とにかくストレスが多い現代社会、障害の有無に関わらず、皆ストレスをどうしたらなくせるのかを求めいます。そらそうです、ストレスを感じるのはとても辛いこと、ストレスがなくなればハッピーな生活が待っています。

 

 しかし残念ながら、ストレスをなくす、つまり0にする方法はありません。人間はストレスとは離れられない運命にあるのです。そもそもストレスは生きていく上で必要なものでもあるのです。

 

 例えば、人間がストレスを感じた際には「コルチゾール」というホルモンが分泌されます。このコルチゾールは長く分泌され続けるとうつ状態になってしまったり、身体、精神の健康に悪影響を及ぼします。うつ病患者の人はコルチゾールの値が高いというデータも出ています。

 

 一方で、コルチゾールは命の危機に瀕した時に分泌され、体内の中のあらゆるものをエネルギーに変換し、生き残るための原動力にする作用もあります。またコルチゾールは短時間の分泌であれば仕事を効率良く、手っ取り早く片付けてくれる手助けなんかもしてくれます。

 朝の方が夕方よりも仕事が上手く片付く気がする、なんていうのはこのコルチゾールが影響しているとも言われています(朝仕事する際はコルゾールは短時間の分泌ですみますが、夕方以降はコルチゾールが長く分泌されるというデータがでいます)。

 

 そうか、ストレスなくてはならないのか、ならばストレスとはこの先も付き合っていかなければならないのか・・・といってこの話が終わるわけではないので安心を。

 

 知っておいていただきたいのは、ストレスは役割があって存在しているも場合もあるので0にはできないということです。0にできないものを0にしようと努力してしまうと、これはとても辛いことですし、徒労に終わってしまいます。ストレスを消そうとして、逆にストレスが溜まってしまうなんて本末転倒です。

 

 なのでストレスマネージメントで大事になってくるのは「ストレスは消すものではなく減らすもの」という考え方です。今感じているストレスが100ならばそれが60くらいになれば少しは生きやすくなります。0にはできないかもしれませんが、耐えられないなんてこともなくなるわけです。

 

 そして、それを行うためには自分にとってのストレッサー(ストレス要因)がなんであるのかを知る必要があります。職場で嫌な人がいれば極力関わらない、嫌いな人間とは無理に仲良くしない、あるいは自分の苦手な仕事はさっさと他の人にパスしてしまう。そんな風にして、ストレッサーを遠ざけ、少しでもストレスを減らしましょう。そうすることで今よりは生きやすくなる可能性があります。

 

 ストレスを減らす方法はストレッサーを避ける以外にも、認知を変えたり色々あるのですが、まずはともかく覚えておいていただきたいのは「ストレスはなくすものではなく、減らすもの」ということ。

 

 またストレスを感じることは避けられない以上、人はどうしたって落ち込んだり、気が滅入ります。そんな時に大切になってくるのは「心をいかに回復させるか」ということです。究極言ってしまえばストレスで傷ついても回復さえできば問題ないのです。

 

 機会があれば次は心の回復力「レジリエンス」についても書こうと思います。

暴力と教育

先日、日大の元監督と元コーチに関東学生連盟から除名処分を下されるというニュースが流れた。この日大の悪質タックル問題は事件発生から数十日経っても沈静化する気配を見せない。

一部ではこの悪質タックル問題以外にも、日大アメフト部では体罰などが常態化していたのではないかという報道まで出ている。

 

スポーツと体罰、教育と体罰、躾と体罰、この問題は日大のこうした事件以前から世間で議論されてきた。私は体罰に関しては「必要もないし、存在する意味もわからない」という考えを持っている。

 

今まで体罰も時には必要だと主張する人間とこういった問題に関して話す機会があったが、一度として、その意見に納得したこともない。

 

体罰が必要だと主張する人間の意見は、おおよそ以下の通りだ。

 

①体罰でしか教えられないことがある。

②本当に悪いことをしたのだと解らせるためには体罰がいる。

③辛いことを耐え抜く力を身につけるため。
④愛のある体罰ならそれは教育となる。

 

こうやって改めて自分で書いていても、なんともお粗末でまったく意味がわからない理論だ。

 

例えば①の「体罰でしか解らないこと、教えられないことがある」という意見だが、これを主張する人間に「体罰でしか教えられないものって具体的に?」と聞いてみると多くの人間は口ごもる。そして大抵が②の「悪いことをわからせるため」や③の「辛いことを耐え抜く力を身につけるため」のような答えを口にする。

 

しかし②や③のようなことは体罰がなくても教えられると思っている。というよりも体罰があるせいで、これらの二つが正しく教えられないとすら考えている。

 

まず②の「本当に悪いことをしたのだと解らせるためには体罰がいる」という主張だが、この論理は悪いことをした人間に体罰を行うことで本気で怒っていることや、痛みにより「これはやってはいけないことなんだ!」と解らせる効果があるというものだ。

 

しかしこれで分かるのは「この行為を行うと殴られる」ということだけで、なぜそれが「やってはいけないこと」なのかという根本は理解はできない。根本を理解していないと、全く同じケースは殴られるから避けようとするだろうが、それ似たケースはいけないことなのかどうかの判断がつかない。

 

なぜなら殴るという行為には論理がないからだ。

 

自分の子どもが女の子にひどい言葉をぶつけて泣かせたとする。そのことに親が怒り「そんなことを女の子にいっちゃダメ!」と殴った場合、子供は思うのは「女の子にひどいことを、殴られるのか」ということだけだ。

 

それをすると親が怒ることや、殴られることは分かる、でもなぜそれをしてはいけないのかという論理までは解らず「男の子にはひどい言葉を言っても殴られない」と誤った解釈をしてしまう可能性もある。根本を理解していないと応用が利かないのだ。

 
上は極端な例だが、してはいけないという論理を理解していないとこういうことは起きるのだ。大切なことは
本当に「怒っている」ことを解らせることではなく、その行為が本当に「いけないことだ」「悪いことだ」という理由を理解させることのはずだ。
 
痛みによる教育などまるで悪しき時代のサーカスの動物の調教のようだ。
 
これを言うと人によっては「いや体罰だけじゃなくてちゃんと論理をも教えるのが大切なんだよ!」と主張してくる場合がある。しかしそうなってくると「体罰でしか教えられないものがある」という前提が崩れてしまう。核となると部分を伝えるのが言葉なら体罰は必要ないはずだ。
 
というよりも、そもそも体罰でしか教えられないもがこの世にあるとするならば、その対象は子どもだとか大人に関わらずその「何か」を伝えるために誰に対しも体罰が行われなくてはならなくなる。だってそれでしか伝えられないのだから。
 
体罰をありだと主張してしまうと、会社や街中の至る所で「何か」を伝えための暴力が横行してしまう。それも男や女に関わらずだ。これは決して極端な例ではなく、その論に従うとそうなるという単純な話だ。
 
辛いことを耐え抜く力なんて身につかない
 
体罰をする理由としてもう一つ言われるのが辛い逆境を乗り切る力が体罰によって養われるというものだ。この発言は特に運動部などで体罰が行われる際に使われやすい。
 
しかしこれも冷静に考えればおかしな話だ。確かに人間には「馴れる」という力がある。嫌なことや辛いことがあっても、それが続けば「これはそれほど嫌じゃない」と脳が認識するようになる。
 
だがそれだけだ。なれるだけだ。そこで行われている理不尽さや不合理さ、暴力に耐性がつくだけだ。そしてその先の人生「あの頃よりはマシだ」という最低な基準として機能してする以外価値はない。それだってその過去を上回る辛さに出会えば、即座に価値がなくなる程度のものだ。
 
不条理や不合理を解決するため手段や方法、スキルなどは一切不明のまま身につかない。耐えるのも一つの技術だが、社会で必要なスキル、あるいは社会を生き残るために必要な技術は「問題を解決する力」「辛いことをなくす力」だ。体罰ではそれが得られない。
 
何よりも社会において出会う辛いことは体罰のような「暴力」などではないケースの方がほとんどだ。「仕事で追い詰められ辛くなる」「周りと自分を比べると不幸に見え辛くなる」「人との軋轢で辛くなる」云々、それらの辛さの前に、体罰の教訓などあまりに無意味で、なんの価値もない。
 
愛のある体罰
 
体罰の問題でよく出てくる言葉として「そこに愛情があるのかどうかが重要だ」というものだ。私はこの言葉に関しても「愛があろうがなかろうが殴っちゃダメだよ」としか思わない。
 
と言うよりも殴った方に愛があっても殴られた方がそれを感じなければ、そこに愛があったとは言えないはずで、殴られた方がそこに愛があったと感じたかどうかを判定できるのは「殴られるという行為があった後」でしかない。
 
つまり下のように殴った後に分岐点があり、殴る段階では愛情の有無は不明なのだ。
   
殴る___愛情あると感じた→教育とされる
    L愛情がないと感じた→単なる暴力とされる

殴る前はまだ相手が愛情を感じるかどうか分からないのに、暴力を行使してしまうのはあまりにも危険なことだ。
 
これに対してよく上がる反論は「普段からの関係性が密になっていれば、殴る前でも愛情が伝わるかは分かる」というものだ。
 
しかし、よくよく考えて欲しい、普段の人間関係ですら「仲がいいから告白したらフラれた」とか「親友だと思ってたらただの友達の一人と思われていた」なんてことはザラにある。
 
殴る前でも愛情が伝わるから体罰を行うというのは、言うなれば「普段から親密な関係だから、突然キスをしてもいいと思った、愛情は伝わっているはず」と主張するようなもんだ。
もし相手が悲鳴をあげたら一発アウトの危険行為だ。
 
だから誰もそんな危険なことはしないだろう。
 
どんなに親密は関係性を築いていても、結局人間の腹の中は分からないと普通の大人ならわかっているのだ。
それにもかかわらず何故か体罰の問題となると「人間関係で腹の中が分かる」という趣旨の意見になってしまう。

 

何より仮に目算が誤って、殴られた方が愛情を感じなかったら体罰を行った人間はどう責任を取るつもりなのだろうか? 司法の裁きを受け入れる覚悟はあるのだろうか? 最悪の場合体罰を受けた人間は心に一生消えない傷を負ったり、自ら命を立つ場合もあるというのに。
 
困難だから教育となる
 
人に何かを伝える行為は楽ではない。特に言葉で伝えることは存外難しかったりする。伝えたい思いを言語化してしまうと、大事な部分が削ぎ落とされ結局「言いたいのはこれじゃないのに」なんてことが残ることも珍しくない。
 
人を殴った人間に何故人を殴ってはいけないのかはどうすれば教えられるのだろうか? 殴られた痛みは言葉でどう伝えられる? 辛さを耐え抜く力はどうすれば身につけさせてあげられる? 
 
これらを教えることは非常に難しい。だからこそ安易にそれらを教えられると錯覚する「体罰」「暴力」が頭をかすめるのだ。
 
しかしその困難性の向こう側にこそ本当の意味での教育がある。その困難を乗り越え、相手に届いた言葉、理解された論理は決して折れない、応用の効くツールとして残り続ける。
 
こういったこの先にも生きる力を与えることこそ真の教育だ。
 
だから誰かを教育したいと思う人間は人に伝える困難から決して逃げてはならない。
それが教育を行うことが仕事の教師や親ならなおのことだろう。

パソコンを整理していたら昔書いていた童話が出てきたパート2。

 

 

「ある画家の話」

 

 その男は子どもころから絵を描くことが何よりも好きだった。絵を描いているときだけが男にとって唯一、幸せな時間だった。

 

 しかし男は絵を描くことは好きだったが、絵を描く才能はまったくなかった。男が猫を描けば、人はそれを「まるで人間が四つ足で歩いているようだ」と言い、蝶を描けば「古ぼけた木の葉が二枚合わさっているようだ」と言って馬鹿にした。だから男は学校の授業でも、美術の成績はいつも一しか取ることができなかった

 

 そんな美術の才能に恵まれていない男だったが、彼は学校を卒業したら画家になろうと決心していた。周りは親でさえ画家になることは無理だと反対した。しかしどんなに反対されようとも男の決心は少しも揺るがなかった。

 

「俺は絵が好きなんだ。だから絶対に画家になる、絵を好きな人間が画家になる、それは至極当然なことだ」

 

 学校を卒業した後、男は家を出て一人暮らしを始めた。そして毎日バイトをしながら絵を描くという生活を送ることになった。しかし元来、絵が下手な男の絵は、どんなに描いても一向に売れることはなかった。生活は苦しく毎日の食事や、絵を描くキャンパス、筆、絵の具を買うのにも苦労した。だがどんなに貧しくても男はその生活を少しも苦には思わなかった。

 

「俺は今画家なんだ、大好きな絵を描いて生きているんだ!」

 

 そう思うと売れていない絵の山も、金が無い故に繰り返し塗りつぶして使っているキャンバスも、限界まで絞りきった絵の具のチューブも自分が画家であるということを示す、愛おしい宝物のように思えた。

 

 しかしこのときの男は知らなかったのだ、この世界は好きなだけでは続けられないことがあるということを、いや、好きなだけで続けてはいけないものがあるということを……

 

 それは、とても寒い冬の出来事だった。その日、男は公園の片隅にキャンバスを広げ、そこにいる人々をモデルに絵を描いていた。金のない男は、遠くへ行って美しい景色を描くことも、綺麗なモデルを雇って絵を描くことも出来なかった。それ故、彼は木々や鳥、猫や人が自然に集まる公園のような場所でよく絵を描いていた。

 男が公園でしばらく絵を描いていると、不意に自分を見つめる視線を背後に感じた。振り返ると視線の先にいたのは、画板を持って絵を描いている一人の少年だった。少年は男が自分に気がついたことを知ると、近寄ってきて、礼儀よく頭を下げて挨拶をした。

 

「あの、こんにちは」

 少年の丁寧な挨拶を受けた男は少し困惑しながらも「こんにちは」と挨拶を返した。

「ねえ君はなんで、俺の方を見ながら絵を描いてたの?」

 男は挨拶の後、続けてそう尋ねた。すると少年は少し思案した後、自分がどうして男を見ながら絵を描いていたのかの説明を始めた。

 

「あの、実は僕は学校の美術の課題で絵を描いていたんです」

「課題?」

「はい、その課題というのが少し変わった課題で、街の中で人のためになる仕事している人を絵に描けって課題なんです。他の子は警察官やお花屋さん、それにボランティアで募金活動をしている人なんかを絵に描きに行ったんだけど、僕はこの課題を聞いた時、真先にいつも公園で絵を描いているおじさんのことが頭に思い浮かんだんだ」

「俺のことが?」

 

 少年の言葉を聞いた男は困惑した顔を浮かべた。子どもが口にした学校の課題内容と公園で絵を描いている自分とが頭の中で結びつかなかったのだ。自分が絵を描いているのは絵が好きだからであって、決して人のためにどうだ、こうだと考えてやっているわけではなかった。むしろ自分のため、自分だけのために男は絵を描いていた。だから少年の言う課題の対象からは最も遠い、正反対の位置に自分がいる気がした。

 

男のそんな思いを感じ取ったのか少年はさらに説明を続けた。

 

「僕はおじさんの仕事がとても人のためになる仕事だって思うんだ。おじさんて、よくこの公園で絵を描いているでしょ? 僕はそれを時々見ていたんだ。それでいつも思ってたよ。おじさんの絵はすごいって」

「どこがだい?」

 

「だっておじさんは、この公園から見える普通の風景を描いているじゃない? この風景は別に特別でもなんでもない、でもおじさんが絵の具とキャンバスでこのなんでもない景色を描くだけで、それがまるで違って見える。ベンチに座っている人、噴水の前でぼうっとしている人、遊んでいる子ども、そんな人達をおじさんが絵に描くと、それだけで全員特別な人たちに思える。実を言うと僕は絵が下手で、美術の成績だっていつも赤点なんだ。」

 

 男は少年の描いている絵に目を落としてみる、確かにそれは酷い絵だった。絵に才能がないと言われ続けてきた男から見ても下手に思えた。

 

「僕は絵が下手だ、だからおじさんの絵が上手いか下手かなんて少しもわからない。だけど僕は絵を描くことは大好きなんだ。だから、今もいろんな本を見て、絵の論理っていうのかな? そういうのを勉強している真っ最中なんだ。だから、おじさんがこうして普通の景色を絵にすることの意味は分かっているつもりなんだ。おじさんはこんな当たり前の景色に、絵の具で色を付けるみたいに、意味を付け加えてるんだよね? それってすごく特別で意味のある、人のためになる仕事だと思うんだ!」

 

 少年のその言葉を聞いた男は、まるで何かで頭をガンと打たれたような衝撃を受けた。そしてそのままただ黙り込んだ。


 

 男は今まで、一度として絵を描くことの「意味」など考えたことはなかった。ただ好きな絵を描いてさえいればそれで満足だった。けれどこのとき少年に自分の描く絵には意味があると言われ、初めて絵を描くことの意味について考えさせられた。

 

「俺の絵に意味はあるのか? 俺は意味なんか考えて絵を描いていなかった……ただ好きなだけで描いていただけだ……俺の描く絵には意味なんてない」

 

 男の頭の中で何度も意味という言葉が反芻された。そして反芻すればするほど、これまで自分が好きという理由で描いてきた絵のどれもが薄っぺらく、中身のない物に思えた。

 

「俺は絵が大好きだった。でも俺はこの少年のように絵を勉強したことは一度としてない。努力なんて一度もしてこなかった……俺はダリやマグリットの絵のタイトルさえほとんど言えない、絵が好きなはずなのに……俺ってなんで絵が好きなんだっけ?」

 

 男は気がつけば画材や少年をその場に置いて、公園から逃げるように走り去っていた。「おじさんどうしたの!」という少年の声が後ろから何度か聞こえた気がしたが、彼は一度も振り返り帰らなかった。

 

 男はそれから絵を描くことをやめた……少年の言葉を聞き、初めのうちはコンセプトや描くべき対象を考え直し自分の絵に意味を付加させようと努力した。しかし今まで好きだという理由だけでしか絵を描いてこなかった彼にとってそれはとても困難な作業だった。だから男は次第に絵を描くこが嫌になり、気が付けば筆を置いていた。

 

 それから十年の月日が流れた。自称画家をやめた男は普通の会社員となり、筆を置いて以来、絵を描くことはもちろん一切の絵に関わることから逃げて生きてきた。

 しかし、ある日、男は会社の社長に誘われ、とある画家の展覧会へ一緒に行くことになった。絵から逃げてきた男は、展覧会へ行くことなど本当は断りたかったが、社長に行きたくないとは言い出せず結局、一緒に行くことになってしまった。あの日から、十年がたち、好きなことしかしてこなかった男は、嫌なこともする男に変わっていた。しかし代わりに、嫌なことを嫌だと言えない男にもなってしまっていたのだ。

 

 その展覧会を開いた画家は、まだとても若いのに多くの賞を受賞し、周りから天才と呼ばれる人間だった。男はそんな画家の絵を展覧会で見ていると「俺はこんな絵を描くことはできない、やっぱり自分は画家ではなかったんだ」という惨めな気分になった。

「おや、あの作品の中の人物なんだか、君に似ていないかい?」

 

 男が自身の過去を悔いながら、絵を見ていると不意に社長が、そんなふうに声をかけ一枚の絵を指差した。男は社長が指し示す絵にそっと目を向けた。そして、そこに描かれている絵に衝撃を受けた。

 その絵の中には確かに男によく似た人間が描かれていたのだ。いや、そこに描かれていたのは公園でキャンバスを広げ、寒さに身をふるわせながら、必死に絵を描く男の姿そのものだった。

 この展覧会を開いた若い画家はあの日、男に絵を描く意味を初めて考えさせた少年だったのだ。

 

「そうか、あの時の彼はあれから画家になったのか……きっと死ぬほど努力をしたんだろうな」

 全てを悟った男はそう呟くと、自分の目から涙がこぼれていることに気がついた。それは悲しみから流した涙でも、嬉しさから流した涙でもなかった。ただ絵の中の自分を見ているどうしても溢れる涙を止められなかった。

 絵の中の男は、今よりも貧しく、着ている服もボロ切れのような物なのに、太陽のような明るい笑顔を浮かべていた。その笑顔を見ていると涙が止まらなかった。

 

「この頃の俺は、こんなに笑っていたのか、あの日逃げずに真剣に絵に向き合っていたなら俺は今も、こんな笑顔を浮かべていられただろうか……努力を拒んでさえいなければ、俺は今も自分を画家と呼んでいただろうか?」

 

 そう言って涙を流す男の前に、置かれた絵のタイトルには『絵を描く画家』と書かれていた。男はその絵の中でだけは画家だった。

マツコ・デラックスってすごいなぁ〜

 

土曜日の午後、ぼんやりとテレビを眺めているとCMにマツコ・デラックスさんが映っていた。私はマツコ・デラックスさんが好きだ。

 

今や押しも押されもせぬ人気、芸能人なったマツコ・デラックスさん。彼女は素人の人が出る番組に多く出演しMCを務めている。時に厳しいツッコミや悪辣な言葉、一見すると罵詈雑言とも取れる言葉を口にするマツコ・デラックスさんだが、そのせいでテレビ越しに彼女を観る人の中には、

「マツコ・デラックスは偉そうだ!

「なんだ自分よりも年上の人にキツイ言葉をかけて!芸能人がそんなに偉いのか!」

「マツコ・デラックスは天狗になってる!

と感じる人もいるようだ。

 

しかし私がマツコ・デラックスさんに感じる感想は全くその逆で「マツコさんは本当に気遣いのできる、礼節をわきまえた人だな」とテレビで観る度に思う。

 

お礼の時には必ず

 

私がマツコ・デラックスさんが気遣いができる人だなと感じるのは人からプレゼントをもらった時の彼女の態度などからだ。例えば番組に出演した素人の方がMCの芸能人にプレゼントを渡したとしよう。そんな時、多くの芸能人が取る態度は以下の通りだ。

 

素人:これ実は僕の知り合いが作ったMCさんをイメージした着物なんですよ。

芸能人:わーーーきれーー!ありがとーー!大事に使うわーー!

素人:頑張って作ったそうです

芸能人:いや、わかります。本当にきれいだもん!本当にありがとうございます!

 

まあ、これでも悪くはないし、きっとこれを作った人もプレゼントした素人の方も嫌な思いはしないだろ。というより極めて常識的な判断だ。

でもマツコ・デラックスさんは一味違う!

 

素人:これ実は僕の知り合いが作ったMCさんをイメージした着物なんですよ。

マツコ・デラックス:うわーーありがとう!

素人:頑張って作ったそうです

マツコ・デラックス:いや、わかります。本当にきれい!なんて方が作ってくださったの?

素人:〇〇って友達です。

マツコ・デラックス:〇〇さん本当にありがとうございます!大事に使いますね。

 

そうマツコ・デラックスさんはこういう場合、常に相手の名前を言って感謝するのだ。しかも名前がわからない場合はちゃんと相手から聞き出した上で感謝をする。「え〜そうだっけ?」と思う人は是非、改めてテレビを観ていただきたい。

 

普段、キツイ言葉や、怖い態度が目立つマツコ・デラックスさんだが、こういう礼節を必要とされる場面では本当にしっかりとした態度で行うのだ。

 

潔癖気味なのに

 

テレビを観ているとマツコ・デラックスさんは少し神経が細いというか、繊細なところがある人だということがわかる。例えば彼女はサンドウィッチなどを作った際に人が手を置いて切った方は絶対に食べない。人が触れた食べ物というものに嫌悪感をかなり持っているようだ。まあ、それはわからなくもないし、自分も極力、人が触った食べ物は食べたく無い。

 

しかしそんなマツコ・デラックスさんが人の触った食べ物を手にとる場面がある。それは自分以外の人間もその食品を食べる場合だ。素人の人とスタッフの人が目の前で半分に切ったサンドウィッチを食べるそんな時、マツコ・デラックスさんは必ず自分から率先して、人が手を置いた方を手に取る。本来なら、彼女は嫌なはずなのだがそれを自分からやるのだ。こんなことからもマツコ・デラックスさんの人柄がわかる気がする。

 

距離感

 

また時折、マツコ・デラックスさんは「芸能人に対する態度と素人に対する態度があまりに違う!」と批判を受けることがある。

確かにマツコ・デラックスさんは明石家さんまさんや松任谷由実さんなどと接する態度と素人の人と接する態度は違う。ただこれは本来、当たり前のことだと言える。

 

なぜならテレビ番組を成立させるためにそれは必要な態度の変化なのだから。

 

芸能人は基本的にスキルとして「番組を成立させるトーク力」を持っている(一部を除く)、だからマツコ・デラックスさんは芸能人とテレビに出る際は適度な距離感でフラットに話していれば番組は番組の形で収まりがつくし、最悪トークが微妙でも「ゲストが〇〇さんならしかたない」とその芸能人のキャラやバックボーンを理由に番組に興味を持てる。

 

テレビにマツコ・デラックスさんと吉永小百合さんが一緒に出ていて「トーク弾んでねーから観ねー」とはならないだろう。その2人が出ているだけで人は番組を観るのだ。だから彼女が積極的に「番組を面白くする努力」「世間が求めているキャラクターを演じる努力」をしないでもいいのだ。

 

しかし相手が素人だとそうは行かない。素人の人には芸能人のような世間の人が知るバックボーンやキャラがない。だからマツコ・デラックスさんと素人の場合はトークがある程度、弾んでいないと番組は番組の体をなさないのだ。

 

そんな素人の人との番組を成立させるには、マツコ・デラックスさんが主体となって頑張るしかない。結果、必要になってくるのが「世間がマツコ・デラックスに求めているキャラを演じること」「面白いと思われるための言動」だ。

 

つまりは過激な言動やある種、横柄に見える態度も番組を番組として成立させるために必要なことなのだ。

 

最近は芸能人の起こした事件や不倫といった誠実さを欠く芸能ニュースが多く聞かれるが、マツコ・デラックスさんをテレビで見ると「なんか清々しいな」と気分がよくなる。

 

女性の権利

 

男女平等とは何か?女性の権利向上とはどういったことを指すのだろうか?そもそも女性の権利って今本当に低いのか?

 

最近、財務省のセクハラ問題や、山口氏の事件、電車の女性専用車両、me too運動など様々な要素から「男女平等」「女性の権利」について考えることが増えた。

 

しかしこの問題について何度考えてみても「このままでは一生、男女平等の世界なんて来ないし、女性の権利は正しい方向にでは向上しない」という結論に達してしまう。

 

そもそも女性の権利向上という言葉を聞いた時、多くの人が想像することはどんなことだろうか?一般的にこの問題に当てはまるのは「仕事上での権利の向上(ひいては社会的な地位の向上)」「不当な性的差別に対して屈しないための権利の向上」「男女平等で教育を受ける権利の向上」云々といったところか?もちろん他にも多くの権利問題があるが、おおよその人が想像するのはこの辺りだろう。特に多くの女性が今不便、被害を被っているのが「仕事上での権利の向上」「不当な性的差別に対して屈しない権利」に関連する問題だ。

 

一見するとこの二つは別の問題のように思える。しかし、これは男女平等、女性の権利の問題上共通している部分がある。例えばセクハラ問題に関して考えてみても、これは女性が管理職であったり、社会的に重要な地位につけていないことに端を発して起こっていると問題と言える。実際に私は女性社長が経営し、女性の管理職が多い会社の内部を見たことがあるが、その環境下では女性の権利がしっかりとしているので社内でセクハラ問題は起きていないという。

 

これは一つの会社の例だが、これが社会全体に浸透すれば、つまり「女性と男性が職場で同等の権利を得て管理職の数が男女平等と言える数字になる」あるいは「国会議員の数が男女平等の数字になる」などといういうことになれば自然と女性の権利は向上し、不当な性的差別を受けることは減る可能性は十分にある。

 

もちろん、これだけでは強姦など男が自身の身体の力を持って無理矢理に女性を性的に傷つける行為などは減らないという意見もあるかもしれない。しかし、これも女性の権利が向上し「権利を使うことになれること」ができれば「女性は事件をしっかりと警察機関に報告し性的な暴力に屈しない」「性的な暴力事件=警察が必ず動く事件」という認識が浸透して数を減らすことに繋がるはずだ。

 

少しだけ、簡略化して女性の権利向上問題を書いたが、上のように考えると「男女平等」「女性の権利向上」というのは全くの夢物語ではなく、そのうち実現するものように思える。

 

ちょっと待て!

 

上のように考えればなんか良さそうな雰囲気はある。しかし今の日本の女性の権利に対する動きや現状を見てみるととても上のような流れにはならないように思える、なぜなら今日本の社会が女性の権利を向上させるために取り組んでいるのは「女性に必要でない権利を与えらること」と「男性の権利を減らすこと」だからだ。

 

少しなファジーかもしれないが例え話をする。女性が社会に対して持っている権利が「3」で男性の持っている権利が「5」というのが今の日本社会だったとする。この状態を男女平等にする正当な方法は

①男女でなぜ「2」という数字の差が出るのかを分析

②何が足りないのかを突き止めそれを補充

③結果男性の権利「5」、女性の権利を「5」という状態にする。

ということで、これで初めて平等な状態になったと言える。

 

しかし今日本が行なっているのは

①男女で権利の差があると気づく

②とりあえず女性に何らかの権利を与える

③結果本来の欲しい権利3に別の権利が1加わった状態になる。

④それでもなんか平等ではないので男性の権利を削ってみる

⑤最終的に男性の権利「4」女性の権利「4(必要な権利3+別の権利1)」といった状態になる。ということだ。

 

これでは見せかけ上は男女平等に見えても本質は全く違うものになってしまう。

 

しかも、始末が悪いことに本来の必要な権利とは全く違う「+1」の権利は新たな差別や性的格差を産む可能性まであるのだ。

 

例えば痴漢から女性を守るたに与えられた「女性専用車両」は女性の権利を守るために必要なものに思える。しかし本当の意味で女性を性的な差別、被害から守るのは社会的地位を向上させることである。それを思えば女性専用車両は付け焼き刃の「取り急ぎやってみました」という程度のものでしかない。

 

そんな付け焼き刃の権利だから朝の通勤時間に女性しか使えない車両の存在に男性側から「なぜ同じ料金なのにこんなわがままが!」という声が聞かれたり「男性も痴漢冤罪から身を守るために専用車両を作ってくれ!」という意見の噴出に繋がるのだ。しかもそれらの意見に対して鉄道会社は「男性専用車両を作ってくれという利用者の声は聞かれていない」というのだから大変だ。これは、まさに女性に本来必要な権利ではないものを付け加えて、さらに男性の権利を減らしたといういい例だ。このような例は他にも多数ある。

 

さらに人間は一度手に入れた権利を手放しにくい動物でもある。この先、もし先に書いた方法で女性の権利が向上してもおそらく、彼女たちは先に手に入れた「+1」の権利は手放さないだろう。つまりはいずれは「男性の権利5」「女性の権利5+1」の社会が来るわけだ。これでは一生平等な世界は来ない。

 

手に入れた権利の使い方も大事!

 

さらに気をつけなくてはならないのは女性が手に入れた権利の運用方法に関してだ。先に書いた女性が社長で、管理職にも女性が多い社会は確かに女性には風通しがよく、セクハラのない会社だった。しかし、そこにいた男性社員からは「女性から「男なのに」と言われるとイラっとくる」「彼女がいるのかとプライベートなことを頻繁に聞かれる」「飲み会で肩を触られた」といった意見も聞かれた。これはまるで男女が逆転したセクハラ問題だ。

 

男性は今、セクハラ講習などで女性に対して「してはいけないこと」を学ぶ機会に恵まれている。無論それはまったーーーーく役立っていない!という現状があるのも事実かもしれないが、少なくとも社会全体で「女性へのセクハラはこういうものだ」と認識はできる状態にはなっている。

 

しかし女性から男性へのセクハラは学ぶ機会が無い分、社会全体でもそれがセクハラと認知できない状態にある。男性側もそれを不快に感じても「男がこんなことで文句を言ってもな......」と思って諦めてしまう。

 

これから上手くいけば女性は必要な権利を得ていくかもしれない。その時は合わせて自分が手に入れた権利との正しい運用方法も学ばなければ、今度は女性がパワハラ、セクハラの代名詞になってしまう。