暴力と教育

先日、日大の元監督と元コーチに関東学生連盟から除名処分を下されるというニュースが流れた。この日大の悪質タックル問題は事件発生から数十日経っても沈静化する気配を見せない。
一部ではこの悪質タックル問題以外にも、日大アメフト部では体罰などが常態化していたのではないかという報道まで出ている。
スポーツと体罰、教育と体罰、躾と体罰、この問題は日大のこうした事件以前から世間で議論されてきた。私は体罰に関しては「必要もないし、存在する意味もわからない」という考えを持っている。
今まで体罰も時には必要だと主張する人間とこういった問題に関して話す機会があったが、一度として、その意見に納得したこともない。
体罰が必要だと主張する人間の意見は、おおよそ以下の通りだ。
①体罰でしか教えられないことがある。
②本当に悪いことをしたのだと解らせるためには体罰がいる。
③辛いことを耐え抜く力を身につけるため。
④愛のある体罰ならそれは教育となる。
こうやって改めて自分で書いていても、なんともお粗末でまったく意味がわからない理論だ。
例えば①の「体罰でしか解らないこと、教えられないことがある」という意見だが、これを主張する人間に「体罰でしか教えられないものって具体的に?」と聞いてみると多くの人間は口ごもる。そして大抵が②の「悪いことをわからせるため」や③の「辛いことを耐え抜く力を身につけるため」のような答えを口にする。
しかし②や③のようなことは体罰がなくても教えられると思っている。というよりも体罰があるせいで、これらの二つが正しく教えられないとすら考えている。
まず②の「本当に悪いことをしたのだと解らせるためには体罰がいる」という主張だが、この論理は悪いことをした人間に体罰を行うことで本気で怒っていることや、痛みにより「これはやってはいけないことなんだ!」と解らせる効果があるというものだ。
しかしこれで分かるのは「この行為を行うと殴られる」ということだけで、なぜそれが「やってはいけないこと」なのかという根本は理解はできない。根本を理解していないと、全く同じケースは殴られるから避けようとするだろうが、それ似たケースはいけないことなのかどうかの判断がつかない。
なぜなら殴るという行為には論理がないからだ。
自分の子どもが女の子にひどい言葉をぶつけて泣かせたとする。そのことに親が怒り「そんなことを女の子にいっちゃダメ!」と殴った場合、子供は思うのは「女の子にひどいことを、殴られるのか」ということだけだ。
それをすると親が怒ることや、殴られることは分かる、でもなぜそれをしてはいけないのかという論理までは解らず「男の子にはひどい言葉を言っても殴られない」と誤った解釈をしてしまう可能性もある。根本を理解していないと応用が利かないのだ。
上は極端な例だが、してはいけないという論理を理解していないとこういうことは起きるのだ。大切なことは
本当に「怒っている」ことを解らせることではなく、その行為が本当に「いけないことだ」「悪いことだ」という理由を理解させることのはずだ。
痛みによる教育などまるで悪しき時代のサーカスの動物の調教のようだ。
これを言うと人によっては「いや体罰だけじゃなくてちゃんと論理をも教えるのが大切なんだよ!」と主張してくる場合がある。しかしそうなってくると「体罰でしか教えられないものがある」という前提が崩れてしまう。核となると部分を伝えるのが言葉なら体罰は必要ないはずだ。
というよりも、そもそも体罰でしか教えられないもがこの世にあるとするならば、その対象は子どもだとか大人に関わらずその「何か」を伝えるために誰に対しも体罰が行われなくてはならなくなる。だってそれでしか伝えられないのだから。
体罰をありだと主張してしまうと、会社や街中の至る所で「何か」を伝えための暴力が横行してしまう。それも男や女に関わらずだ。これは決して極端な例ではなく、その論に従うとそうなるという単純な話だ。
辛いことを耐え抜く力なんて身につかない
体罰をする理由としてもう一つ言われるのが辛い逆境を乗り切る力が体罰によって養われるというものだ。この発言は特に運動部などで体罰が行われる際に使われやすい。
しかしこれも冷静に考えればおかしな話だ。確かに人間には「馴れる」という力がある。嫌なことや辛いことがあっても、それが続けば「これはそれほど嫌じゃない」と脳が認識するようになる。
だがそれだけだ。なれるだけだ。そこで行われている理不尽さや不合理さ、暴力に耐性がつくだけだ。そしてその先の人生「あの頃よりはマシだ」という最低な基準として機能してする以外価値はない。それだってその過去を上回る辛さに出会えば、即座に価値がなくなる程度のものだ。
不条理や不合理を解決するため手段や方法、スキルなどは一切不明のまま身につかない。耐えるのも一つの技術だが、社会で必要なスキル、あるいは社会を生き残るために必要な技術は「問題を解決する力」「辛いことをなくす力」だ。体罰ではそれが得られない。
何よりも社会において出会う辛いことは体罰のような「暴力」などではないケースの方がほとんどだ。「仕事で追い詰められ辛くなる」「周りと自分を比べると不幸に見え辛くなる」「人との軋轢で辛くなる」云々、それらの辛さの前に、体罰の教訓などあまりに無意味で、なんの価値もない。
愛のある体罰
体罰の問題でよく出てくる言葉として「そこに愛情があるのかどうかが重要だ」というものだ。私はこの言葉に関しても「愛があろうがなかろうが殴っちゃダメだよ」としか思わない。
と言うよりも殴った方に愛があっても殴られた方がそれを感じなければ、そこに愛があったとは言えないはずで、殴られた方がそこに愛があったと感じたかどうかを判定できるのは「殴られるという行為があった後」でしかない。
つまり下のように殴った後に分岐点があり、殴る段階では愛情の有無は不明なのだ。
殴る___愛情あると感じた→教育とされる
L愛情がないと感じた→単なる暴力とされる
殴る前はまだ相手が愛情を感じるかどうか分からないのに、暴力を行使してしまうのはあまりにも危険なことだ。
これに対してよく上がる反論は「普段からの関係性が密になっていれば、殴る前でも愛情が伝わるかは分かる」というものだ。
しかし、よくよく考えて欲しい、普段の人間関係ですら「仲がいいから告白したらフラれた」とか「親友だと思ってたらただの友達の一人と思われていた」なんてことはザラにある。
殴る前でも愛情が伝わるから体罰を行うというのは、言うなれば「普段から親密な関係だから、突然キスをしてもいいと思った、愛情は伝わっているはず」と主張するようなもんだ。
もし相手が悲鳴をあげたら一発アウトの危険行為だ。
だから誰もそんな危険なことはしないだろう。
どんなに親密は関係性を築いていても、結局人間の腹の中は分からないと普通の大人ならわかっているのだ。
それにもかかわらず何故か体罰の問題となると「人間関係で腹の中が分かる」という趣旨の意見になってしまう。
何より仮に目算が誤って、殴られた方が愛情を感じなかったら体罰を行った人間はどう責任を取るつもりなのだろうか? 司法の裁きを受け入れる覚悟はあるのだろうか? 最悪の場合体罰を受けた人間は心に一生消えない傷を負ったり、自ら命を立つ場合もあるというのに。
困難だから教育となる
人に何かを伝える行為は楽ではない。特に言葉で伝えることは存外難しかったりする。伝えたい思いを言語化してしまうと、大事な部分が削ぎ落とされ結局「言いたいのはこれじゃないのに」なんてことが残ることも珍しくない。
人を殴った人間に何故人を殴ってはいけないのかはどうすれば教えられるのだろうか? 殴られた痛みは言葉でどう伝えられる? 辛さを耐え抜く力はどうすれば身につけさせてあげられる?
これらを教えることは非常に難しい。だからこそ安易にそれらを教えられると錯覚する「体罰」「暴力」が頭をかすめるのだ。
しかしその困難性の向こう側にこそ本当の意味での教育がある。その困難を乗り越え、相手に届いた言葉、理解された論理は決して折れない、応用の効くツールとして残り続ける。
こういったこの先にも生きる力を与えることこそ真の教育だ。
だから誰かを教育したいと思う人間は人に伝える困難から決して逃げてはならない。
それが教育を行うことが仕事の教師や親ならなおのことだろう。