。2泊で2万円。1日1ドルで旅をしていた私には2か月分以上の出費。
モスクワでも強制(・・・矯正?)観光付き。何があってもクレムリン。にもかかわらず撮影禁止場所が多かったですが。こちらはウスペンスキー大聖堂。現在の姿とほとんど変わりないと思います。
ワシリー寺院。赤の広場に建つロシア正教の聖堂。カラフルな玉葱頭の屋根が新鮮に感じました。
モスクワでは若干の自由時間が与えられました・・・監視されていたような気もしますが。その時間を利用してモスクワ大学に行ってみました。ソ連の最高学府だけあって威風堂々とした建物でした。
買い物は・・・と言っても金がないので、国営グム百貨店でウィンドーショッピング。建物は素晴らしく、品数もありましたが粗悪品が多かったように記憶しています。
モスクワに2泊した後は、キエフ駅から夜行列車でルーマニアのブカレストへ。船で知り合った仲間たちは、全員西ヨーロッパに行くのでモスクワでバイバイ。
二段ベッドが2つ並ぶコンパートメントで2夜。3日目の朝にブカレストに到着しました。ここからは自由に宿が選べます。泊まったのは市内部から少し離れたユースホステル。
ルーマニアは、東欧唯一のラテン系民族の国。ブカレストは、モスクワよりも明るい感じがしました。
ブカレストのランドマークは、凱旋門。トランシルベニアとの統一を記念し、1935年にパリの凱旋門をモデルに建てられたものです。
ブカレストで2泊した後、ブカレスト北駅から夜行列車でブルガリアのソフィアへ・・・ホテル代を節約するためできる限り夜行で移動していました。
何だこの服装、センス悪いな・・・!
ソフィアでも市の中心部から少し離れたユースホステルに投宿。地方から遊びに来ていた少女たちとも仲良くなりました。
イスタンブールへイスタンブールへと気がはやるのですが、取り敢えず2泊して市内を散策。こちらは、ソフィアのシンボルでブルガリア正教会のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂。
聖ネデリャ教会。1925年の国王を狙った爆弾テロの舞台となった場所で、テロでは100人以上の方が亡くなっています。
ソフィアからは、5月17日のブログでお話しした通り、鉄路イスタンブールに向かいました。
放浪編~中近東・インドは、今回で終了。お付き合い有難うございました。
今後の放浪編では、やはり70年代に旅したアメリカ、カナダ、メキシコの話を追々するつもりです。写真の整理が済み次第始めますが、秋以降になると思います。
次回は、明日6月19日(火)に番外編。韓国キョンジュ(慶州)市ヤンドン・ミンソンマウル(良洞民俗村)の『トンムシクタンのタンカルグクス』をテーマにします。