パソコンを整理していたら昔書いていた童話が出てきたパート2。

「ある画家の話」
その男は子どもころから絵を描くことが何よりも好きだった。絵を描いているときだけが男にとって唯一、幸せな時間だった。
しかし男は絵を描くことは好きだったが、絵を描く才能はまったくなかった。男が猫を描けば、人はそれを「まるで人間が四つ足で歩いているようだ」と言い、蝶を描けば「古ぼけた木の葉が二枚合わさっているようだ」と言って馬鹿にした。だから男は学校の授業でも、美術の成績はいつも一しか取ることができなかった
そんな美術の才能に恵まれていない男だったが、彼は学校を卒業したら画家になろうと決心していた。周りは親でさえ画家になることは無理だと反対した。しかしどんなに反対されようとも男の決心は少しも揺るがなかった。
「俺は絵が好きなんだ。だから絶対に画家になる、絵を好きな人間が画家になる、それは至極当然なことだ」
学校を卒業した後、男は家を出て一人暮らしを始めた。そして毎日バイトをしながら絵を描くという生活を送ることになった。しかし元来、絵が下手な男の絵は、どんなに描いても一向に売れることはなかった。生活は苦しく毎日の食事や、絵を描くキャンパス、筆、絵の具を買うのにも苦労した。だがどんなに貧しくても男はその生活を少しも苦には思わなかった。

「俺は今画家なんだ、大好きな絵を描いて生きているんだ!」
そう思うと売れていない絵の山も、金が無い故に繰り返し塗りつぶして使っているキャンバスも、限界まで絞りきった絵の具のチューブも自分が画家であるということを示す、愛おしい宝物のように思えた。
しかしこのときの男は知らなかったのだ、この世界は好きなだけでは続けられないことがあるということを、いや、好きなだけで続けてはいけないものがあるということを……
それは、とても寒い冬の出来事だった。その日、男は公園の片隅にキャンバスを広げ、そこにいる人々をモデルに絵を描いていた。金のない男は、遠くへ行って美しい景色を描くことも、綺麗なモデルを雇って絵を描くことも出来なかった。それ故、彼は木々や鳥、猫や人が自然に集まる公園のような場所でよく絵を描いていた。

男が公園でしばらく絵を描いていると、不意に自分を見つめる視線を背後に感じた。振り返ると視線の先にいたのは、画板を持って絵を描いている一人の少年だった。少年は男が自分に気がついたことを知ると、近寄ってきて、礼儀よく頭を下げて挨拶をした。
「あの、こんにちは」
少年の丁寧な挨拶を受けた男は少し困惑しながらも「こんにちは」と挨拶を返した。
「ねえ君はなんで、俺の方を見ながら絵を描いてたの?」
男は挨拶の後、続けてそう尋ねた。すると少年は少し思案した後、自分がどうして男を見ながら絵を描いていたのかの説明を始めた。
「あの、実は僕は学校の美術の課題で絵を描いていたんです」
「課題?」
「はい、その課題というのが少し変わった課題で、街の中で人のためになる仕事している人を絵に描けって課題なんです。他の子は警察官やお花屋さん、それにボランティアで募金活動をしている人なんかを絵に描きに行ったんだけど、僕はこの課題を聞いた時、真先にいつも公園で絵を描いているおじさんのことが頭に思い浮かんだんだ」
「俺のことが?」
少年の言葉を聞いた男は困惑した顔を浮かべた。子どもが口にした学校の課題内容と公園で絵を描いている自分とが頭の中で結びつかなかったのだ。自分が絵を描いているのは絵が好きだからであって、決して人のためにどうだ、こうだと考えてやっているわけではなかった。むしろ自分のため、自分だけのために男は絵を描いていた。だから少年の言う課題の対象からは最も遠い、正反対の位置に自分がいる気がした。
男のそんな思いを感じ取ったのか少年はさらに説明を続けた。
「僕はおじさんの仕事がとても人のためになる仕事だって思うんだ。おじさんて、よくこの公園で絵を描いているでしょ? 僕はそれを時々見ていたんだ。それでいつも思ってたよ。おじさんの絵はすごいって」
「どこがだい?」
「だっておじさんは、この公園から見える普通の風景を描いているじゃない? この風景は別に特別でもなんでもない、でもおじさんが絵の具とキャンバスでこのなんでもない景色を描くだけで、それがまるで違って見える。ベンチに座っている人、噴水の前でぼうっとしている人、遊んでいる子ども、そんな人達をおじさんが絵に描くと、それだけで全員特別な人たちに思える。実を言うと僕は絵が下手で、美術の成績だっていつも赤点なんだ。」
男は少年の描いている絵に目を落としてみる、確かにそれは酷い絵だった。絵に才能がないと言われ続けてきた男から見ても下手に思えた。
「僕は絵が下手だ、だからおじさんの絵が上手いか下手かなんて少しもわからない。だけど僕は絵を描くことは大好きなんだ。だから、今もいろんな本を見て、絵の論理っていうのかな? そういうのを勉強している真っ最中なんだ。だから、おじさんがこうして普通の景色を絵にすることの意味は分かっているつもりなんだ。おじさんはこんな当たり前の景色に、絵の具で色を付けるみたいに、意味を付け加えてるんだよね? それってすごく特別で意味のある、人のためになる仕事だと思うんだ!」
少年のその言葉を聞いた男は、まるで何かで頭をガンと打たれたような衝撃を受けた。そしてそのままただ黙り込んだ。

男は今まで、一度として絵を描くことの「意味」など考えたことはなかった。ただ好きな絵を描いてさえいればそれで満足だった。けれどこのとき少年に自分の描く絵には意味があると言われ、初めて絵を描くことの意味について考えさせられた。
「俺の絵に意味はあるのか? 俺は意味なんか考えて絵を描いていなかった……ただ好きなだけで描いていただけだ……俺の描く絵には意味なんてない」
男の頭の中で何度も意味という言葉が反芻された。そして反芻すればするほど、これまで自分が好きという理由で描いてきた絵のどれもが薄っぺらく、中身のない物に思えた。
「俺は絵が大好きだった。でも俺はこの少年のように絵を勉強したことは一度としてない。努力なんて一度もしてこなかった……俺はダリやマグリットの絵のタイトルさえほとんど言えない、絵が好きなはずなのに……俺ってなんで絵が好きなんだっけ?」
男は気がつけば画材や少年をその場に置いて、公園から逃げるように走り去っていた。「おじさんどうしたの!」という少年の声が後ろから何度か聞こえた気がしたが、彼は一度も振り返り帰らなかった。
男はそれから絵を描くことをやめた……少年の言葉を聞き、初めのうちはコンセプトや描くべき対象を考え直し自分の絵に意味を付加させようと努力した。しかし今まで好きだという理由だけでしか絵を描いてこなかった彼にとってそれはとても困難な作業だった。だから男は次第に絵を描くこが嫌になり、気が付けば筆を置いていた。
それから十年の月日が流れた。自称画家をやめた男は普通の会社員となり、筆を置いて以来、絵を描くことはもちろん一切の絵に関わることから逃げて生きてきた。

しかし、ある日、男は会社の社長に誘われ、とある画家の展覧会へ一緒に行くことになった。絵から逃げてきた男は、展覧会へ行くことなど本当は断りたかったが、社長に行きたくないとは言い出せず結局、一緒に行くことになってしまった。あの日から、十年がたち、好きなことしかしてこなかった男は、嫌なこともする男に変わっていた。しかし代わりに、嫌なことを嫌だと言えない男にもなってしまっていたのだ。
その展覧会を開いた画家は、まだとても若いのに多くの賞を受賞し、周りから天才と呼ばれる人間だった。男はそんな画家の絵を展覧会で見ていると「俺はこんな絵を描くことはできない、やっぱり自分は画家ではなかったんだ」という惨めな気分になった。
「おや、あの作品の中の人物なんだか、君に似ていないかい?」
男が自身の過去を悔いながら、絵を見ていると不意に社長が、そんなふうに声をかけ一枚の絵を指差した。男は社長が指し示す絵にそっと目を向けた。そして、そこに描かれている絵に衝撃を受けた。

その絵の中には確かに男によく似た人間が描かれていたのだ。いや、そこに描かれていたのは公園でキャンバスを広げ、寒さに身をふるわせながら、必死に絵を描く男の姿そのものだった。
この展覧会を開いた若い画家はあの日、男に絵を描く意味を初めて考えさせた少年だったのだ。
「そうか、あの時の彼はあれから画家になったのか……きっと死ぬほど努力をしたんだろうな」
全てを悟った男はそう呟くと、自分の目から涙がこぼれていることに気がついた。それは悲しみから流した涙でも、嬉しさから流した涙でもなかった。ただ絵の中の自分を見ているどうしても溢れる涙を止められなかった。

絵の中の男は、今よりも貧しく、着ている服もボロ切れのような物なのに、太陽のような明るい笑顔を浮かべていた。その笑顔を見ていると涙が止まらなかった。
「この頃の俺は、こんなに笑っていたのか、あの日逃げずに真剣に絵に向き合っていたなら俺は今も、こんな笑顔を浮かべていられただろうか……努力を拒んでさえいなければ、俺は今も自分を画家と呼んでいただろうか?」
そう言って涙を流す男の前に、置かれた絵のタイトルには『絵を描く画家』と書かれていた。男はその絵の中でだけは画家だった。