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『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 沖縄ではまたしても、米軍兵による少女暴行事件が発生した。

 おっと、今、迂闊に「またしても」などと言葉を発してしまったが、事件の経緯が明らかになるにつれて、どうやら、「またしても」ではないようである。

 各所では一般市民レベルで、この事件に関する議論が活発化している。「鬼畜米兵」的な意見と、「のこのこついていった少女が悪い」的な意見とに二分され、互いに対立の様相を呈しているが、いずれも一応は真理であり、論点の置きどころが異なる以上、双方の意見が一致することはあるまい。

 私などは「どっちも悪い」で済ませてしまうところだ。事の軽重はさておき、これが最も的確な意見であると思うし、捉えている本質が異なる議論を前にして、両者の妥協点を見出そうなどと無駄な思考能力を使いたくないのだ。

 ああ、議論というものの何と面倒なことよ。

 何がしんどいって、論点が外れて議論が思わぬ方へ展開したり、噛み合わないまま堂々巡りになったりするのが耐えられないのだ。「もう、ええわ」という気になってしまうのだ。

 例えば、何かに激昂している御仁に向かって、「あなた、その言い方はないでしょう」と言ったとする。するとその御仁、「自分は間違ったことは言っていない」と主張する。もう、既にこの時点で論点が噛み合っていない。内容の是非を問うておるのではなく、「言い方の是非」を問題にしているのに、相手はどうあってもその齟齬を認識しない。これではどちらか、いや、自分側が折れなければ未来永劫にこの議論は収束を迎えない。

 明確な対立意見であれば、何とか論破してみせようという気にもなるが、論点がずれてしまったのではどうしようもないのだ。

 「人間の相互理解」とは、何とも高邁な言葉であるが、こと白熱した議論における相互理解などとは、最早仙人の境地に達した者でないと不可能なのかもしれない。
 風邪でダウンして、会社を休んだ。毎年ながら「ここ一番」をきちんと外して病に伏す自分を褒めてやりたい。

 インフル患者と、そうとは知らずに一緒に焼肉食ってたので、その感染を疑ったのだが、検査の結果、陰性だったので一安心。しかしこの検査、綿棒の長いやつを鼻の穴の奥へ突っ込みぐりぐりやるという悶絶モノで、辛かった。

 昨日、今日と休んでいるので、とにかく寝たきりヒッキーと化しているのだが、せっかく眠りに就いても、自分の鼾で目を覚ましてしまうのが、とてつもなく情けない。

 浅い眠りの中で、あれこれと夢を見た。睡眠中に見る夢とは得てして荒唐無稽なものであるが、休んで溜まった仕事を整理し処理する段取りを夢の中でつけていた。これは思うに、別の病気である。

 自分がトランペットを吹いている夢も見た。中学時代、本当は吹奏楽部に入りたかったのに、運動部に入らざるは男子の名折れ的な風潮があり、水泳部を選んだ過去がある。夢はその潜在意識によるものだろう。

 人生の後悔は諸々あれど、そのやり直しなんてめんどくさいことは断じて願い下げだが、今の人生に全く影響しないやり直しとして1つだけ叶うなら、ブラバン入部を所望すると思う。その道の人にはつまらぬ楽曲らしいが、J・スウェアリンジェンの『ロマネスク』が思い出の曲である。

 それを着うたフルでダウンロードし、エンドレスでかけたまま、今度こそは深い眠りを享受したい。
 この春、「JRおおさか東線」なる新線が開通する。

 始発駅である放出は、かつて勤務先があったところで、異動になってからはとんと御無沙汰であるが、新線開通と前後して駅やその周辺はすっかり変わったらしい。まぁ、人がいなくなったらその街が発展するというのは常の話なので、別にどうということはないし、むしろ結構なことである。

 だが、どうしても気になるのは、この「おおさか東線」というネーミングだ。

 なぜ「ひらがな」でなければならないのだろうか。「大阪」という漢字が読み書きできないほど、我々大阪人の民度は低いというのか。

 古く上代や中古には、『万葉集』や『古今集』なる歌集があった。漢字(正しくは万葉仮名)で書かれた前者が「ますらをぶり」とされるのに対して、国風文化が栄え、ひらがなが発明されて後に成立した後者は「たをやめぶり」と言われる。「たをやめ」は漢字を当てれば「手弱女」であるが、ならばこの「おおさか東線」は、男子禁制の全車女性専用車両からなる画期的な路線にでもなるのだろうか。

 ひらがなネーミングの際に決まって唱えられる文言に「お客様に親しまれるように」というのがあるが、かな表記であれば親しまれるというのだろうか。百歩譲って“愛称”なのであれば頷けなくもない。しかし例えば、地下鉄中央線と、それに直通する近鉄東大阪線改め「けいはんな線」に付けられた愛称である「ゆめはんな」が、一体どれほど利用者に浸透しているというのだろう。住宅の広告などには、近鉄線である奈良県内であっても「地下鉄中央線」と表記されるのが関の山だ。誰も親しんでなどいるまいよ。

 そもそも、何でもかんでも「ゆめ」をつければよいという安直な発想がいただけない。「ゆめはんな」然り、桜島線の愛称である「JRゆめ咲線」も然り。乗客にとって、この電車がUSJに到達するかどうかが問題であり、ゆめが咲こうが咲くまいが、全く関係のないことだ。大阪の大動脈、地下鉄御堂筋線が「ゆめうめだ」とか「ゆめなにわ」とかだったらどうだろう。商都大阪の中心に勤めるビジネスマンが、「弊社にお越しの際は、『ゆめなにわ』の本町駅でお降りいただき1番出口を……」などと解説する訳だ。考えただけでも背筋が凍る。ましてや「おおさか東線」は、愛称ではなく、正式名称である。これでしか表現のしようがないのが、あまりに残酷な話だ。

 聞けば、先般発表された全国学力調査の結果では、我が大阪はワースト5にランクインと言うではないか。それとこれとは確かに無関係であるが、某巨大掲示板で“大阪民國”などと揶揄される汚名をそそぐためにも、如何にも賢くなさそうな命名には、一考をも二考をも望みたいところだ。
 今年も箱根駅伝が終わった。

 総合優勝の駒大は、山下りの6区で区間12位と差が開いたものの、8区深津の区間賞の力走、そして9区堺ので1位に躍り出て、早大を制した。一方、昨年優勝の順大の往路ゴール目前、復路の大東大、そしてフィニッシュ間近の銀座での東海大の棄権と、大波乱のレースでもあった。3校棄権は大会史上初という。

 それはさておき、箱根駅伝フリークの一部が、「これを見なければ箱根は終わらない」と思っているであろう、エンディングの『I Must Go!』(歌:Tommie Young)が、今年は流れなかったのだ。

 以下、
Wikipediaからの引用 であるが、「番組のラストは、『I Must Go!』に合わせて競走の印象的だったシーンを流し、優勝校のアンカーがゴールテープを切る映像を最後に東京湾上空のヘリコプター映像へオーバーラップ。番組の制作協力系列局や関係機関、そして山間部の中継に関わった技術担当者をはじめとするスタッフの名前がエンドロールでクレジットされ、例年午後2時14分頃、のべ14時間にわたる番組は幕を閉じる」。そして、「このエンディング映像を見て、いわゆる『サザエさん症候群』になる視聴者もいると言われている」と記されているとおり、これを見ると、正月の終わりと仕事始めを思い、沈鬱な気分になるのだが、それもまた、新年の風物詩というものである。

 それが、今年は、ない。オープニングと同じ、映画『ネバーエンディング・ストーリー』のサントラに収録されている「喜びの飛行」なのである。

 違う。違うだろうよ。

 明日への希望に満ち満ちた楽曲を流された日には、残り1日の休みを、一体どういう気分で過ごせばいいと言うのだ。サザエさん症候群に浸ることすらも許されないと言うのか。

 とまぁ、正月の鬱気分が中途半端に終わったことを嘆いたみたのだが、仕事始めは5日。年始早々、土曜も日曜もなく馬車馬を強いられ、孤高の労働者であり続ける子年のスタートなのであった。
 大人の涙が苦手だ。

 元旦に『はじめてのおつかい』をやっていたのだが、やっぱり泣いてしまって、泣きすぎて吐き気を催したほどである。

 健気なる子どもの姿、とりわけ北海道の弁当屋の子と、岡山のダウン症の子は涙を誘われずにおれなかったのだが、それを見守る親が、感極まって涙を流すくだりで、涙腺決壊である。

 結婚式で新婦が母親からのサプライズの手紙を受け取るとか、送別会で仲間から花束もらうとか、葬式で個人の棺の周りに集まり最後のお別れをしているとか、卒業式で鬼教師だったはずの先生が男泣きしているとか、大の大人が脇目も憚らず泣いている場面って何かとあると思うんだけれど、どうしていいのか分からなくて、困る。

 子どものとき、「もう大きいんだから泣いたらダメ」などとよく諫められたものだが、大人たるもの、人様の前でおいそれと涙を流してはならぬという倫理観のなせる業なのか。

 いやいやたぶん、理性がどこかにいってしまって素の感情があらわにされることに、動揺してしまうのだろうと思うのだ。

 そうして結局、その場を切り抜けるために、無理やり笑いを取る手段に出てしまって、周りから怒られてしまうのであった。